雑感 20210221

 昨日はアクセスがすごく多かった。もしかしたら、昨日の観劇の感想を期待されているのかも知れない。でも今日も上演があるのだから、「楽しかった」「面白かった」以外には、余計な先入観を持たせてもいけないので、そんなすぐに書くわけないですよ。書かないかも知れないし。

 自分の好みは偏っているし、お愛想も下手だし、つまらなければつまらないと書くので、書かれる方にしてみたらいい迷惑だろう。書いた方も何か心苦しい気持ちが残る。アマチュアの芝居にムキになって批評するなんてことは止めた方が良い。と思うようになっています。(前非を悔いている?)

 

 過去の自分の書いた脚本を読もうとしたら、Yahoo!のボックスがサービス終了になっていることに気付いた! そうだったっけか。はて、その後、読めるように何かをどうにかしたかな? 忘れてしまった。2018年の1月に「JOY TO THE WORLD」を入れたところまでは確認したが…。 

 人に読んでもらおうという気になったのに、こういう状態だったとは。さて、どうにかしないといけないですな。どうすれば良いのでしょう? (中身のPDFは、ある)

 

 脚本、面倒だから、このブログに掲載しようかな。

 横書になってしまうので違和感はあるが。

 

 

 今の勤めが2月末で終了する。温かくなって雪も溶けるので、また歩き回るようにしたい。退職して初めの頃はその解放感に酔いしれる感じだったが、こうして勤務したり退職したりを繰り返していると、なんだかそういう解放感も薄れ、毎月の給与収入の有無の方が気がかりだったりする。年金だけでは生きていけないので。

1945年8月15日以降の韓国における農地改革(朝鮮半島における土地制度の変遷)番外 2

 併合前後の朝鮮半島の人口について

 

 昨年12月26日の記事1945年8月15日以降の韓国における農地改革(朝鮮半島における土地制度の変遷)その5 - 晩鶯余録でも書いているが、人口の推移について再考してみる。

 いろいろな資料に出ている朝鮮の人口は、それが同年の何月の集計なのか(たとえば5月か6月か12月か。国勢調査は10月)によっても微妙に違うし、内地人(朝鮮在住日本人)や外国人を含めた人数なのか、朝鮮人だけなのかによっても違っているので、比較するのに注意が必要だ。

 1910(明治43)年の朝鮮人のみの人口、1312万8780人とあっても、同年12月末日の人口は1311万5449人なので、前者はおそらく1911(明治44)年の前半くらいに締めた人数なのではないかと思われる。

 1913(大正2)年の朝鮮人のみの人口も、6月末のものは1489万8241人で、12月のものは1516万9923人となっている。

 下に例に取った1925(大正14)年についても、資料によっては朝鮮人のみで1902万人(国勢調査)と1854万人(統計年報)という二つの数字が見られる。今は国勢調査報告に従ってみる。

 

 前に書いたように、1907~1910年の間に毎年4%の増加があったことについて、それは戸口調査の精度が年々上がったための「見かけ上の急増」ではないかという疑いを拭いきれない。実際、国勢調査のあった年(1925、1930、1935、1940)には増加率が前後の年に比べて大きく上がっているからだ。

 それで、別の視点から考えてみた。

 併合前後の調査結果が信頼できないとしても、後年の資料(特に国勢調査の年の)を見れば、必ずこの間に生まれた人数の増減が反映しているだろう。人口ピラミッドがあれば一目瞭然なのではないか。

 ウェブ上で見つけられた人口ピラミッドは、1925(大正14)年の朝鮮総督府国勢調査を元にした絵はがきである。これに加えて国勢調査報告の生の数値も見てみた。

 

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大正14年10月1日現在の人口ピラミッド(単位は1万人に付)

  1925(大正14)年の国勢調査報告を見ると、併合から15年後の状況が分かる。

 当時の人口を1950万人(内地人・外国人含む)として、横目盛で100は19万5千人に当たる。ほぼきれいなピラミッド型をしているが、底辺、最下段が突出しているのは、幼児死亡率が高かったせいだろう。1926~1930年の嬰児死亡率は男児25.2%、女児23%という資料がある。(「日帝植民地期は朝鮮人の健康にどのような影響を及ぼしたのか―植民地近代化論の虚と実」黄尚翼、李恩子、2015)

 

 まず20~24歳の年代が男女ともに少ないのが分かる。この年代は、ほぼ1901年~1905年の生まれに当たる。日露戦争の時期である。1904年には旱魃もあったらしい。

 国勢調査のあった年のうち、1925(大正14)年、1930(昭和5)年、1935(昭和10)年の統計を見ることができたので、5歳刻みでの変化を読み取れるのではないかと考えた。

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 男女に分けてあって見にくいかもしれない。

 1925年の資料については、14歳以下をひとまとめにしたものしか探せていない。

 下の人口ピラミッド(男性のみ)では、3回の国勢調査結果をおおよそのグラフにして重ねてみた。1925年の14歳以下の3段階は、絵はがきを見ておおよその目分量でグラフを写した。基本的に人口は増加の傾向にあるので、1925年よりも1935年のグラフが右に出張る。色を変えているが分かりにくいだろうか。

 1925年に20~24歳の世代は、1925年以降1935年までは自然な減少をしていると見えるが、1930年、1935年と経るにつれ、5年前の同年代より少なくなっていく。

 1924年以前1901年までの間に大きな減少要因があったはずだが、今これ以前の資料がないので分からない。だが、そもそも出生数が少なかったか、乳幼児期の死亡率が高かったのだろうという推測はできる。それが旱魃日露戦争の影響だったということか。

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 1894(明治27)年~1895(明治28)年の日清戦争東学党の乱(甲午農民戦争)の時期の方が朝鮮民衆への影響が大きかったように思うが、統計上は日露戦争期ほどの大きな影響が見られないようである。

 

 1925年に5~9歳の年代、つまり1916~1920年生まれの人数も極端に少ない。5年後のグラフを見ると前の同世代との差が小さかったり、それより少なかったりする。コレラスペイン風邪の流行、米価騰貴、三一独立運動などの影響ではないだろうか。幼児に限らず成年も減少したのだろうが、その影響を上の図から読み取るのは困難である。

 上にも引用した資料(「日帝植民地期は朝鮮人の健康にどのような影響を及ぼしたのか」2015)によると、1919~1920年に朝鮮で伝染病(コレラ)が大流行した。分かっている限りで4万人ほどが罹患し、2万4800人ほどが亡くなった。致死率60%は怖い。コレラなどの感染症は毎年のように流行したが、この両年は全国的な大流行であった。(「植民地朝鮮におけるコレラの大流行と防疫対策の変化―1919年と1920年の流行を中心に―」金穎穂『アジア地域文化研究№8、2012,3』も参照した。

 別に月別死亡率の統計も掲載されているが、それを見ると1918年の死亡率が突出して高いことが分かる。 年齢別の統計を確認したい。

 

 総人口(朝鮮人のみ)の推移を統計年報の数字でみると、

  1915年 1596万人 (前年より34万人増加)

  1916年 1631万人 (35万人増加)

  1917年 1662万人 (31万人増加)

  1918年 1670万人 (  8万人増加)  

  1919年 1678万人 (  8万人増加) この2年間の増加が極端に少ない。 

  1920年 1692万人 (14万人増加)

  1921年 1706万人 (14万人増加)

 

 上の人口ピラミッドではこの世代の人数が正確に表現されていないが、1925年から1930年までの減少は多くなかったようだ。

 1歳毎の統計もあるので、それを細かく見れば何か分かるのかも知れないが、この辺でひとまず措くことにする。

 

 とりあえず、天候などの自然条件、伝染病の蔓延、戦争・内乱などいろいろな影響を受けた世代もあるが、人口ピラミッドが裾広がりであることから、併合期以降の人口は増加(出生率の増加、幼児死亡率の減少、平均余命の伸長)していると言えよう。

 

 1906(明治39)年の人口について、592万8802人とか710万人とかの資料があるが、これらは正しくないことが分かる。国勢調査の結果を見れば、1925(大正14)年の時点で1905年以前生まれの人が990万1158人いたことが分かるからである。600万人とか700万人だった人口層が、19年後には減りこそすれ、990万人に増えるわけがない。

 

 一度UPしたが、いいかげんだったので大幅に改稿した。

 人口について、下記の頁で再考しています。

1945年8月15日以降の韓国における農地改革(朝鮮における土地制度の変遷)番外5 - 晩鶯余録 (hatenablog.com)

雑感 2021年2月6日 鬼桃太郎 叔母の葬儀

 青空文庫尾崎紅葉作の『鬼桃太郎』(1891(明治24)年に博文館から幼年文学叢書の一つとして刊行されたもの)を読んだ。絵草紙風で、文字は活字で版木に彫ったわけではないだろうが、挿絵が恐ろしい。桃太郎に財宝を略奪された鬼が島の王は、復讐を企て勇者を募集する。かつて王宮の門番だった鬼の爺婆が、日本の桃太郎に倣って川から大きな苦桃を拾ってくる。切ってみると中から屈強な鬼の若者が出てくる。すぐに王の前に行き、桃太郎退治に行くことになるが、金棒と髑髏を与えられて出発する。やがて黒い毒竜が飛んできて、日本で桃太郎らに殺されている蛇たちのために仲間になりたいというので、髑髏を与えて家来にする。さらに毒竜は日本の桃太郎に倣って犬・猿・雉に相当するよう、大狒狒と大狼を呼んだ。こうして鬼桃太郎たちは雲に乗り日本を目指す。

 いやもう凄い迫力で、これは「怪獣大戦争」か「ゴジラ対メカゴジラ」になるだろう。さすがの桃太郎も彼らにはかなわないのではと心配するほどである。

 ところが、鬼たちの乗った雲はうまく日本に到達できず、海の上を行ったり来たり。さすがの雲も薄れ千切れて、狒狒と狼は穴から海に落下しワニの餌食になってしまう。怒った鬼桃太郎は毒竜と喧嘩になり、竜は四つに引き千切られてしまうが、鬼も

足場あしばうしなひ、小石こいしごとく眞一文字まいちもんじ舞下まひさがりて、漫々まん/\たる大海だいかいへぼかん!

 

 「なんじゃそれは」という結末だが、「人間桃太郎」対「鬼桃太郎」の激戦を期待しただろう子供たちも、だまされた気分になったかもしれない。悪党は仲間割れして自滅するという教訓なのだろうが。

 

 鬼の側から見た桃太郎のお話。桃太郎を加害者・侵略者、鬼を被害者と見る立場には、人間と鬼を同等に置く考えがあるのだろうが、勧善懲悪の世界にはそんな平等・公平性は無い。(高畠町出身の浜田広介『泣いた赤鬼』1933、は異色)

 当時の子供たちは、鬼桃太郎が(海に落ちずに)日本にやってきたら、どうしようと考えただろう? あなただったらどうしますか? 

 

 

 

 

 叔母の葬儀があった。

 今年95歳になるので数えで96歳となっている。自分の父の妹に当たる人で、末子である。1926(大正15)年の生まれで、長く専売公社に勤めてタバコの製造や事務にあたっていた。自宅は円応寺町だったので、歩いて今のヤマコービルの場所にあった専売公社に通った。北から南へ真っ直ぐの道だが、途中に第一高等女学校・女子師範学校があり、行き止まりだった。そこから細い道をくねくね通って駅前の通りに出ると専売公社だったと言っていた。今、市民会館の東側にある道は、終戦直前に空襲に備えて女学校の校地を横切って通したものである。

 仕事は定年前にやめていたと思うが、其の後は詩吟などの趣味にうちこんでいた。

 最近は、足が不自由なこともあって、よく転んでは骨折するので、施設に入所して個室で暮らしていたが、この疫病流行のため、一度しか挨拶に行けなかった。今、病院・施設は外部からの感染を非常に警戒していて面会はできないのだ。

 聞けば、癌を患っていたということであるが、本人には告知していなかったそうだ。

 

 通夜も葬儀もセレモニーホールで行われたが、皆マスク姿。消毒液とアクリルのパネル。席は密を避け、お茶も会食も一切無し。お包みをいただいて帰るばかりだった。

 なんというご時世か!

 遺影は先に亡くなった夫と同じ時に並んで撮影したもので、遺影となってもお二人は寄り添ってこちらを見ることになる。

1945年8月15日以降の韓国における農地改革(朝鮮半島における土地制度の変遷)その9

 「韓国における農地制度の変遷過程と発展方向」から

 ③ 併合以後の土地制度の続き

 

 「当時の土地調査事業は、申告主義を原則としたものであったために、1)実際の耕作者であった多くの農民は、期限内に申告することができず、膨大な朝鮮王朝の所有地が日帝朝鮮総督府の所有地として転換された。土地調査事業の結果、2)我が国の総土地面積の中で、国有地は6%に過ぎず、残りの94%は私有地として確定された。また、土地地主階級として登場した両班官僚層は、全農家の3.4%、全体農地の50%を占めることになった。」

 

 下線部 1) と 2) について。膨大な朝鮮王朝の所有地が日帝朝鮮総督府の所有地として転換された」とあるが、2)では「土地調査事業の結果、国有地は6%に過ぎず」とあるので、いささか表現に矛盾を感じる。

 前回、「宮庄土」について書いたが、「駅屯土」についても見てみよう。簡便に、岩波新書『日本統治下の朝鮮』山辺健太郎1971)から引用してしまおう。

 

 「屯土は、軍屯田と官屯田で、軍屯田が軍需、兵糧、将校兵士の給料にあてた土地、駅土は公文書の伝達、公用官吏の旅行、宿泊の費用、官物の運搬にあてるための土地で、この両方とも農民が耕作し宮内府内蔵院が小作料をとっていたものである。」

 「駅屯土として国有地になったのが、一九一二年(大正一年)で一三万四〇〇〇町歩余(これはその後もふえている)、こうして耕作者が土地を失い、旧官僚の土地収奪が法的に公認されたのである。朝鮮農民の没落はここにはじまったといっていい。」

 

 『土地調査事業報告書』からも引用しよう。

 「駅屯土中には国有に属するものと民有に属するものとあり。屯兵或は駅卒をして起耕せしめたるもの、従来の国有地及籍没地を付属せしめたるものの如きは国有に属し、単に民結の徴収を移したる土地の如きは依然民有と認むべきものなり。しかるに年所を経るに及び是等の土地は何れも駅屯土と称せられたるを以て、僅かに屯税の相違に依りて其の所属を区別するの外なきが如き状態と為れり。随て其の後各屯土に対し、一律に同額の屯税を徴せんとするが如きことある場合に於ては、人民は其の都度之に反抗し騒擾を為すを例とせり。」

 「税率の調査は紛争地の認定に対し重要なる事項の一なり。対国有地紛争事件の多数は税制の不備に基き、納税が国有地小作料なりや将又民有地に対する結税なるや不明なるに因り、両者の間に其の見解を異にし、多年紛争の儘推移したるものなり。即ち官庁側に於ては従来国有地として管理し国有地小作料を徴収し来りたるものなりと主張し、之に対する相手方人民の主張は、紛争地は年年一般民有地に対する地税と同率の結税を納入し来りたりと謂うに在り。」

 

 13万4000町歩の駅屯土小作人は何人いたか? 33万2000余人ということなので、今、『報告書』のような問題を無視して単純に平均すると、一人当り耕作面積は、4反となる(12万町歩とすれば3反6畝)。それは零細小作人である。駅屯土は、小作料よりやや高値ながら10年割賦で分譲されたようだ。小作人はこれを買い取って自作農となる道があった。耕地の生産性を上げれば可能だっただろう。だが、1934(昭和9)年の「時事新報」に「小作令(農地令のことだろう)」について次のような記事がある。

 

 「小作権の移転が至極容易に行われるであろうことは考えられる。何故なれば相互契約で済む小作権は同姓同名の多い鮮人間では秘密裏に移転し得る。その結果は結局元の無一物の鮮人農夫を造り出す事は明らかだ。その例として約十年程以前、駅屯土十万余町歩を、小作料よりやや少し高い位の十ヶ年年賦で分譲した折、多数の自作農民存在が出来たが、現在殆ど一町歩の土地を持った者もない有様である。」

 

 これは国有地となった駅屯土を、従来の零細な小作人を自立できる自作農にしようとして優先的に分譲したものと思われる。そこで1町歩以上の土地を持つ自作農となったが、10年間それを維持できず、切り売りしたか、借金の形にとられ、再び零細化したというのだろう。これは総督府が農民の土地を奪ったということになるのだろうか?

 

 

 下線部 2) の、「地主=両班官僚層、3.4%」について

 1914(大正3)年から1930(昭和5)年までの全国の地主・自作・自小作・小作の割合を見てみると、

  地主は1914年の1.8%から1923年以降の3.8%まで増加していく。

   (3.4%というのは土地調査事業終了直後の頃の値である)

  自作は同じく22%から1930年には17.6%に減少していく。

  自小作は同じく41.1%から31%に減少していく。

  小作は同じく35.1%から46.5%に増加していく。

 

 「地主」の実態が、地主=両班階級であるとする。且つ「人口の半分を両班階級が占めていた」というならば、地主・自作の全てと自小作の大半に当たるのか? 両班は自分では耕作しないから、耕地を持たない(他の収入がある)両班もいたのか? この辺の統計がまだみあたらないので良く分からない。

 

 全羅南道の1922(大正11)年の統計では、1町歩未満しか所有しない者が地主の58%を占める。とすると、地税を金納で負担するには、こんな零細地主(没落両班あるいは名ばかりの両班とみてよいか)が生き残れたとも思われない。大地主に買い取られ統合されて、小作人(あるいは中間小作)となったのではないか。

 

 旧来の相当な地主で由緒ある両班が、いくらかの資本を元手に土地を買い集め、大量の米を日本に輸出して資本を蓄積し、財力を付け、子弟を日本に留学させて近代経済の知識を学ばせた。その世代が急速に民族資本家・起業家へと育っていったのだ。それは地主の中でもごく少ない割合だっただろう。そして彼らは旧来のごとく小作人に厳しい地主であったようだ。これは、カーター・J・エッカートの『日本帝国の申し子』(草思社2004、原書は1991)の受け売りです。

 

 一方、小作人にしても一町歩未満を小作する者が47%近くである(全羅南道1922)。一定の小作地を持たない雇用労働者も10%いる。このような全くの労働者階級はもちろんのこと、3町歩未満の小作人が、近代的な農業経営のように、借地して産業化し、利潤を生んで資本を形成するというようなことが出来ただろうか。労働者の生む利潤が小作料として搾取される以上、将来性は無かっただろう。

1945年8月15日以降の韓国における農地改革(朝鮮半島における土地制度の変遷)その8

「韓国における農地制度の変遷過程と発展方向」

 ③併合以後の土地制度 続・続

  下線部1)の後半、「膨大な朝鮮王朝の所有地が日帝朝鮮総督府の所有地として転換された」について、の続き。

 

 「国有地創出」と「武装調査団」という説明について

 

 紛争地調査の様子

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 画面下に標杭が立っているが、1本は仮地番地目を標示したもので、他の9本は所有権主張者の名が書かれている。一つの土地にこれだけの紛争が重なっていた。調査班は申告書等の書類を持ち、制服を着ている。左から5人目の人物はサーベル様のものを持つ警察官か? 子供が写っているのが面白い。

                     (朝鮮総督府『朝鮮土地調査事業報告書』より)

 

 話が次々とずれていくようにも思うが、前回引用した「植民地下における土地調査とその性格」(全雲聖・上野重義、1987)という論文を読むとどうしても触れておきたくなった部分がある。まず、国有地について以下のように書いてあった。

 

 「土地調査事業の必要性  第1に、植民地統治のための租税収入源を確保する必要があったこと、第2に、土地調査事業以前に取得されていた日本の商人資本の土地占有を登記制度の導入によって合法化する必要があったこと。1906年以前にも主に日本人の土地家屋の売買と所有権を法的に保証する土地家屋登明規則があったが、不十分であったためである。第3に、国有地を創出して総督府所有地に編入し、急増する日本人移民に対する払い下げ用地を確保するためである。以上のうち、とくに重要な点は登記制度の確立によって土地所有の近代化と財政の近代化を図り、総督府の財政収入を確保するためであったと考えられる。」

 

 下線部の「国有地の創出」という表現は、「隠結や未墾地の発見」という以上に、「民有地を奪って国有地にした」という意味合いを持たせているようである。しかしそれは創出ではなく「土地私有制」の過程で「原所有者」を確定する作業をした結果でしかない。原所有者を確定するためには、各自の申告を基本とする他にどんな方法があっただろうか。(「永賭」と呼ばれる制度が曲者のように思うが今説明できない)

 日本人移住者(移民)への農地供給については別に書くつもりだが、東洋拓殖などへの国有地払い下げに基づく事業は必ずしも成功したわけではなく、土地が換金可能となったために抵当とされ、個別に朝鮮人農民から日本人に流れてしまったものの方が多かったようだ。

 その他の、租税収入の確保とか登記制度の導入などは、近代国家として当然必要なことだっただろう。

 

 次に気になったのは、土地調査事業について「武装調査団」という記述がある。調査には書類整理などの内業班と実地調査の外業班があった。

 

 「朝鮮総督府内臨時土地調査局を新設し、そのもとに「外業班」という武装調査団をおいた(愼鏞廈、1982)。武装調査団は土地調査局出張員及び警務官憲を以て構成され、現地で面長(村長)、里・洞長(大字)、地主総代及び主要地主を加えて土地調査を行った。/土地調査出張員は土地調査事業を実施するために特別に訓練された調査員であり、日本人調査員と韓国人補助員から成る。彼らも軍警の制服を着用し時には武装させられた。事業に対する韓国農民の反対斗争を弾圧し、出張員の身辺保護をするのが警務官憲の任務であった。当時義兵の武力抗争が高まっていた時期であり、土地調査事業の実施には憲兵警察が不可欠であったのである。」

 

 当時の写真を見ると調査員、測量員は(内業も含めて)皆制服を着ていて、確かに警察官のようにも見える。しかし、武装してはいないだろう。(下の追記を参照)

 警察官の護衛が付く場合もあったが、それは、併合直後の時期でもあり、義兵というパルチザンや強盗団の危険が予測される場合に対処するためであって、常に農民を威嚇するような目的ではなかっただろう。下は内業の様子だが、制服が見える。朝鮮服の人もいるようだ。

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 『朝鮮土地調査事業報告書』には以下のような記述が見られる。

 「土地調査を開始すべき地方決定し、土地申告の地域及期間を告示せられたるときは、外業班に其の担当区域の指定を為し、当該道長官に調査の開始を通知し、警務部長に本局出張員の身辺保護を依頼し

 「予め日を期して、一郡毎に面長、洞里長、地主総代、及重なる地主を一定の場所に召集し、庁当局者、警察官憲及当該地方を担当すべき準備調査監査員列席の上、土地調査の趣旨・方法、地主の義務、土地調査測量の順序等に関し詳細なる説明を為さしめ、同時に土地調査事業説明書、土地申告心得、地主総代心得及地主に対する注意書を配布せしむ。」

 「警察官憲に対し、従事員の宿舎設置に関し尽力を依頼する」

 

 もちろん当時は武断統治下にあって、総督府では警察と憲兵が一体化しており、各道の警務部長と憲兵隊長は同一人(軍人、佐官)の兼任だった。警察と憲兵の管轄は地域的に別れていて、警察官の常駐しない地域では憲兵が護衛の任にあたったのだろう。

 

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 大韓帝国の警察官(wikipediaより)     右が戦前大正・昭和期の日本の警察官制服(立襟五つ釦)

 明治時代は日本も上のような制服だった。  左は戦後の制服。終戦直後で両方使用されていたようだ。

 

 一方、『報告書』では、最後の方で「遭難」という項目を立て、調査中の事故例を記録している。その中には奥地に分け入って毒蛇に噛まれたとか、熊に食われたとか、山火事に遭ったとか、一人で行って行方不明になったとか、川に流されたとかの例が書いてある。強盗に捕まって隙を見て逃げ帰ったという例が一つあるが、これを見ても特に戦闘があった様子は無く、調査班が常に武装していたわけではないと思われる。(下の追記を参照)

 また、自画自賛的ではあるが以下のような記述もある。

 「古来朝鮮に於ては土地の丈量を行いたること既に一再に止まらず。而も之を以て悉く租税誅求の手段と為したるが為、本事業開始の際に在りても人民の之に対する感想良好ならず。民心動もすれば疑惧に傾き、流言蜚語の伝えらるること亦少からざりき。是を以て本事業趣旨の周知に関しては準備調査の当初、最力を之に注ぎたり。為に作業に当り甚だしき支障に遭遇したることなきのみならず、本事業の半途以降、一般人民は調査済の地方に於ける状況と効果とを伝聞し、喜びて其の権利義務を履行し、又進みて出張員の業務を援助し、速に調査の終了せんことを希むに至れり。」

 

 

〔追 記〕 朝鮮総督府の官吏・教員とサーベルについて

 趙景達『植民地朝鮮と日本人』岩波新書2013)によると、

  「朝鮮人には武器に類する刀剣の所持を禁止する一方で、威嚇と身分標識の装置として、憲兵警察だけでなく一般の官吏や教員までもが制服の着用とサーベルの帯剣を義務づけられていた。」

  とある。土地調査局の吏員たちは、制服は確かに着ているが、サーベルは義務だったのか?

 義務とまでは言わなくても、軍人上がりの教員などは帯剣していたという記事があった。1919(大正8)年6月、三・一独立運動時の『時事新報』記事「朝鮮統治の現状(一~八)」によると

 

 「武官は兎角サーベル政治を好むの癖がある、現に今日朝鮮に於て文官である司法官や学校教員迄が自然に武官政治に化せられて帯剣して居るではないか。」

 

 「我官憲の鮮人に対する態度は略ぼ上述の通りであるが我在留邦人の態度も亦一般に頗る横暴不親切である、彼等は兎角朝鮮人を蔑視し不法に彼等を待遇するの傾きがある、近頃も朝鮮内地を旅行して帰って来た人の話に郡山の附近で一邦商が孱弱い一朝鮮婦人を捉え、物を盗んだと云う口実の下に、彼女を路上の立木に縛り着け而して自分の伴れて居た番犬を唆しかけて彼女の手足に咬み付かしめ、彼女が悲鳴を揚げて泣き叫んで居るのを素知らぬ顔で見て居ったと云う、又某鮮人の直話に拠ると邦商の一部には総督府の官憲と結託して朝鮮人に金銭を貸し与え其間に随分不当の利益を貪る者もあると云う、例えば高価な土地や建物を抵当として僅か許りの金銭を融通し期限に為って金を返済して来なければ如何に其鮮人が延期方を哀願するも直に差押え処分を決行し其土地や建物を奪い取ってしまうと云う、殊に甚だしいのになると、返済期限を例えば某日の正十二時迄と定めて置きながら自分の時計の針を一時間ばかり進めて置き、返済人が丁度正十二時に返済に来ても自分の時計が既に一時に為って居るからと云って契約の不履行を責め結局土地や建物を巻き揚げてしまう 其他朝鮮内地を廻って居る邦商の中には安い粗悪な品物を誤摩化して高く押売する者も少くないことは申す迄もないと云う」

 

 この記事の下の方の内容(時計の誤魔化し)は、山辺健太郎の記述と一致する。よく話題にされたエピソードなのだろうが、もともと伝聞のようだし、話がよくできている感、無きにしも非ず。サーベルは出てこないが引用してみた。

 

 「某朝鮮名士の談に拠ると朝鮮内地に於ける普通学校(小学校)の教員は大抵軍人上りで彼等は皆サーベルを腰にして教場に臨むと云う事である、帯剣は教員の威厳を保つ手段の積りかも知れぬが、斯くの如きは恐らく世界教育界他に見ることを得ざる現象であろう、現に朝鮮在住の外人は此の現象を見て頗る苦々しく思い又当局の政策の浅薄であることを憫笑して居ると云う、而して彼等教員は生徒に向い口癖の様に「汝等は陛下に忠良なれ、陛下の御恩を忘るる勿れ、然らずんば此のサーベルを以て切るぞ」と威嚇するのみならず、若し其際少しでも側目をして居る者があるとか或は私語して居る者があると、直にサーベルで酷く打擲することすら往々にしてあると云う、且つ余りにクドクドして忠君を説き立てるので生徒の耳には爛熟し過ぎて却て厭気さえ促すの結果を呈して居ると言う者もある 斯くては折角の忠君論も説くに其道を以てせざるが為めに反対に不忠の人を養うの弊に陥らざるを得ない」

 

 これも伝聞だが、「名士の談」とあり、こういう軍人上がりの教員は実際いただろうなと思われる。

 

 西川清『朝鮮総督府官吏 最後の証言』桜の花出版2014)を見ると、1940年代にはスーツだったり、国民服を着ている写真はあるが、一般官吏が警官のような制服にサーベルという写真はないので、おそらく1910年代の武断政治時代に比べ、状況は大きく変化したのだろう。

 金達寿『朝鮮ー民族・歴史・文化ー』岩波文庫によると、武断統治下では

 「軍人でない官吏や教員まで制服を着用し、腰に剣をさげ、専ら威圧によって朝鮮人を屈服させようとした。」

 が、三・一運動の後、

 「総督を武官に限る制限が廃され、憲兵警察に代って普通警察となり、官吏、教員の制服帯剣はやめられた。」

 とある。官吏の制服帯剣は制度化されていたのか?

 

1945年8月15日以降の韓国における農地改革(朝鮮半島における土地制度の変遷)その7

 土地調査の様子

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  一筆地調査の様子。右から二人目の人物の足元に打ち込んであるのが標杭。

                         (朝鮮総督府『朝鮮土地調査事業報告書』より)

 

「韓国における農地制度の変遷過程と発展方向」

 ③併合以後の土地制度 続

 

 下線部1)の後半、「膨大な朝鮮王朝の所有地が日帝朝鮮総督府の所有地として転換されたについて。

 

 朴慶植の書くところでは

「多くの韓国政府・王室所有(駅屯土・宮庄土)を含む公田100万町の国有地が日本の国有地に編入され」

 たという。しかし、土地調査事業の結果判明した朝鮮の国土面積は2,225万5,160町歩、所有者確定の総耕地面積は487万町歩、その内耕作面積は450万町歩であり(差の37万町歩は陳田〈荒廃田〉等か?)、国有地は27万町歩、日本人所有地は24万町歩、朝鮮人所有地は391万町歩だったという。だから「公田100万町歩」はありえない。この数字は、国有地27万町歩に未墾地90万町歩を加えた数字であろう。

 また駅屯土(おそらく宮庄土なども含む紛争地)は12万町歩(韓国教科書では13万4千町歩という)で、ほとんどが国有地となった。他に接収地(申告の無い無主地等)が2万7千町歩あり、計14万7千町歩が日本の国有地となった。これらは上記の27万町歩に入るものだろう。これが「膨大な国有地」ということになる。

 

 李朝末期、大韓帝国期の国有地には帝室所有地政府所有地とがあるが、この区別は曖昧だった。帝室は自分たちのために任意に国費を使い、足りなければ新に税を徴収した。納税するべき耕地の面積がどんどん減少してゆく中で、国家財政は日増しに苦しくなっていた。李朝末期・大韓帝国期にも公簿上の土地が10年間で40万結減少した。

 このような財政窮乏にもかかわらず、興宣大院君は1865年に景福宮の再建を行っている。1592年の倭乱の際に放火にあって焼失して以来の再建である。しかし純宗即位後は正宮が昌徳宮に移り、1910年の併合後には景福宮の王宮としての役割は終わった。1917年に昌徳宮が火災で焼失するとその改築のために景福宮の資財が使われた。その敷地には新しく朝鮮総督府の庁舎が建てられた。総督府庁舎は1926年に完成。戦後は博物館になっていたが、1996年に解体された。

 王室経費はどのぐらいだったのだろう? 併合後の総督府予算では「李王家歳費」として毎年150万円が計上されていた。総予算額は1912年で2,978万円ほど、1918年で4,267万円ほどだった。

 

 この、課税地が減っていく理由について、19世紀初期、丁若鏞という人物が記した『牧民心書』が『土地調査』に引用されているので再引用してみる。

 

 「隠結、余結や宮結、屯結は毎年毎月どんどん増加してゆき、課税の田土は年々月々減少してゆく。どうしようもない。中央の官人は隠結とは深山窮谷の所々を開墾したもののように考えており、課税田土の外に溢れ出たものが隠結であることを知らない。則ち、荒廃の田、水崩の田、流離棄損の田が課税されて、膏腴肥沃の田は皆隠結となる。一邑の田にして肥沃のところはまず隠結に充てられ荒雑なところが課税地となるのだが、数百年来、習い常となって怪しむ者がない。若し県令がうっかりこのことを口にしようものなら、どんな怨みを買うかわからない。その上、宮結、屯結も皆課税地を蚕食するから、国の収入が益々減少するばかりでなく、凡百の賦役は皆田結から出ているのに、一たび宮房田、屯田となればこの耕作農民は賦役を免れることになる。一邑に万結ありと雖も賦役に応ずる者は僅かに三千といった具合に、民役不公平を極めるので、農民の流亡算なき次第である。」

  19世紀末でも同様であったが、この「税の不公平」を是正することも土地調査事業の目的の一つであった。

 

 『朝鮮ノ土地制度及地税制度調査報告書』朝鮮総督府土地調査局1920)によれば、当時の土地に関わる紛争の原因を四つに分けている。朝鮮ノ土地制度及地税制度調査報告書 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)

  1)帝室財産と国有財産との区分が不明確

  2)屯田又は宮庄土の不整

  3)税制の欠陥。

  4)未墾地其の他の冒墾冒認。

 今、1)と、2)の宮庄土についてみてみる。

 1894(明治27)年大韓帝国独立と共に、1)の混交を解消しようと、内蔵司のち内蔵院を設置したが、冗費濫費のせいで帝室の収入分が増加し国庫収入分が減少した。さらにこの令にかこつけて、官僚が民田を掠め取ったりして自分の懐を肥やす方が多かった。

 1904(明治37)年、日韓協約後、日本人財政顧問のもとで経理がこの任に当たり、1907(明治40)年7月、内閣に臨時帝室有及国有財産調査局、11月、帝室財産整理局を置いた。しかし当時の内蔵院、経理院などに完全な財産原簿は一つも無く、「不完全なる量案、又は収租成冊に登記しある駅屯土、宮庄土を除くの外、土地の所在をも知ること能わざる状態なりしを以て、帝室財産整理局に於ては広告に依りて其の土地の利用を出願せしめ、間接に帝室有土地の所在を知らんことを期するの已むを得ざるに至れり。而も是等利用の出願には重複あり、誤認あり。其の調査極めて疎漏にして、啻に之に依りて土地の所在を知悉すること能わざりしのみならず、却て種種の混雑を招致するを見たり。」(前掲『報告書』、漢字・仮名遣いを改めた)

 1908(明治41)年6月、「宮内府所管及慶善宮所属の不動産は之を国有に移属し、宮内府に於いて従来徴収したる漁磯、洑税、其の他の諸税も亦国有に移属し、帝室財産整理局の廃止と為り、帝室財産整理に関する事務は臨時財産整理局に継承せられたり。(中略)国有土地の性質は斯くして依然其の旧態を存し、遂に土地調査局の審理査定を俟たざるべからざることと為れり。」

 「李朝の国初に於ては、所謂宮庄土なるものなく、各宮房(後宮、大君、公主、翁主等を尊称して宮房と謂う)は皆職田の制に依り一定の田結、即ち田土の収租権を給付せられたるものなり。職田とは品階に従い田土を給与するものにして(中略)国王の特命に依り別に田土の賜与を受けたるもの有り、之を賜田と謂う。」

 職田、賜田は当人の退職、死亡とともに返納すべきものだが、容易に返納せず、子孫まで伝授したので、当然、後世の王族、官吏に賜与すべき田結、土地が無くなった。その後、壬申倭乱(文禄の役)によって全国が荒廃し、境界も不明となったので職田・賜田の制を廃した。それで王子・王孫には荒蕪地及び禮賓寺の土地を与えるようになり、宮屯を生じ、各宮所属の所謂庄土を生じた。「各宮房所属の田土を宮房田又は宮庄土と称し、一司七宮所属の田土も亦之を宮庄土と並称せり」。これらは免税田であり、元結免税(無土免税)という、民有地の徴収権を得て、国庫に納めるべき税を自己の収入とするものと、永作宮屯(有土免税)といって、荒蕪地を開墾した土地と国庫より買収した土地から宮房に賜与したもので、田税のみを免除し、賦税(大同米)は民有地と同様に徴収するものとの二種類があった。宮屯の収租については特に管理者(導掌)を置いた。

 「宮庄土に対しては従来国税を免除したるのみならず、其の耕作人に対しても亦、賦役免除の特典あり。且つ、各宮房は努めて小作料を低下したるを以て、農民は宮庄土の小作人たることを喜び、或は自ら進んで自己の既墾田水田を宮房に請託して宮庄土の如くに装い、権門に隠れて他人の侵占横奪を免れ、且つ租税賦役を免れんとする者を生じたり。土地の投托是なり。」

 「宮庄土の管理者即ち導掌とは宮房に対して一定の税米を収めて宮庄土を管理し、其の地の収益権を有する者を謂い、其の下に監官又は舎音と云う者あり。小作人の監督及秋収の事に従うものとす。」

 ここに「監官」「舎音」が出てくるが、彼らは元々は国有地の管理者だったということが分かる。

 「導掌は元来宮房の職員にして(中略)必ず宮房より差定するを原則とし(中略)当該宮庄土に特別の縁故ある者を以て之に任ずるを普通とす。故に、一旦導掌に差定せられたる者は甚しき過失なき限りは解差せらるることなく、或は終生導掌と為り、或は子孫相継ぎ累代導掌たりし者あるに至れり。(中略)遂に個人間に於て公然導掌の売買行われ、導掌より宮房に対する納付額は一定し居るを以て、宮庄土の秋収は其の全部を挙げて導掌の任意に徴収する所と為り、幾多の弊害を惹起したり。其の売買は、導掌又は財主等の文字を使用するも、殆んど土地の売買と同一なるが如き形式を以て文記を作成し(後略)」

 1907(明治40)年(光武11年)6月、一司七宮の導掌は廃止される。導掌への補償として、3年間の収穫高を證券で下給した。処分の要綱は次のようだった。導掌の下の監官、舎音については補償されたかどうか分からない。

 「一 一般導掌の管理に係る庄土は帝室有と認定す。」

 「二 投托導掌の管理に係る庄土は本来民有なれば、該土地を還給し」

 この要綱だと、投托した土地も民有地として返されたようであり、国有地になったわけではないようである。投托であることが明確であれば、だろうが。

 「植民地下における土地調査とその性格」(全雲聖・上野重義、『九州大学農学部学芸雑誌』1987)という論文によれば、「其ノ投託ナルコトヲ明記シタル文書ヲ所持スル者ニ限リ」土地の返還をしたが、その面積はわずか160町歩にすぎなかった(林文圭、1933)。(中略)農民の理解では「投託」された土地は文書の有無にかかわらず自らの土地であった。」とある。

 1908(明治41)年6月、証憑、実地の調査を重ね、導掌の処分を完結し、宮庄土は全部が国有となった。しかし、異議を唱える者も多く、3,132件、14,232筆の紛争が起きた。その実例は調査報告書にいくつも挙げてある。

 

 

 

  大韓帝国期の統計は良く分からない。量田が行われても不完全で、結負制(結・負・束に斗落・日耕が並行)のため実際の正確な面積が不明なのだ。さらに多くが紛争地であって、正確にどれだけの国有地があるのか(誰にも)分からなかった。そこから土地調査事業の結果、どれだけが国有地と判断され、総督府の所有に移ったかという結果としてしか分からない。

 「結」数や「筆」数で書かれていても、「町反歩」でないとその前後で定量的に比較することが難しい。一応、対照表はあるが、結は6等級に分かれ、それぞれ違った長さの尺を用いているのである! また、土地調査期間10年ほどの時間経過の中で激しく変化していったので、ある一時点をとらえただけでは事の前後関係、全体像が見えにくいということもあるようだ。

 

 併合後については、朝鮮総督府の統計を元にしてグラフ化したものが「データで見る植民地朝鮮史」というホームページにあるので参考になる。「食料と農村と人口流出」というテーマで耕作地面積の変化や自作小作農家戸数の変化などが分かるが、「土地の収奪」のテーマについては作成中ということで、完成が待たれる。    

食糧と農村と人口流出:データで見る植民地朝鮮史 (sakura.ne.jp)

 そのグラフで見ると、併合後、1918(大正7)年までは耕作地の急激な増加が見られるが、それ以後はほとんど変わらない。グラフ作成者のコメントでは「土地調査事業の完了が1918年であり、それ以前の増加は既存の農地が総督府に”発見”されただけで実質殆ど増えていないと考えられます(木村、前掲論文、P631: 許粹烈、前掲書、P36-37など参照)。」ということである。 各論文は下記参照。筆者はこれらを読んでいません。

 Standards of Living in Colonial Korea: Did the Masses Become Worse Off or Better Off Under Japanese Rule?

 Mitsuhiko Kimura The Journal of Economic History Vol. 53, No. 3 (Sep., 1993), pp. 629-652 (24 pages)
 Published By: Cambridge University Press https://www.jstor.org/stable/2122408

 植民地朝鮮の開発と民衆 : 植民地近代化論、収奪論の超克 許粹烈 著,保坂祐二

 

 1918年までの増加は、土地調査によって隠結が発見されたこと等の反映ということだが、一方で未墾地の開発等も進んだと思われるので、全く耕作面積が増加しなかったわけではないだろう。この辺は東洋拓殖株式会社の記録の方から調べるのが良いかも知れない。 

 

 引用がほとんどになり、冗長になってしまっています。退屈かも知れません。

 

 朝鮮の土地制度について参考にさせていただいたブログを挙げておきます。

 「獄長日記」土地調査事業関係土地調査事業関係|獄長日記 (ameblo.jp) 

 「酒たまねぎや」李朝時代の土地制度 (tamanegiya.com)

 

2021年度大学入学共通テスト 漢文問題を解いてみた

 まず「良問」という印象である。高校生の学習事項を外れてはいない。難解な疑問・反語の句法は問われていない。共通のテーマに関する、詩と散文の両方を提示しているのが良い。「千里馬」と「伯楽」というエピソードを理解していれば、両者に共通するテーマは明快であろう。なお欧陽脩と韓非についての文学史的、思想史的知識がなくてもさほど解答に支障は無い。詩の題名が書かれていないのが少し気になる。

 

問1 「徒」、「固」の語の意味

 漢文を読み慣れていれば、良く出てくる語なので、読み方さえ知っていれば簡単な問題。「徒」は限定形として習っているだろう。これらは読みの問題にも出来るかな。

 

問2 「何」、「周」、「至哉」の解釈

 「何」は、下で「蕭森タル」と連体形で受けているので「何ゾ」と読む疑問詞であると考えるが、ここで、疑問文なのか感嘆文なのかの判断が必要。千里の馬を賞賛しているのだから感嘆文とみて、「何と」と解釈する。

 「周」は、「九州可周尋」で「尋」という動詞の修飾語だと分かる。しかし「あまねく」と読める高校生は少ないかも知れない。字義は熟語にして考えると良いが、思いつくのは「周知」「周辺」「周回」などか。

 「至哉」は、「哉」で感嘆文と知れる。人馬一体の境地を言っているのだから、選択肢②と⑤が馬の方に限っているのに比べ、④が適当とみる。

 

問3 「馬雖有四足 遅速在吾X」のXを選ぶ問題

 詩の偶数句末字なので押韻の問題だと分かる。近体詩であるということが前提だが、欧陽脩が唐宋八大家の一人であるという知識は常識的だろうし、そこを気にしない人は一韻到底を疑うことも無いだろう(形式的分類は「古体詩」になる)。あとは「心」「進」「臣」から選べば良い。引っかかるとしたら「進」か。しかし、後段の韓非子で、乗り手の心の問題だと言われている(ことを理解するセンスが重要)のだから簡単に分かる。

 

問4 「惟意所欲適」の訓読(返り点を付ける)問題

 これが一番難しいかもしれないが、「所」や「欲ス」が返読文字だという知識があればそうでもないか(「欲ス」は他の箇所でも出ている)。それだけでも④が選べる。また、五言句が上二字と下三字に分かれるという感覚があれば良い。「惟だ意ふ 適かんと欲する所」と読んだらいけないか?

 なお、こういう形式では、選択肢それぞれの下の書き下し文が、理解の助けになっているのか、かえって混乱の元になっているのか分からない時があるように感じる(今回問題があるというのではない)。

 

問5 「今君後則欲逮臣、先則恐逮于臣」の解釈を選ぶ問題

 「後則~、先則~」は「先即制人、後則為人所制」の故事成語を思い出させるだろうか。「則」の意味(同じく「すなはち」と読む「即」「乃」「輒」の違い)を理解していることが大事。「逮」の字義が「およぶ」だと知らなくても大丈夫だと思う。この問題は、最後の問題で問われる、このエピソードのテーマに関係してくる。

 一旦解答しても、繰り返して前後を見直し、検討することが必要である(時間的余裕の問題があるが)。 詩の中に「伯楽識其 徒知価千金/王良得其 此術固已深」とあるのが重要なヒントになっている。「王良」に注が付いていないのがミソかな。

 

問6 提示した二つの詩文から「御」ということの本質を読み取る問題。

 日頃からこういった設問形式に慣れるような授業(類似の詩文を提示して、共通点と相違点を考えさせるなど)をし、定期テストを作ってくれる教師がいると生徒も嬉しいだろうと思う。そうした教材の一部は教師用指導書に掲載してあるだろうが。