以前に「嘉永元年の銅町 組と契約」という記事を書いた(嘉永元年(1848)の銅町 組と契約 - 晩鶯余録 (hatenablog.com))が、それに関する記述を読むことができたので、ここに引用したい。(国立国会図書館デジタルコレクションで「山形市銅町」「銅町」と検索するとたくさん出てくる。)
以下一部抜粋して引用、下線は筆者
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『山形県の民俗資料 : 民俗資料緊急調査報告 第1集』
出版者 山形県教育委員会 出版年月日 1965(昭和40年)
調査員 小林隆三 調査責任者 丹野 正
話 者 菊地熊治、後藤隆治、渡辺利八、江ノ目達雄、吾妻ツヤ、長谷川政市
10 社会生活
地域社会の秩序と安寧を保つためには、どのような方法や組織があったか。
⒈山形市銅町
⑴ 契 約……町区を上・中・下の三組に区分し、それぞれの組で規約を作製し全戸加入を原則とした。戸数は約20戸を単位とした。当番の順序はまわり番とし、年1回開く契約の総会時の世話役一切を引き受ける。
総会時の仕事としては 宿の準備 経理の報告 献立の準備 膳椀等の準備
⑵ お日待ち
名 称 通称お日待ちといった。
構 成 加入の資格は借家人をのぞき家主連が集まって行なう新年宴会である。
神主を招待し年頭のお祝いと商売の繁盛を祈願してもらう。
11 組・講の道具
組・講で受けついできた書類箱・当番札・くじ・飲食器などがあったか。
⒈山形市銅町
〔組について〕 山形銅鉄器組合 年一回総会を開く 現在は銅鉄鋳物協同組合と改称
〔契約について〕 銅町全町区を上・中・下の三組に区分し、それぞれの組で規約を作製し全戸加入を原則とした。 一番組はおおよそ20人内外で契約総会時の責任はまわり番でおこなう宿が負うことになっている。受けついできた品物としては、
① 飲食器
〇膳椀(本膳)各々20人分 お椀 お膳 皿 〇めいめい盆 20人分 〇七つ鉢 七重の木製の四角な箱型のもの 煮焼きした食べ物を入れる丼に類するもの
② まくり
飯台は寺のものを借用していた。 葬式・婚礼年一回の契約の総会時に使用した。書類箱・当番札・くじ等は特になかった。
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以上引用終了
「契約」は上・中・下の三組に分かれてそれぞれに規約があった。長谷川總次右衛門家文書「連印仕り仲間約定の事」によれば、嘉永元年には「三つの組に二つの契約」があって組と契約が一致せず、一契約の人数が多くなっていたために不手際が生じ、組間の悶着を起こしていた。その後、組と契約が一致するように変わったのだろう。文書の中にも膳椀の所属のことが書いてあるが、二契約当時は数が足りず、貸し借りがあったようだ。
各組20人内外ということである。銅町の旧地番図では大通りの西側は、南から一五一番~一八一番まで、東側は北から一八ニ番~二一七番まである。南から北に東西それぞれ10番ずつ区切ってみるとおおよそ上・中・下の各組に該当するようである。銅町には弘化年間(1844~1847)の絵図でもおよそ60軒があり、旧地番はその町割りに従って当てられている。
「連印仕り仲間約定の事」に見える、中の組連名者17人の名をあてはめると、西側は南から一六一番が庄司清吉、一六九番が佐藤金十郎である。東側は多分一九七番が勇五郎で、多分ニ〇六番が留蔵(太田か?)である。
中の組には長谷川總次右衛門や大西忠兵衛、庄司治右衛門など銅町の検断を務めた家がある。佐藤金十郎や大西忠兵衛は京都の「免許状」(名称は「~執達状」など)を持っている。
「明治三年銅町之絵図」では、中の組の組頭は長谷川甚六であった。上の組(仮に南部を上として)の組頭は小野田寅之介、下の組(仮に北部を下として)の組頭は須久勘蔵であった。
三組のそれぞれの中で共同して製造していたのではないかと考えて、『幻の梵鐘』の資料から複数人の記名がある梵鐘を書き出して見てみたが、必ずしも氏名と町内の場所とが比定できず、明瞭には読み取れなかった。
中の組の長谷川甚吉家(長蔵、長兵衛と続く)は、明治に入って上の組の小野田平左衛門家から養子が入り、彼(四代目)とその子たちが小野田才助の仕事を手伝ったり、才助亡き後の小野田商店を継いだ関係から、上の組との交流が強かったとみられる。他にも町内では養子や分家の関係が多々あったのではないだろうか。
なお、組分けが五つだった時期があるとの記述がある。
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山形工業高校郷土研究部『山形職人町の研究』
「山形の銅町の研究」 昭和三十四年(1959)度研究テーマ
▼蔵王山参拝
これは銅町が一番組から五番組迄分かれた時に、三番組にだけあったもので、毎年組内から三人ずつ代表で蔵王山参拝に行ったのである。これが一応組内一回りすると組をあげて“総まいり”と云うものをした。その参拝コースは、宝沢から登って高湯に下ると云ったもので、総まいりの時は二十余名が参加していた。
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この一番組~五番組の時期がいつか、三番組の範囲はどこかはわからない。しかし、嘉永元年の時点で組分けを増やすことに否定的だったことを考えると、それ以後、明治以降、銅町の人口が増加してからのことであるのは確かだろう。