漆山 半澤久次郎家 代々没年考証 その2

漆山 半澤久次郎家 代々没年考証 - 晩鶯余録 (hatenablog.com)から続く。

 

 半澤久次郎家は江戸時代から漆山村の地主で、後に紅花商いから財を成した。明治以降田畑の所有を拡大、村山地域最大級の大地主となった。二代半澤久次郎(俳号二丘)は50歳代の文政後半ころ家督を弟弥惣治に譲ったようだが、その後も長生きし、60歳を過ぎた天保十年(1839)には京都まで旅している。安政三年(1856)一月に79歳で亡くなった。明治に代わる頃は四代為親、五代爲澄、六代爲傳が続いて成人し、三代が揃っている安定期を迎えた。文化的にも、家には一万冊を蔵する「曳尾堂」文庫を持つに至った。

 明治九年(1877)に三条実美大久保利通が半澤家に立ち寄り、十四年(1881)九月には明治天皇が東北御巡幸の際に小休止されることとなった。その準備に近隣の人々は大わらわで、半澤家も莫大な支出があったが、豈図らんや明治十年に為親が65歳で、十四年の八月(明治天皇御駐輦の一ヶ月前)に爲澄が53歳で急死してしまう。この危機にあって爲澄の三人の息子がなんとか供応接待の任を果たしたが、中でも最も力を発揮したのは次男の宏(諱は健吉)であった。彼は一家の立て直しに尽力したが、十年ほど後に病を得、明治二十七年(1894)に40歳にして亡くなった。母のキノはその追悼のためか最上三十三観音を巡礼した。

 長男の六代久次郎爲傳(後に洞翁と改名)もまた、「綿衣破袾」を着、同僚との酒食の宴にも臨まず、吝嗇と嘲笑されても意に介せず、貧民の救済や産業の振興のためには金穀を惜しみなく提供したという。明治二十二年には出羽村(漆山、千手堂、七浦の三村が統合)の初代村長となった。明治三十三年(1900)ころには家務を息子の七代爲邦(幼名亀吉)に譲ったが、なお自家の「羽陽勧農園」に農業技師を招き、「出羽農會」を設立、また窮民救済のために北海道開拓(旭川近辺の美唄に半澤農場を開いた)を始めたり、三十七年(1904)十一月には合資会社「漆山倉庫」を設立したりした。大正三年(1914)二月、63歳で没した。

 爲傳の子、七代爲邦は、叔父健吉が病を得たころに東京での学業を終えて帰郷、翌三十八年(1905)正式に家督を相続し、漆山倉庫にも入社した。模範小作人を表彰したり農業指導員を雇い農業改善の実地指導をさせ、大いに品質の改善、収量の増加をみた。大正四年(1915)の即位の大典に列席する栄誉を得た。漆山倉庫は社団法人、次いで株式会社となった。

 健吉の子亀治(大正六年に健吉と改名)は父に続いて七代と八代を補佐し、漆山倉庫支配人として実務を行っていた。さらにその子の宏吉は京都大卒業後、漆山を出て実業の道に入った。

 七代爲邦は大正十一年(1922)十月二十二日、数え54歳で没した。その時、嫡子の弘介は27歳、既に結婚して長男も儲けていた。

 

 

○ 七代久次郎 爲邦(爲傳子)

  明治二年(1869)六月生、大正十一年(1922)十月二十二日没(53歳)

   妻、紙子(没年未詳、昭和十三年には63歳で健在)

     七代 爲邦

 

 

 ○ 八代久次郎 爲弘(弘介、爲邦子)

  明治二十九年(1896)生、昭和十一年(1936)六月二十二日没(40歳)

  大正三年(1914)山形中学卒業(18歳) 

   先代(七代)没時26歳(11月4日襲名)  慶應義塾大学法学部卒業

  大正十三年(1924)陸軍二等主計 少尉?

  大正十五年(1926)陸軍三等主計

  昭和三年(1928)五月一日、後備役

  昭和五年(1930)「明治天皇御駐輦記念碑」(五十周年)を建立。

   〃     高橋俊一に『物語出羽村郷土史』を執筆させ刊行。

  昭和七年(1932)三月、漆山倉庫支配人半澤健吉が亡くなる。54歳。

  昭和八年(1933) 村会議員、軍人分会長、農会長、経済更生医院副会長、

     株式会社漆山倉庫取締役、天童運送株式会社取締役、羽前銀行監査役など

   妻、りよう(上山、會田氏長女 没年は未詳。昭和十六年には41歳で健在)

      大正15年、31歳

 

 これまで半澤家は八代久次郎の時に漆山を去ったと伝え聞いていたが、詳しく調べると八代は戦前に亡くなっており、半澤本家が消えたのは九代以降であることがわかった。

 以下、半澤家の子たちがいずれも旧制山形中学校(現山形東高校)を卒業していることから、同校同窓会の『会員名簿』を閲覧して確認できたことを中心に記す。『会員名簿』は昭和十五年版からあり、十七年版、二十四年版と続く。戦時中は刊行できなかったとみられる。

 

○ 久次郎(九代 督三?、弘介長男)

  昭和十三年(1938)山形中学卒業 

  昭和十七年(1942)入営 

   没年未詳、但し昭和二十四年度(1949)の名簿には「逝去」とある。

   「○死」と書き込みがあるが、○のくずし字が判読できない。

   この年代には「戦死、戦病死」の書き込みが多いが、「戦」でも「病」でもないようなのだ。

   先代(八代)没時、山形中学在学。

 

○ ーー達司(弘介次男)

  昭和十六年(1941)山形中学卒業。早稲田大学専門部在籍。

  昭和十八年(1943)入営(弟の随筆による。十月の学徒出陣以降かと思う)

  昭和十九年九月没。(鉛筆による名簿への書き込み)

 

○ 久次郎(十代 宏夫、弘介三男)

  昭和十七年(1942)山形中学卒業。浪人し、二兄達司の下宿に同居する。

  本人が昭和四十八年一月に発表した随筆によれば、十八年末に徴用令が来て身体検査を受けたが、十九年正月の再検査の際、若い海軍軍医の温情で「結核」との診断で不合格となったという(徴兵よりも軍需産業への徴用を恐れていた)。

   慈恵医科大学在籍、医師となる。 

  終戦後、農地改革を経て漆山を引き払った際の当主はこの方だろう。

  これ以降は東京在住。開業医。(故人)

 

 大地主の当主が入営するのは珍しいように感じるが、既に大正時代から八代弘介(爲弘)が軍務についていた。九代とその弟が入営したのは、それだけ国家が非常時であったということだろう。酒田本間家の九代当主光正も十八年に42歳で応召し(陸軍騎兵中尉)病を得て帰郷、二十年三月に没している。

 九代とその弟達司が相次いで亡くなった(前後は未詳)。七代から26歳の若い八代への相続も大変だっただろうが、さらに八代が40歳で早逝し未成年の九代が相続した際には、母りようの苦労は並大抵ではなかっただろう。親子二代に渡って本家の六代から八代までを補佐してきた半澤健吉もすでにいなかった。

 当時米の供出と配給を行ったのは農会(地主中心)かと思うが、実際には混乱も多かっただろう。旧来のように小作米が直接地主のものにはならず、国の管理下におかれた。一方、農家の自家留保分はかつてより多くなった。環境が激変していたのだ。

 そして九代も二十歳代で亡くなってしまった。末弟の宏夫はまだ医学生で、予想もしていなかっただろう襲名、家督相続をしても、預金封鎖、新円切替、財産税、農地改革の大嵐(小作農民組合からの厳しい追及)の中で、ほとんど何をする力もなかっただろう。あたふたと離村し、整理されない史料や「曳尾堂文庫」の厖大な書籍も、一部は矢萩家に移ったというが、結局散逸してしまった。事実上当主不在の状況で、家務は番頭(差配)のような人が行なっていたのだろう。

 このように、不運にも立て続けに当主が早逝した(しかも次第に若年化していった)ことが、謎とされてきた半澤家出村の最大の原因なのだろう。

 

 4月7日、8日、数カ所訂正、修正しました。