雑感 2020年9月5日

 9月1日火曜日に、天童市民図書館の歴史相談室を訪ねる。以前同じ職場だった野口先生が郷土史に詳しい方なので、お電話していろいろ教えを請うたところ、火曜日に「歴史相談室」を開いているので来てみてはということで行ったのである。また、自分の母の実家の系図を遡ると寺津の大木勘十郎家から二代三人の方が嫁入りしているのだが、三代勘十郎の孫である大木彬先生にお引き合わせいただいた。ご高齢ながら様々なことにお教えをいただいた。先生が作られた大木家系図と、お三方が一致して、それぞれ没年が判明したのが良かった。

 母の実家は山形市銅町の鋳物業だったので、野口先生が明治3年の同町絵図をコピーしてきてくださった。実家の場所は今「月山堂」になっている所なのだが、絵図ではまた別の名前が書いてあり、なんだか「?」になっている。「丸井(マルイ)鋳造所」が小野田平左エ門家になっているが、実家も「マルイ鋳造所」で小野田家とは養子関係があるのでその辺がどうにかなっているのかもしれない。(母の実家は「福井工場」だった。○に井の印を使っていた。)もっと調べる余地がある。

 

 

 千手堂の大内玄濯については、なんと野口先生の奥様の親戚だそうで、医者であり、今は東京へ移ってしまったらしい。隣の清三郎家とは本家分家関係があるようだ。

 

 漆山の半沢久次郎家についてもいろいろお教えいただいた。明治14年(1881)9月、明治天皇が東北御巡幸の途次、半沢家に小休止なさったのだが、その一月前に当主が急逝してしまった。残された兄弟がなんとか御座所を建築し間に合ったのだそうだ。だから、かなり大変で、急ごしらえでもあったらしい。その辺が運の下がり目(家運のピーク)だったのかもしれないと。

 久次郎家は戦後、農地改革と財産税のために村を離れ東京に転住したのだが、あたふたと諸事整理もせずに行ってしまったとのことで、曳尾堂文庫一万冊は散佚、文書の行方もはっきりしないのだそうだ。文書の一部は向かいの矢萩家が引き取って今に残ったらしい。(この矢萩家は二丘の頃半沢家に嫁した人の実家かと思われる。)この間の事情については先生方も不審に思っていられたようだが、自分の推測(妄想)をお伝えするとやや腑に落ちるというような感じであった。半沢久次郎の分家についてはまだ分らない。