小野田才助と酒田大仏 小野田商店と長谷川家

 このところ、母方の家系をさかのぼって調べる作業にかかっていた。母方長谷川家の関係で、現在も銅町で鋳造所を営む、はとこにあたる方から、小野田才助についても話を聞いた。

 小野田才助(弘化三年1846生)は江戸時代から続く鋳物師小野田平左エ門家の人で、八代目の二男である。本家を助け家業の更なる隆盛を招いた人である。全国に多数の作品が残っている。讃岐の金毘羅様と金華山と山寺に同形の大燈籠が残っているが、これは才助と銅町の職人たちが力を合わせて作ったものである。鋳造とは思われない、彫刻のような緻密な装飾、リアルな人物像などの作品も多い。この家系からは小野田高節(帝展無鑑査)も出ている。

 名工小野田才助の晩年に近い大作に酒田大仏がある。酒田市日吉町良茂山 持地院にある釈迦牟尼立像で、三丈五尺(10.6㍍)ある。台座を含めると17㍍という、日本一の銅製鋳造仏である。写真横に書かれた「明治四十五年(1912)五月」にほぼ完成したようだ。しかし、現地の説明書きによると大正3年(1914)に開眼法要を行ったとある。完成から法要まで2年もかかるのは少々不審なので、大正2年が正しいのではないかとも思う。

 (以下後日補足)この連休中に酒田の持地院を訪問し、住職のお話を聞いてきた。代替わりしていて昔のことは分からないそうだが、大仏再建の経緯をまとめた『釈迦牟尼佛立像 酒田大仏 縁起』という小冊子をいただいてきた。その中に、初代大仏に係わる写真や証言があり、やや建立までの経過が分かってきた。

 大正3年に撮影された2枚の写真を見ると、1枚は肩まで組み上がった状態、もう1枚は開眼供養の盛儀の様子である。そしてもう1枚、昭和50年代までは確実に残っていた、大仏の中のコンクリート製の支柱の写真がある。金属は供出されたが中の支えだけは残ったのだ。ここから分かることは、明治45年5月に撮影された大仏は酒田ではなく、山形市銅町の小野田工場で仮に組立てられた際の状況だということである。その後解体され、おそらく最上川舟運によって運ばれ、現地で組み上げられたのである。

 当初、マルイの長谷川さんらと話した段階では、当時は溶接の技術が無かったから、奈良の大仏のように順次段階を踏んで現地で鋳造したのだろうと考えられた。しかしそれでは現地に鋳造工場を作らねばならず、また高い部分に流し込むための盛り土などどのようにしたのか分からなかった。

 

 この大仏建立を発願した住職の、なみなみならぬ決意と苦労が伝えられているが、惜しくも戦時金属供出によって昭和18年に失われてしまった。現在ある像は平成4年(1992)に再建されたものであり、銅町の職人は係わっていないようだ。

 

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  足下の人物と比較するとその大きさが実感できる。山形市銅町の工場であろう。

 

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           在りし日の酒田大仏 台座よりの高さ五丈(光背込みか)

 

 なお、小野田才助はこの巨大仏像の見積りに失敗し、大赤字となって家運を傾けたと伝わっている。だが、この大仏建立発願の経緯を知れば、彼が意気に感じ、商売抜きで協力した面があるのではないかとも考えられる。

 この大仏製作には才助の甥たちが協力したと言うから、自分の曾祖父長谷川長兵衛(小野田平治郎)も手伝ったのだろう。

 大正4年の写真で、才助と思われる老人が職人たちと出荷前の一対の燈籠とともに写っているものがあるが、彼はこの年に亡くなっている。「やまがた散歩」8号(1973)に掲載された木村重道氏(当時山形美術博物館学芸員)の「小野田才助 鋳物師の記録」には「この大仏の大きな見積りのミスが結局、彼の経営者としての一生一度の失敗となって、大仏鋳造中途で病死してしまった。ときに大正四年、数え年七十歳であった」とあるが、写真の人物が才助ならば、実際は完成の後まで健在であったことになる。

 小野田家はやがて明治以来買い集めた近隣の土地を売り、店(商売先含め)は長谷川甚太郎(丸ゐ)に譲ったようだ(あるいは長谷川家が買い受けたのかも知れない)。その後、次代が「マルイ鋳造所」に改称して現在に至る。なお創業は大正6年(1917)とされているから、才助没後2年にして小野田の工場を引継いだとみられる。『幻の梵鐘』によると、大正5、6年にも才助名の梵鐘があるから、この間、才助が生前に引受けた仕事を、甚吉や甚太郎が小野田の職人とともに完成させたものと思われる。

 甚吉は大正10年に金華山の燈籠を「小野田商店 長谷川甚吉」名で修復し、甚太郎は大正13年に現在地に分家している。甚太郎は本家の兄甚吉(丸井)と共に「小野田商店」の名で商売を行ったようだ。当時の「小野田商店」スタンプで、共通のデザインで名前だけ(長谷川甚吉と甚太郎)違っているものがある。兄弟で一つの有名ブランドを受け継ぎ、共有したということになる(丸井長谷川と併存していたのだろう)。小野田の名を継ぐことは晩年の才助から四代目長兵衛に託されていたことなのかも知れない。

 先日、長谷川家の仏壇前に長年置かれている鐘(りん)に「丸井長谷川長兵衛用 大正四年二月一日 ヲノタ才助作」と刻されているのを見せてもらった。最晩年に甥の長兵衛に託した才助の思いが分かるようである。繊細さというより質実さが勝っているようだが実に良い唸りの鐘である。

 なお大正四年二月一日は、四代目長兵衛の義母ミヨの亡くなった日付である。(3月23日追記)

 長谷川兄弟の父、四代目長兵衛(幼名平治郎)は、九代目小野田平左エ門の二男で、婿養子である。また、義母は寺津の大木勘十郎家から養女として迎えられた人であり、妻二人は母の姪である。結局、長谷川の血筋(おそらく江戸時代に銅町の組頭を務めた長谷川甚六の分家)は断絶して、銅町小野田家を継いでいるとも言える。

 小野田本家は関東に移り、やはり金属関係の仕事をしているとのことである。

 (21日22日29日、追記と訂正)

 (1月16日20日加筆修正)

 

 令和5年5月11日に下記の記事を書きました。小野田平左衛門家の土地について旧土地台帳を閲覧した内容です。 

銅町長谷川長兵衛家について旧土地台帳を閲覧 - 晩鶯余録 (hatenablog.com)

 

 後日記 

 山形市銅町(鋳物町)鈴木鋳造所が平成30年(2018)に高さ12㍍(台座込み18㍍)の釈迦如来座像を鋳造している。東京都西多摩郡日の出町の宝光寺にある鹿野大仏である。3年をかけ200個以上の部品を溶接して完成したという。

 なお、鎌倉の大仏は高さ11.3㍍(台座込み13.35㍍)、奈良東大寺の大仏の高さは14.7㍍のようである。