1945年8月15日以降の韓国における農地改革(朝鮮における土地制度の変遷)その22

 南北分断占領初期の南朝鮮における食糧事情

 

 1945年8月15日以降、南北に分断されたそれぞれの地域の耕作地面積は正確にはわからない。今、昭和17年末の総督府統計の道別面積で、江原道の水田面積の三分の一を北に、三分の二を南に入れる便宜的方法で計算してみた。

 南朝鮮の水田面積は127~128万町歩、北朝鮮の水田面積はおおよそ46万町歩ほどで、南は北の2.7~2.8倍になる。南北のおおよその人口比3:2からみても南朝鮮の水田面積が圧倒している。一方、畑の面積では南が97万町歩、北が169万町歩と逆転している。気候など地理的条件からそうなるのは当然である。

 それぞれの灌漑水田面積を見ると、昭和17年度末では北朝鮮各道の水田は8~9割が灌漑田だった。だから反当り収量という点では南北に差はないとみてよいだろう。

 

 この状況で南北に分かれたことで、北朝鮮には雑穀類はあっても南からの輸送が途絶えたため、米の不足が生じただろう。ソ連軍は占領地区から米を徴収するが、アメリカ軍に対して南からの米の移送を要求している。アメリカは断っている。

 

 軍政長官アーノルド少将は、11月13日に記者団との意見交換で、「北朝鮮としては南朝鮮の食糧が必要であり、南朝鮮としては北朝鮮の石炭、食塩、大豆等が入用であるからバーター制に依って一箇月二万噸の石炭、食塩、大豆と食料とを交換するつもりで、これは収穫が済んだら実施されるであろう。」と述べている。これは南北の交通輸送路が遮断されて実現しなかった。

 

 当時、総督府総務課長だった山名酒喜男氏の『朝鮮総督府終政の記録』(1945)には、「今年度の米産高は三十八度以南だけで一千六百万石、雑穀一千万石、都合二千六百万石であるが、一般人民の消費高が二千一百二十万石で、四百五十万石は余剰となるのである。/これを農民は米價騰貴のみを待つことなく、軍政庁当局に売るようにするつもりである。/今年は豊年だから米價がもつと髙くなる見込みはない。農民たちは後で米價が上がらなければ失敗である。この剰余物を日本に輸出し、日用品を買入れたらよい。」とある。

 総督府アメリカ軍への要望として8月25日の段階でまとめていた13項目の中に、

 「五、端境期食糧窮迫し、鮮内治安にも影響あるものと考えらるるに付、速急、満洲よりの雑穀輸入を配慮せらるるの要ありと思料す。/塩を北支及び関東州より輸入するに就いても同様なり。六、朝鮮内の産業の中で、石炭業、液体燃料、電力等の事業並びに國民衣料の繊維産業等の確保は民生確保上、絶対的に必要に付、之が引続いての操業(継続)に便宜を与えらるることを希望す。…中略…九、貴軍の部隊を輸送し、日本軍を撤収せしめ、内地に帰る婦女子等を輸送し、又食糧を配給する為に必要なる鉄道を運転するに使用する石炭は絶対に確保を要するが、現在、其の貯蔵量が極めて僅少なるに付、早く満洲及び北支より輸入することを配慮せらるることを希望す。」とある。後に軍政長官アーノルドの話した内容と一緒である。

 8月26日には進駐軍への対応として12項目が考えられた。一部抜粋すると、

 「(一)ト、独逸に於ける例を見るに、独人の生活に就いては殆ど顧みらるる所なきが如し。当方面に於いても亦然りとせば、先方に対する要求を要求とし、別に何等か手段を講ぜざるべからず。之は一刻も速に、予備的に実行し、少なくとも京城、釜山、麗水、木浦等には出来るたけ食糧、衣料の集積に努力せざる可らず。農商、交通、両局の此處一両日間の大奮闘を要望せざるを得ず。…中略…(二)ホ、内地側の意向は朝鮮の事情如何に拘わらず、内地人の内地帰還を阻止せんとする希望ありと察せらる。然るとき、総督府が保護の責任を有する以上は、帰還希望者を無理に抑止し、不測の災害を蒙らしむること能わず。/尚、内地に在る多数朝鮮人と交換的のことを考うるとき、少くとも内地帰還希望者位の鮮人は半島へ自然に帰らしめ得るものと考えらる。此の点、内地当局再省を要す。」

 当時、半島には80万人、その内南朝鮮には55万人の日本人(軍は除く)がいた。総督府首脳は、先に降伏したドイツ国民の置かれた孤立無援の状況を知っており、日本人保護に奔走する。一方、日本本土でも空襲被害と多数の帰還兵から食糧事情は最悪で、半島からの帰還は迷惑だったのだろう。しかし、本土の朝鮮人は先を争って半島に帰ったので、その分は交換のように内地へ帰国できるという見込みだったのだ。

 

 同じく『終政の記録』から8月末の食糧事情を垣間見ると、

 「八月末より九月中に於ける鮮内食糧事情は最も急迫したるが、鮮内全般に亘る麦作の不況、満洲雑穀の搬入不円滑等に依り、食糧需給計画は幾度か変更を余儀なくさせられたり。即ち、九月末迠は鮮内各地の食糧を極度に操作して需給を調整し、十月に至らば早場米の大量喰込みを計画せるが、食糧の操作に当るべき各地行政機関の末端部は、八月末迠の間に於いて機能を喪失し、輸送は停止し、倉庫は接収せられる等の悲運に直面せるを以って、京城府内に於いては非常備蓄米を使用し、蓋し、又、軍隊の出動に依りて近郊より強行搬入する等の非常措置に出でたるも、後に至るや皇軍将兵朝鮮人の反抗を怖れて米の搬出をも為し得ざるに至れり。/依って食糧営団よりは、一日一合八勺の配給に変更の提案をも見たる次第なるが、兎も角にも事態を切り抜けたるは身体の安全感を脅やかさるる治安状況となり、如何なる食糧にても我慢を要すとの覚悟を各人に持たしめたるに由るものなり。」

 一日1合8勺という量は、戦時配給制度の2合3勺(末期は2合1勺)に比べても少ない。

 当初、アメリカ軍政庁は米の売買を自由市場にまかせていたが、その結果としてのインフレの激化、米価の高騰により、12月19日一般告示6号で米穀収集令を公布した(米穀の統制を10月5日に告示5号で廃止していたもの)。こうして、日本軍が行ったような米麦の強制供出が繰り返されたが、供出価格と時価との隔たりによって、供出農家の所得減を招いた。これによる生活困窮に対しては、アメリカから日用品を輸入して援助した。

 軍政庁は、1945年の(南朝鮮)米生産高約1,285万石の内、551万石(42.9%)を供出目標としたが、実績は68万石(5.4%)に過ぎなかった。しかもこれには日本人地主のもとにあった小作料の米約10万石と日本軍用米(量不詳)が含まれていた。いかに供出が嫌われ、応ぜられなかったかがわかる。農民は現金収入を得るため、少しでも高く売れる方に、売れるだけ売る(これは総督府が行った産米増殖運動の中でも見られたことだろう)。

 米の生産高が、山名氏の概算1,600万石から1,285万石に300万石以上減っているが、それは既に収穫期を過ぎて、アメリカ軍政庁が対応した12月までには売買され、農家から流出してしまった分であったろう。