銅町の鋳物師 長谷川甚六

 自分の母方の先祖は鋳物師である。文化年中(1804~1817)に銅町で「福井屋」として創業したと伝わる。屋号は丸に井で、家紋は丸に釘抜きである。

 初代は甚吉といい、18世紀後半の生まれで、1834(天保5)年に亡くなっている。没年齢は不詳である。二代長蔵は1803(享和3)年頃の生れで、1872(明治5)年に69才で亡くなっている。

 初代と二代は1824(文政7)年の銅町大洪水(馬見ヶ崎川の氾濫)に遭っている。当時の被災絵図を見ると、銅町は軒並み鋳物師だが、ほぼすべて「家大そんし(損じ)」となっている。この状況から工場を再建し、自前の田畑を開墾するには相当の苦労があっただろう。後に三代目長兵衛が二代目の苦労を偲び、開墾碑を残している。

 

 さて、それでは初代はどこから来たのかを考えた。以前に義理の従兄弟の方が本家の歴史を調べたことがあって、その時には「福井屋」の屋号から、福井県から来たのではないかという考えを示していた。しかし当時なら越前屋とでもいうべきではないかと言う方もいて、福井県出身の根拠は今のところない。

 文政の洪水被災絵図を見ると、曾祖父の家のあったところには甚六という名があり、この人は組頭であったことがわかる。その南隣に甚吉という名がある。間口は甚六の半分である。その後1846(弘化3)年の絵図には甚六と長蔵が隣接している。この甚吉と長蔵が初代と二代であるのは間違いない。1870(明治3)年の銅町絵図では長谷川甚六長谷川甚介になっているが、この甚介は間違いで、長蔵のはずである。(この絵図は東西の家並みの照応がズレているなど、不正確な面が多いように思われる)

 では甚六と甚吉・長蔵の関係は? また甚六の土地に我が先祖が移ったのはいつか? 今のところ、甚六の名が確認できるのは1872(明治5)年7月の少林寺梵鐘銘文(山辺町要害)に12人の冶工が名を連ねているのが最後である。この後、時を経ずして、何らかの理由で甚六は銅町からいなくなり、その工場、屋敷は三代目長兵衛が譲り受けたものと思われる。

 (ちなみに、この少林寺梵鐘銘文を写し取った方が「山形住冶工」を「山形住工」と誤記して冊子を発行したため、「じゅうじこう」と誤って読まれている。正しくは「山形在住の冶金職人」という意味で「やまがたじゅう やこう」であろう)

 甚六と甚吉の関係はどうか。甚六の名は長兵衛家の戸籍や過去帳に見えないのであるが、1814(文化11)年に谷地の沢畑月山神社の鐘を二人一緒に鋳造しているので、本家分家(つまり兄弟)の関係と思われる。分家が本家の地に移った(戻った)ということだ。

 

 ちなみに、山形県の梵鐘は戦時金属供出のために多くが溶かされてしまった。山形県は全国でも最も熱心に協力したので、厳しく供出を強いられたのだ。しかし、当時供出した寺の関係者が銘文の写しや由緒書きを残していて、それをまた戦後に丹念に収集・整理し『幻の梵鐘』として一冊にまとめた方がいるので梵鐘の鋳造者名が分かるのである。

 なお明治維新前は神仏混淆で、神社にも普通に梵鐘があった。前記少林寺の梵鐘も、数百年前の古い物だが、明治初期の廃仏毀釈によって宮町の両所宮から売りに出されたものである。甚六たちは少林寺の依頼により、古い銘文を削って、新しく銘文を彫り込んだのである。当時の風潮だから仕方が無いが、同じく梵鐘を造る職人としては、古い銘文を削るのには忍びないものがあったのではないかと思う。しかし、少林寺側としても、削らなければならないと思う理由があったのである。

 

 結論として、母方の家は文化年間に甚六家から甚吉が分家したのが始まりとしてよいだろう。さて、この甚六については、

 「山形商工会議所で昭和初期に編集した「山形経済志料」によれば、銅町の起源は康平年間(1058~1064)の源頼義が武器製造のために、京都より鋳物工が住みついたのが始まりと伝えられている。
 また、延文元年(1356)山形に入部した斯波兼頼公が城を築くため谷地から9名のイモジ師(ママ)を招いたという。
 最も史料性のあるものは、義光公が慶長11年(1605)、京都、会津越前あたりから招き、羽州街道沿いの城北側に定住させたと記されているのが銅治(どうや)町の始まりといえよう。当時鋳物治(いもじ 治ママ)は17名が定住するようになった。
(伝承)兼頼公時代から工人(9名)小野田平左エ門 渡辺久左エ門 峰田太右エ門 太田弥兵エ 長谷川甚六 庄司清吉 長谷川惣五郎 渡辺与右エ門 佐藤金十郎。
 義光公時代からの定住者(8名)角川八兵エ 庄司右エ門 岩田久兵エ 太田惣兵エ 菊地喜兵(平)治 須貝与治兵エ 太田伝四郎他1名などの先祖が研究家によって明らかにされている。」(『山形町細見』)

 ということで伝承では14世紀からの家柄であり、もしかしたら越前福井から来たものかもしれない。ところが、この伝承に異を唱え、銅町の鋳物師たちの菩提寺迎接寺の過去帳にはそんな古い者はいない、根拠となる文書も無いと主張する人がいる。迎接寺も、洪水に遭ったり、火事に遭ったり、移ったりしているので古い記録が無いのかも知れない。しかし、銅町の各家では家系図を残しており、十数代に及ぶ家もあるので、簡単に否定はできないのである。

 1623(元和9)年の「宮町御縄水帳抜書写」には、銅町の鋳物師31軒の名前が書かれている。その中に上記の者たちの姓名が無いというのも、伝承否定の根拠になっているのだが、ただ「甚六」の名だけは記載されているのだ。また、『幻の梵鐘』によれば、甚六銘の鐘で最も古いのは1780(安永9)年のもので、諏訪町諏訪神社にあった。この157年を隔てた両者が、連続している一家なのかは今証明できないが、もし代々続いたものならば、鋳物師長谷川甚吉の家系は17世紀前半までさかのぼることになり、さらには14世紀にまでいたるのかもしれない。