銅町長谷川甚六と長谷川長兵衛の関係

  ~長谷川總次右衛門家文書などによる考証~
                              

 鋳物師長谷川甚六

 銅町(銅冶(どや)町)の始まりの時代、1356年に山形に入部した斯波兼頼によって、谷地から山形城下に呼ばれた9人の鋳物師の一人が「長谷川甚六」であると伝わっている。しかし、これについては伝説に過ぎないとする説もある。
 1623(元和9)年の「宮町御縄水帳抜書写」に銅町の鋳物師31軒の名前が書かれているが、その中に「甚六」がいる。
 『幻の梵鐘』によれば、「甚六」銘の鐘で最も古いのは1780(安永9)年のもで、諏訪町諏訪神社にあった(戦時供出で現存せず)。この157年を隔てた(162-1780)両者が、連続している一家なのかどうかは今証明できない。

 以下の考証は、文化年間に創業したと伝わる「〇井長谷川長兵衛家」が、19紀初めに隣家の長谷川甚六家から分家し、二代後に、跡取りのいなくなった本家の地に移ったという仮定によるものである。

 

 長谷川長兵衛家と甚六家の関係

 長谷川長兵衛家は筆者の母方の先祖であるため、戸籍を見ることができる。母は初代「甚吉」の5代後(①甚吉-②長蔵-③長兵衛-④長兵衛(養子)-⑤甚吉-母)の世代である。ただ、3代目と4代目の間にごく短期間女戸主(3代目妻)がいるので、6代後とも言える。この戸籍によって4代目以降は把握できる。3代目以前は戸籍が見られないため、過去帳に依るが、寺は絶対に見せてくれないので、長谷川家仏壇の過去帳を見る他無い。これは筆者の従兄弟である故鈴木浩二氏の調査で資料化してあった。
 一方の「甚六」家は、断絶したか、町を出ているかしたため、迎接寺にはもう墓も無く、戸籍や過去帳も見ることはできないので、古い絵図と文書に名が出るのを拾っていくしかなかった。それらによって、甚六は長期間「組頭」を務めていたことが分かる。世襲していた感もある。銅町は南北三つの組(組合)に分かれていたが、その「中の組」を代表する組頭であったようだ。

 甚六と長兵衛家初代甚吉とが本家、分家の関係にあるという大前提は、第一に複数の銅町絵図によって、甚六家の南隣が甚吉(文政7年)-長蔵(弘化3年)だったことが分かり、間口は甚六が一軒前(4間程)、甚吉が半軒前(2間程)であることによる。
 明治以降は甚六の工場、屋敷の地(銅町205番地)に3代目長兵衛が移り、6代目長蔵までこの地に居住したことが分かる。移転の時期については後で考証する。

 第二に『幻の梵鐘』によれば、1814(文化11)年に甚六と甚吉が連名で鋳造した鐘が谷地沢畑月山神社にあり(戦時供出されて現存しない)、共同で作業していたことから、本家と分家か、親方と弟子のような関係と見られ、「文化年間創業」という伝承からも、この沢畑月山神社の鐘を鋳造した直前あたりに分家したと推測されるのである。

 本家、分家ということは甚六が兄で甚吉が弟ということになる。ここから両家の子、孫が並行して世代を重ねていくので、おおよその世代交代を推測できる。

 初代甚吉と甚六A

 長兵衛家初代甚吉は天保5年(1834)に亡くなっている。歿年齢は記載が無いが、甚吉の妻(名は不明)が安政3年(1856)に亡くなっていて、二代目長蔵が生れたのが文化元年(1804)なので、享和頃(1802~3)に結婚して第一子をもうけたとすれば、その頃の甚吉夫婦を、20才と18才程度とみることができよう。
 すると甚吉は天明5年(1785)頃に生れ、50才程で亡くなったと推定される。「天明の大飢饉」頃の生まれである。妻は夫甚吉の死後22年間生きて、歿年齢は70才程だったことになる。
 甚吉の兄である甚六Aは、甚吉より5才年長と仮定して、安永9年(1780)頃の生れとなる。文化11年には兄甚六が35才程、弟甚吉が30才程となる。甚吉の長子「長蔵」は11才だった。

  〈甚吉の手紙〉

 幕末に検断(町名主)を務めた「/\丸長谷川總次右衛門家」の古文書に、甚吉名の手紙が残っている。庄内松嶺の池田常吉という人物に宛てたもので、商売関係の内容であるようだが未解読。長兵衛家には、初代・二代は「福井屋」と称していたと伝わり、大正時代にも「福井工場」と呼ばれたが、この手紙では「冨山屋」と自称し、「/\ト」の屋号を用いている。解読できていないので、あるいは庄内地方の同名異人である可能性もある。
 この手紙の年代は「未」年としか分からないが、年齢の推測からして、文化8年(1811)27才か、文政6年(1823)39才のどちらかになる。前者とすればちょうどその頃分家、独立したと見ることもできようか。
 跡取りの甚六Aが嫁を迎え、長男をもうけ、弟の甚吉も結婚し長男を得るにいたって、隣家に分家したと考えるのが自然だろう。

 總次右衛門家文書の一つ「連印仕り仲間約定の事」(嘉永元年1848)には、「当町の義は、荒増し鋳物師に候へば、子供ら其の職を習はせ、生長の上は他町へ住宅仕り候ふ迚も、職分相成らず候ふ故、自ら半軒、四半軒迄、裏家迄も分家し、或いは譲渡し等に相成り、夫れ故年増家数多く相成り」とある。まして余所の土地、例えば福井県から銅町に来て開業するような例は、江戸時代においては無かったと思われる。

  〈文政七年銅町大洪水〉

 文政7年(1824)、馬見ヶ崎川の氾濫で銅町全体が流される大洪水があった。ほぼ全ての鋳物工場が大損害を受けている。このときの川欠図には甚六と甚吉がともに「家大そんじ」と記入されている。当時は東側の土手(堤防)が無かったのである。文政10年(1827)にも洪水があり、この被害から立ち直るのは容易なことではなかっただろう。
 この時、甚六Aは40才代半ば、甚吉は40才くらいだったろう。甚吉の長男「長蔵」は21才、同世代の甚六Bも20才代前半であったろう。男手は十分だったと思われるが、苦労が祟ってか、甚吉は天保5年(1834)に50才程の年齢で没する。兄の甚六Aも、そう遅れずに没した可能性が高い。
 こうして子の世代に移っていく。

 

 二代長蔵と甚六B

 弘化3年(1846)の絵図には甚六と長蔵の名がある。翌年から翌々年の嘉永元年(1848)にかけて、銅町の「組(組合)と契約」をめぐって町内で諍いが起こり、宮町の町役や迎接寺の住持の仲裁が入った。甚六(おそらくB)の「中の組」、特に「十一人組」と称するグループが他の組との契約から独立しようとしたのがきっかけのようである(長蔵も含まれる)。この諍いがどのように決着したのかは不明であるが、後々、大正時代に長谷川長吉らが銅町に電気を引いて電気動力に転換していった際、南部の小野田、福井工場が取り残されたように見えることからも、何らかのしこりが残ったように感じられるが、分からない。

  〈長蔵の河原開墾〉

 嘉永に入って、長蔵は河原の開墾を始める。この河原がどこなのか明確ではないが、馬見ヶ崎川の千歳橋より下流左岸ではないかと思われる。あるいは銅町の東側堤防が完成し(時期は未詳)、その外側を畑にしたことも含まれるかもしれない。「銅町堤」の描かれた川欠図に堤防東側の畑地所有者が、北から甚六、長蔵となっている。(この図の記載では検断長谷川總次右衛門、組頭甚六となっている)開墾の広さは分からないが、数年間の日時と多額の費用を要しただろう。

 この頃、3代目長兵衛は弘化4年(1847)に生れたばかりであった。長蔵44才、妻41才という、当時としては晩年の子である。この子の成長を待ち望みながら、家業と開墾に励んだのである。

    〈長蔵、總次右衛門から借金〉

 しかし遣り繰りに窮する時もあったのだろう、嘉永7年(=安政元年1854)に總次右衛門から、布団9組と膳椀10人前を形に4両2分借金している。この返済が数年に渡って滞り、終に文久元年(1861)、總次右衛門から役所に訴えられてしまう。この訴状の写しが残っているが、金を返すから宮町の善兵衛の家に形を持って来てくれと言うので、總次右衛門の使用人が持って行くと、金は本人が直々に返すというので本人宅へ行くが、金は返してもらえない。「長蔵案外不當之儀申募ニ 更ニ取放不申 難談至極仕候間 何卒格別之以御慈悲 右相手長蔵 善兵衛御召出し 御吟味之上 別紙調書之通 早々済金仕候様被仰付被成下度 偏ニ奉願上候」という次第である。これは訴えた側の言い分なので、長蔵側にもそれなりの言い分はあるのだろう。最初から騙し取ろうという魂胆ではないだろう。この訴訟がどうなったのかは不明だが、長蔵家では開墾に続いて、金銭的に苦しい状況が続いていたことは推察できる。
 この間、隣家の本家甚六Bはどうしていたか。当時も組頭をしていたから何らかの助力はしたかもしれないし、「仲間約定」のゴタゴタの後、分家長蔵とともに開墾をしていたかもしれない。

 

 甚六B倅甚助の城下払い

 時代は孫の世代になってくる。
 ここに總次右衛門家文書で、「甚六」倅「甚助」の城下払い赦免、帰住願いがある。未(ひつじ)の年に「身持不宜 過當之始末有之条 不埒至極之趣を以」て領内某村の親戚に預けているが、老親二人共に病弱で、父甚六は手が効かず仕事にも難渋し、母は息子の看病をひたすら望んでいるという状況が記されている。これを「甚六の組合」の者たち一同そろって帰住願いを出したのである。検断は横田善治とある。この古文書も野口一雄氏に解読して頂いた。
 この未年がどの年号の時かは不明だが、あり得るのは弘化4年(1847)と安政6年(1859)である。次の明治4年(1871)は、もう廃藩置県が行われ、旧藩の制度に意味はなかったと考えられるので、除いていいだろう。弘化4年は前述の通り、折から町内で契約のゴタゴタが生じており、これに絡んでの不祥事かとも考えられるが、甚六Bは40才代半ばと推定されるので、「老親」というには早いように思う。安政6年なら甚六Bは50才代半ばになっており、合致するように思う。すると帰住願いの出された「申年」は万延元年(1860)ということになる。
 倅甚助の年齢は不明だが、同世代の長兵衛よりはずっと年長であったはずだ。弘化年間で20才代、安政末年で30才余りというところだろう。「身持ち宜しからず」のニュアンスは女性関係か金の不始末だろうが、拗れるのは30歳代かと思われる。
 この甚六Bの倅「甚助」の帰住が叶ったかどうかは分からないが、甚六家が明治の初めに消えてしまうことを考えると、願い叶わず、甚六Bの逝去と共に甚六家は断絶したとするのが自然なように思われる。

 後日記(2024、2、13)

 NDLデジタルコレクションで長谷川甚助を検索したところ、明治十年、十三年、十四年、二十三年と品評会に花瓶・鉄瓶を出品し受賞している山形銅町(宮町)の甚助がいることがわかった。十年と十四年、二十三年が内国博覧会で、十三年が宮城県博覧会である。

 これが甚六倅甚助なのか、長兵衛こと甚介なのか、はたまた別家の長谷川なのかわからない。ただ、二十三年の内国勧業博覧会出品者が前二回の内国博覧会の出品者と同じであるとすると、三代目長兵衛は十八年に亡くなっているから、別人ということになる。するとやはり甚六倅なのか。明治十年から二十年代の銅町住居者地図のようなものがあるといいのだが。

 

 三代長兵衛と「甚介」

 文久2年(1862)、3代目長兵衛16才に大木ミヨ18才が嫁入り。この時、2代目長蔵は59才になっていた。3代目に男子が生れないままに明治維新を迎える。ちょうど戊辰の年に長蔵の妻=長兵衛の母が亡くなる。62才だった。


 ここで明治3年の絵図を見ると、検断は長谷川總右衛門、組頭は須久勘蔵、長谷川甚六、小野田寅之助の三人とある。そして甚六の南隣には「甚介」という名が記入してある。これが難題である。本来なら「長蔵」か「長兵衛」とあるはずなので、「甚介」とあるのは不審である。
 すぐに甚六倅「甚」を想起するが、城下払いを赦免され帰住したとしても、分家に住み、その当主になることは無いだろう。考えられるのは、長兵衛の幼名が「甚介」だったということである。つまり、明治3年の段階では、老いた長蔵が家督を息子甚介に譲っていた。甚介は2代目長蔵の歿後、「長兵衛」と名を変えたというのが妥当な線であろう。
 それでも出生時に、隣家の同世代の子と同じ読みの名前を付けるのは変な気がするが、全般の整合性を求めるなら、これしかないのではないか。

 

 甚六家の消滅

    〈甚六最後の銘 要害村少林寺梵鐘〉

 この後長谷川甚六の名が確認できるのは、今のところ明治5年(1872)山辺町要害の少林寺梵鐘銘文が最後である。佐藤金十郎や渡部與右衛門、荘司清吉、長谷川惣五郎らと並んで記されているが、長蔵の名は無い。これらの名前を見ると、南北に長い銅町の中でもおおよそ中央部、「中の組」の人々の仕事のようである。長蔵はこの年8月に亡くなっており、長兵衛もこの仕事には加わらなかったようだ。

 この鐘は新鋳したものではなく、明治最初期の神仏分離騒動の際、宮町両所の宮にあった歴史あるものを、鐘楼ごと買い取り移設したものである。その際に元の銘文(陽刻)を削り取り、新に鏨で彫り込んでいる(陰刻)。これは両所の宮の氏子たちから取り返されない用心のためだった(少林寺は直前に実際、類似の経験をしている)とはいえ、鋳物師たちにとっては不本意な仕事であっただろう。これが恐らく甚六最後の仕事だった。(7月25日追記 しかし、銅町の鋳物師たちも両所の宮の氏子であるわけだから、鐘がどこに行ったか氏子たちに秘密にしておけるわけもない。とすれば、当時の世相として廃仏毀釈が普通に民間に浸透していたため、問題にならなかったというのが本当かも知れない。鋳物師たちも、鋳溶かすよりはましと思ったのかも知れない。削ったのは新しく寄進者の名を記すための必要な作業に過ぎなかったのだろう)

 この後甚六の名を見ない。おそらくこの時期に甚六Bも没したのであろう。長兵衛家戸籍からは、甚六家のあった場所、銅町205番地に3代長兵衛が戸主となって住むようになったことが分かる。その時期は、明治5年8月の長蔵の死、明治7年三回忌に当たっての2代目新田開墾顕彰碑建立の頃であろう。
 倅甚助が帰住して甚六を継いでいた(甚六C)という可能性も無くはないだろうが、であれば彼の代で断絶する理由が分からない。(赦免されたとはいえ前科者が組頭になれたかどうかも疑わしい。組合の内部で決める話なので許されるのかもしれないが、分からない)

 

 長兵衛家の甚六家継承とその後

 結局、分家(長兵衛)が本家(甚六)を継いだという解釈が最も整合性のある解釈ではないだろうか。
 3代目「甚介」は26才で相続後、「長兵衛」と改名し、ほぼ同時に甚六家の屋敷、工場、田畑を併せ持つようになったのだろう。一気に生活と生業が拡大したことになる。もちろん様々な苦労が伴っただろうが、寺津の大木勘十郎家から嫁いだ姉さん女房ミヨの助けもあって、軌道に乗っていったのではないか。
 明治7年8月、長蔵の三回忌に建てた小さな顕彰碑には、2代目の開墾の苦労と先祖への感謝が記されているが、甚六家に関わるような記述は全くない。

 3代長兵衛30才代後半の時期、男子に恵まれなかった夫婦は、大木家から姪を養子にもらい、銅町の小野田平左衛門家から次男平治郎を婿養子に得る。直後に長兵衛は39才の若さで亡くなる。おそらく病気で先が短いことは予想されていたのだろう。妻ミヨが家督を相続し、女戸主として一家を切り盛りした(これを4代目と数えることも可)。

 3年後、若夫婦が当主としてやっていけそうなのを見てミヨは退隠する。4代長兵衛の誕生であった。ミヨはこの後も長生きし、長兵衛家を見守る。

 この明治時代後期から、次の5代目甚吉の大正時代にかけてが、〇井長谷川長兵衛家の最も隆盛を誇った時期であった。

 

 

 以下は全くの憶測になるが、組頭甚六家を失った中の組の一部は、上の組の小野田平左衛門家、特にその親戚の才助を中心にまとまっていったのではないか。才助が名工であったのはもちろんだが、こうした鋳物師たちの綿々たる結び付きがあったからこそ、数々の名作が生み出されたともいえるのではないか。
 小野田才助は3代長谷川長兵衛の1才年上、その妻ミヨの1才年下である。ほぼ同年齢の彼らが、一緒に(同志的に)銅町の将来を語らうこともあったのではないか。才助の甥に当たる小野田平治郎を長谷川家の婿養子にし、4代目長兵衛として(かつての甚六家を)継がせことにも、彼らの意向が働いていたのではないか。

 大正4年(1915)2月、才助はミヨの死にあたって自作の仏壇の「りん」を長兵衛(4代)に贈る。同年12月にはその才助も亡くなる。この「りん」に込められた思いをあれこれ想像してしまうのは、やはり妄想の類いになるだろうか。

                            令和4年7月1日

                             7月9日追記

銅町の鋳物師 長谷川甚六 - 晩鶯余録 (hatenablog.com)

 

 その後、新たに旧土地台帳によって考察を改めました。以下参照。

銅町長谷川長兵衛家について旧土地台帳を閲覧 - 晩鶯余録 (hatenablog.com)