幕末に銅町の検断だった長谷川總次右衛門家の古文書から、長谷川甚六・長蔵に関わるものを探しているが、そのうち、銅町全体についての理解が進むようなものがあった。もとのくずし字の文は既に先人の手で解読してあったので、内容を読み取ろうとしてみたが、素人のためよく分からないことが多い。何かお分かりの方はご教示願います。
以下に、原文を少し読みやすくした(つもりの)ものを載せますが、間違いがあるかもしれません。その後に、内容の解釈を載せます。
連印仕り仲間約定の事
一、銅町契約の義、三組人数入り交じり、弐つに別れ、是迄会合仕り候ふ処、
当町の義は、荒増し鋳物師に候へば、子供ら其の職を習はせ、生長の上は他町へ住宅仕り候ふ迚も、職分相成らず候ふ故、自ら半軒、四半軒迄、裏家迄も分家し、或いは譲渡し等に相成り、夫れ故年増家数多く相成り、
契約人数弐宿にては手窄(狭)の家にて、賄い等相成り兼ね、往々は大勢の内、年中には誰か聊?かの手落ちも之有る節は、其のものを憎み候へば、先達て契約の席へ持出し、一町内の混雑に相成り候ふ事、先年より間々之有り、さ候へば、町内の日間(暇)費ひ(え?)少なからず。町内不益の基、旁々心附き、契約の宿三組に別れ、前々取究めの義は是迄の通りにて、日待ち契約と唱ひ、組合日待ちの席にて談合の節は、取究め候はば諸懸りは勿論、日間(暇)倒れも之無く、年々十金余の町益に相成るべき義、眼前の分故、此の段下・上両組へ去年中談に及び候ふ段行違いに相成り、町内混雑仕り、宮町御役家両人外、迎接寺住主取噯(扱い)に相成り、当組は組契約に仕り候段、内実は兎角和合せずして、元噯の衆中之を察し、当町契約元通りいたし度き旨を以て、又候(またぞろ?)噯に立入候ふに付き、当組合談合の上、任噯に候ふ様決し仕り候得ども、両組にて望みも之有る事故、和熟相成り兼ね候ふに付き、拠(よんどころ)無く当組契約片側亭、片側客の年替えに亭客相定め、当年長作方にて宿鬮(くじ)引当り、東側より仕り候ふ様、当組一同熟談の上取究め候ふ処、当年会合仕り候ひては下・上両組にて後ろ影にて拒み候ふ様子にも相見へ候ふに付き、当年会合相休み申し候ふ、縦令明年に相成るとも、又候噯等立入り候ふ事も之有り候はば、当組一同熟談の上、挨拶仕り候ふ様、此の段堅く相定め申し候ふ、
猶亦当組の内「十一人組」と申し唱ひ之有り候へども、全く是は「当組一同之相談に構はず組抜けに相成り、他組の契約へ交り申すべき抔」一切之無く、十一人方契約の膳椀人別に分け捌き候ひては双方のはしたものにも相成り、往々は膳わん迄分ち候はば、残り連中のもの内心に拒み之有るべきやと相察し候ふ故、「右膳わん此方へ分け捌きに及ばず、我々方入用の節は貸しくれ候ふ様」申し合せ仕り候ふ迄の事に候ふ、さ候はば「契約へ十一人組抜けに相成り、他組契約へ交り候ふ義」決して之無く候ふ、
然る上は何事も睦まじく一同相談合の上、組益々相成り候ふ様相心得、義理を重んじ申すべく、諍ひを以て組合町内を騒し候ふ義宜しからざる義に付、一同堅く心得申すべく候ふ、都(すべ)て組合の義は一同熟談の上物事相決し候ふ様取究め候ふ条今般連印仕り後日の爲仍って件の如し
嘉永元年申十一(十か)月
(署名十七人、一名印無し)
以下、内容の解釈になります。
連印して仲間約定の事
(「仲間」とは「中の組」所属の鋳物師を言うか)
〔銅町の特殊性と、組・契約のこれまで〕
銅町は三組に分かれている。
(この「組」を「組合」と言うか 行政の末端組織か、職業組合か)
その三組は入り交じって二つの「契約」に分かれて会合していた。
(「契約」と「組」とはどう違うのか。「組」は商売上の共同請負体を言うか。「契約」は定期的な親睦を兼ねた事業請負相談会のようなものか)
銅町の特殊性として、ほとんどの家が鋳物業であり、子供が成人しても、他町へ移動しては家業が成り立たないので、次第に子弟が町内に滞留し、半軒、四半軒、家裏まで分家して、(その結果)「契約の宿」も手狭になっている。
(「宿」とは持ち回りの会合場所=誰かの家、を言うか)
その結果、契約の「賄い」に行き届かないことがあって、大勢の中にはいささかの手落ちに不満を持ち、契約の席でそれを持ち出す者も出て混乱が起きるようになってきた。
(「賄い」は会合時の飲食接待などを言うか。或いは仕事の分配を言うか。「手落ち」は仕事の割り振りの不公平を言うか)
〔契約(宿)数の改変を計る 二から三へ〕
そんなことでは町内の日間(暇)費え(仕事が無く赤字? 単に余計な出費?)が少なくない。町内の不利益の基であると皆気づいた。
そこで、「契約の宿」も三組に分かれ
(一組一契約になって、「組」と「契約」の構成員が一致する? 一つの契約の人数は減る)
前々からの取決めは従来通りで、「日待ち契約」で談合すれば、諸経費は勿論(減じ)、日間(暇)倒れ(仕事にあぶれて困窮することか)もなく、毎年十金ほどの町益にもなることは明確なので、
(少ない人数の中で順番に仕事を融通すれば、仕事にあぶれる者も無くなり、諸経費も効率的になるという理屈か)(「日待ち契約」⇒「お日待ち」なら家主たちの新年宴会を意味する)
〔他組との相談不調、混雑し、仲裁が入る〕
その事を、去年、下・上両組にも相談したが、行き違いがあって混乱したので、宮町の役人や迎接寺の住職の「取扱い」となった。
(争議の仲裁を受けたということか)
(思うに、中の組(の契約)だけで仕事を受けて、上の組・下の組の者を排除するかのように誤解されたのではないか。あるいは実態も独占、排除の傾向にあったということか)
(下・上の組は、仕事の受注元(契約)が増えれば、各組の仕事数が相対的に少なくなってしまうと考えたのかもしれない)
〔当組は「組契約」とした〕
(その裁定の結果?)当組(中の組)は「組(単独の)契約」としたが、内実はとかく仲違いもあって上手く行かず、
(二契約の際の人間関係が残っているため、中の組だけの取り決めでは不都合が生じたということか)
〔他組の介入〕
元噯(読みは「あつかい」)の衆はこれを察し、当町の契約を元通り(二つに)にしたいということで、噯にも立ち入るので、
当組(中の組)では談合の上、任噯(扱いに任せる?)様に決めたが、
(それについては)
下・上の組の希望もあるので、妥協・同意できなかった
〔当組契約を、亭・客一年交代とする〕
仕方なく、当組(中の組)契約は、(通りの東西で)片側を「亭」、片側を「客」として、一年交替とした。
(この亭・客とは、仕事の元請け受注者(亭)と下請け(客)という違いか)
今年、長作(姓不詳)の家で契約の宿についてくじを引き、今年は東側から「亭」とするように、当組(中の組)一同熟談の上決めたところ、
〔他組の不信内攻 会合中止〕
今年の会合(町の会合?)については、下・上両組は、影(陰)では拒否する様子も見えたので、中止とした。
たとえ明年になっても、(下・上組が)又候(またぞろ) 噯(読みは「あつかい」、中の組の契約?)等に立ち入ることもあったならば、当組(中の組)一同熟談の上、挨拶(申し入れか)するよう堅く決定した。
〔当組合中の「十一人組」について〕
猶また当組(中の組)の内「十一人組」と称しているが、これは「組抜けして他の契約に交じる」などというのでは全くなく、
(署名している十七人の内十一人が「組内組」を作っていた? あとの六人はどういう立場なのか? 他組と契約を共にしているかいないかの違いか)
(十一人が中の組から抜けて、他組・契約へ移るのではないかと「残り連中」が疑念を持つとはどういうことか)
(銅町図では五、六十軒の「鋳師」及び「日雇」がいるので、三組に分かれると平均二十軒弱になる。ただ、一軒前の者は十数軒に限られ、西側の方に多い)
(署名から見ると、南部の小野田平左エ門や寅之助は上の組、北部の菊地、横倉、角川、長谷川(カネシチ)などは下の組となるようだ)
(中の組には佐藤金十郎がいるし、検断(總次右衛門や大西忠兵衛)もいるので、権威的に上位だったか。組頭は各組から一人ずつ出ているようだ。上の組は小野田寅之助、中の組は長谷川甚六、下の組は須久勘蔵)
〔契約の膳椀について〕
十一人の、契約に用いる膳椀を、人別(めいめい)に分割管理すると、両者半端(膳椀数不揃い?)になって(しまう)、
(ここで契約の膳椀の分割所持の話になるが、意味がよく分からない)
(あるいは中の組だけの話でなく、町内二つの契約が三つになった結果、契約用の膳椀が足りなくなり、他組との共有の話になっているのかもしれない。とすれば、他の組に預けておいて、必要なときだけ借りるというので理解できる)
ゆくゆくは膳椀(の所有権)まで(契約ごとすなわち組ごとに)分ければ、「残り連中の者(中の組で「十一人組」以外の者? 他組の者?)」は内心きっと拒否感を持つだろうと察せられたので、「膳椀はこちら(十一人組?、中の組?)に分ける必要は無く、我々(十一人組?、中の組?)が必要なときに貸してくれるように」と申し合わせただけのことである、
(この部分は十一人組の立場、目線からの弁明である。「仲間内」であっても、彼ら十一人組が主たる部分を占めていたから当然なのかも知れない)
(同じ中の組内で別に契約を行うグループがあったとすれば複雑である)
この上は何事も睦まじく一同相談合の上、組が益々(盛んに)相成るように心得、義理を重んじるべきで、争いをして町内を騒がすのは良くないので一同堅く心得て、すべて組合の事は(組合員)一同熟談の上決めるように取り決めること、今回連印して、後日の為に以上の通りである。
嘉永元申年(一八四八年)十一月(十月か)
清吉 (庄司)
忠兵衛 印 (大西)
總次右衛門 印 (長谷川)
永七 印 (栗原)
金七 印 (佐藤)
長吉 印 (長谷川)
猶吉 印
長松 印
金十郎 印 (佐藤)
与助 印
勇五郎 印
長助 印
久兵衛 印
治右衛門 印 (庄司)
甚六 印 (長谷川)
長蔵 印 (長谷川)
留蔵 印
十七人の署名順は、古地図に照らしてみれば、銅町通り西側の南から北へ、続いて東側の北から南へである。中間の「与助」が東側か西側かは未詳だが、銅町中部のグループであることは一目瞭然である。
なお、總次右衛門家は鋳物師ではなく、醤油の醸造・販売を家業とし、町内では「油屋」と呼ばれていた。この時期は9代目が当主で、10代目はまだ20歳代だったと思われる。
追記 (令和六年三月二十七日)
「銅町は五班に分かれていた時期があった」という記述を見ましたので、詳細が分かりましたら書きます。おそらく、三組から分かれて五班へと移行したのではないかと思っています。