令和6年4月29日に思うこと

 今日は昭和の日、昭和天皇誕生日だ。今年は昭和99年にあたるが、ご存命であれば123歳(1901年ご誕生)。

 自分の中では生まれてから三十数年間、天皇誕生日はこの日だった。元号と同様に、永遠に変わらないような気がしていたものだ。その後上皇陛下は12月23日、今上陛下は2月23日である。

 

 昨日4月28日、日本は、独立から72年目を迎えた。

 サンフランシスコ平和条約発効から72年ということである。日本がGHQの支配から赦免してもらった日だ。しかし今日本では誰も独立記念日として祝う人はいないし、その自覚も無い。

 占領期間中であっても、日本政府、国会は存在したし、行政機関も日本人によって機能していたので生活実感としては「異民族に支配された。独立を奪われた」という認識が薄かったのかもしれない。また米軍を「軍国主義からの解放者」として迎える気分にさせられたせいかもしれない。

 かつてのヨーロッパ(古くはスペイン、ポルトガル。近くはオランダ、イギリス、フランスなど)による南米、アジア、アフリカ植民地支配とは違う、段違いに緩い異民族統治は日本にとって幸運ではあったが、その7年間に受けた影響はやはり大きかった。非常に巧妙に日本国民に対する統治と意識変革が行なわれたとみるのが正しいだろう。そしてGHQの一部には共産勢力が入っていたというのも事実だろう。

 

 昨日28日は衆議院補欠選挙の投票日で、東京15区の9候補者による選挙戦に注目していたが、結果は立憲民主党(+共産党)の候補者が他に抜きんでて当選した。投票率が、あの騒動の中にもかかわらずなんと40%という低さだった。地元にある組織票が物を言ったに違いない。自民党候補者がいなかったのでその分、投票数が少なかったのか。そのうえ自民党票は何人かの候補者に分かれた。普段無党派層のいわゆる浮動票も、三割くらいは立憲民主党に投票したようだ。昔の、自民・社会両党による体制に慣れ、いまだに脱し切れていない年齢層がいることは否定しがたい。自民党に腹が立ったら社会党に入れて牽制するという習慣が染みついているのだろう。しかしまた意外に多くの高齢者がインターネットに慣れ親しんでいることも事実で、左傾化を憂う老人は『余命三年時事日記』に同調して行動し、ひどい目に遭ったりもしている。だから、行動に慎重になっている面もあるに違いない。

 新党の日本保守党は街頭演説に多くの聴衆を集め、その熱気はまさに他候補すべてを凌駕していたが、結局のところ組織票を打ち破るまでには至らなかった。小選挙区の下では、地域の有権者にまだまだ国勢選挙という意識が薄く、区長や区議会議員の選挙レベルの意識に留まっているように感じられる。自分たちが泣く泣く差出す税金がどう使われるのかという最大の問題に対して、あまりに関心が薄く考えが足りないのではないか。自省しよう。

 

 自分は日本独立の直前に、辛うじてOccupied Japanに生まれたので72歳になったばかりであるが、小学校の男の先生はよくアイケルバーガー陸軍中将(GHQマッカーサーに次ぐ人)の名を口にしていた。そこには「アイケルばーかー(馬鹿)」の意味合いが掛けてあったのを記憶している。独立数年後における被占領経験者の意識はそういうものだったのかもしれない。

 日本陸軍の歩兵第三十二聯隊がおかれていた霞城跡には米軍が進駐し、かまぼこ型の兵舎が残っていた。町中の土蔵の白壁には黒い迷彩柄が塗られた跡が残っていた。県都でありながら空襲を受けなかったので、古い城下町特有の入り組んだ道路が残っていた。闇市(マーケット)や飲み屋の並ぶ通りの名残が見られた。安月給の教員たちはそこで時計や靴を方においてまで安酒を飲んでいたのだと先輩たちから聞いた。英語の先生は進駐軍との関わりが多かったようだ。

 中学校の頃でも、旧満洲国を「満洲」と言ってはならず、「中国東北部」と言わなければいけないと教えられた。また、「北朝鮮」ではなく「朝鮮民主主義人民共和国」という正式名称で呼ぶべきだという意識が広く浸透し、放送局もかなり後までアナウンスの冒頭に「北朝鮮朝鮮民主主義人民共和国」と一回断っていた。これらは中共北朝鮮勢力の干渉によるものだったのだろう。

 自分も高校生の頃には『三光』(中国戦犯の手記集)などの書籍を読んで、かなり旧日本軍の「蛮行」に憤っていたものだが(今はこの本の内容には否定的である)、中国戦線に二度従軍した父はその本を見ても否定も肯定もしなかった。父は輜重兵だったので前線で撃ち合うことはなかった。「♪ 輜重輸卒が兵隊ならば電信柱に花が咲く」と歌われたくらいである。

 よく戦地の話で聞いたのは、延々と歩くこと。広大な地平の遠くの山が、いつのまにか前から後ろに移っている。近視が回復したとか。夜の行軍はまさに鼻をつままれてもわからない真っ暗闇で前を歩く兵の背中も見えない。行軍中に便意を催した際は、さっと列を離れ、野屎して走って戻る。また、軍隊というところはあらゆる職業の人間がいて、何でもできてしまう。みんなで池をさらって魚を獲った話とかは楽しかったのだろうな。ドラム缶風呂の話とかも。農民が逃げた農家の土壁を崩すと中に穀物が隠してあるという、映画『七人の侍』に出てくるようなエピソードも聞いた。日本軍にも同様の貧農出身者がいて見つけたわけだ。

 輜重部隊と雖も襲撃を受ける。八路軍(パール―)も怖いが敵機の機銃掃射は最も恐怖で、どんなに細い柱でもあればその陰に身を隠そうとする。撃たれた場合の貫通銃創は射入口は小さく、射出口は巨大である。戦死した兵は火葬する。

 敗戦後は南支の収容所にいたが、腕時計などと交換に収容所外の中国人から食べ物などを買ったりした。なにかの時に少年のような中国兵(国民党軍)の機嫌を損ね、拳銃をつきつけられて死ぬかと思ったという。早めに復員できたのは蒋介石のおかげだと言っていた。

 大正初期に生まれた父の世代は最も戦死傷者が多い世代であり、民間人の引揚者とともに、復員後に戦後復興に尽力した世代である。みんな貧乏で物の無い時代を共有し、働いて生きて子供を育てた人たちである。彼らの後を受けた自分たち戦後世代は、戦争を知らず、経済成長の真っただ中を生き、現役から退いた。が、自分の生活以外に何か日本国、日本人のためになることをしたのか。百田尚樹が日本保守党の応援演説で語った言葉は、実に自分たち世代全ての日本人が共有すべき言葉ではないか。