兵士の年齢

戦争で戦う兵士の年齢

 カブール空港への自爆攻撃で戦死したアメリ海兵隊員13人の多くが20代の兵士であるという。上は30歳代である。女性兵士もいたようだ。

 戦争は若者の仕事(語弊があるが)であって、40代、50代のおっさん(兵役を済ませた後の再徴兵)がぞろぞろと兵隊になって出征し戦った大東亜戦争末期のような状況は異例だろう。逆にまた18歳以下の子供まで動員されたことも異例かも知れない。まあ、老人から子供まで全員が戦わざるを得ない状況は、世界の歴史の中で往々にしてあっただろうが。

 フォークランド紛争で出撃した英軍にも10代の兵士はいた。

 

 山形市国分寺薬師堂に「戊辰薩藩戦死者墓」という石碑があって、戦死者の名が書いてある。

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 戊申戦役には詳しくないが「明治元年戊辰九月二十日羽州岩村ニテ戦死」「寒河江村」「長岡村」とあるから寒河江市近辺での戦闘かと思われる。

 山形市発行の「やまがたの歴史」を見ると、慶應四年(九月八日明治に改元)九月一日、米沢藩降伏。十五日、官軍米沢入城。官軍は米沢藩庄内藩攻撃の先鋒を命じる。十九日、六十里越街道より庄内領にせまるべく、官軍は上山城下に集結。この時敗走する旧幕臣桑名藩兵は庄内軍に合流すべく寒河江市長岡山に防禦陣地を構築し、官軍の進行を食い止めようとした。二十日早暁より米沢軍および官軍がこれを攻撃し、一日にして掃討した。これが東北戦争における最後の戦闘となった、ということである。

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 この墓碑銘に見える薩摩藩兵士の年齢は、最年長が33歳である。30代が二人、20代が五人、15歳が二人である。(他に越後の高田大鹿村から夫卒として従軍した清吉という者がいるが、年齢は記載無し。新潟県経由で山形に入る際、雇われて来た者なのか)

 現代は平均年齢が高くなっているので、154年前当時の15歳(数え歳だろうが)は、今に比べれば18~20歳くらいには相当するだろう(人生がゴム紐のように伸びたとしても、ゴム紐に記された目盛の数は変わらないように、成人までの時間が長くなるだけで中身は変わらない。逆に言えば人生の密度は薄まっているという考え)。

 兵隊になって実際に前線で戦闘する(させられる)のは、何時の時代においてもこの世代だということなのだろうか。

 

 

 薩摩軍の編成について、ウェブから以下の記事を引用させていただく。墓碑銘には「番兵二番隊」などとあるが、この「番兵」についての説明がある。

 引用開始

陸軍小火器史(8) ―幕末・維新戦争の銃撃戦(その1)

 「〔引用者注、鳥羽伏見の戦いにおいて、幕府軍に〕対して薩摩藩兵は小銃20隊と3個砲隊だった(『戊辰戦役史』大山柏)。小銃隊の装備は主に英国エンフィールド兵器工廠製の前装ミニエー銃であり、1隊は80人で1個小隊、それが2個の半隊に分けられる。これに指揮役、喇叭手、鼓手などが加わった。20個小隊は出身で分けられ、城下士(じょうかし)10隊、外城士(とじょうし)4隊、遊撃3隊、番兵・私領・兵具の各1個隊である。

  よく知られているように薩摩藩は、城下士と外城士といわれた郷士は対立していた。同じ部隊にはまとめにくかったのだ。番兵といい、私領兵というのも、番兵とは士分でない者をいう。諸藩でいう鉄炮足軽のことである。私領兵とは大身の藩貴族の家臣、つまり陪臣のことだった。ただし、指揮官級には城下士がつくことが多く、外城1番隊長はのちの村田銃開発者、村田勇右衛門経芳(ゆうえもんつねよし)である。」

 引用終了

 なお、「兵具隊」とは、他のウェブ記事によると、砲隊を守備する兵のことらしい。