大石田町に行く 『土に叫ぶ人』

 大石田町役場隣に「虹のプラザ」という施設があって先日公演があった。近江正人作・演出の『土に叫ぶ人 松田甚次郎と妻睦子~賢治の夢を生きる~』である。

 午前中に着いたが、雪だった。時々吹雪く。さすが大石田斎藤茂吉が戦後の一時期住んだ「聴禽書屋」を見に行く。建物が古く、二階に上がるのは禁じられている。「大石田町立歴史民俗資料館」が隣に建てられているが、雪の季節に行くものではない。

 かつて最上川舟運盛んな時代、大石田河岸は大いに栄えたのである。天領で船番所があった。庄内への運送はこの船しかなかった時代である。左沢、寺津なども同様であるが、間の村山市に碁点・隼・三ケ瀬の三難所があって大型船は大石田までしか遡上できなかった。

 昼食に会場近くの蕎麦屋で鴨せいろを食す。この辺の蕎麦は美味い。最近、尾花沢の向こうの宮城県加美町から尾花沢によく食べに来るという人と会った。この方はなんと十九代続く農家だという。常陸という名字で、この姓は加美町に集中している。さぞや由緒のある方であろう。おいしくいただいて会場の「虹のプラザ」へ。開場前からロビーには人が二列に並んでいた。満席である。

 終演後、作演出の近江先生に挨拶に行ったが、そこで旧知の人二人と逢った。外には出てみるものである。しかしお互いに年取ったな。

 会場は大石田町町民交流センター虹のプラザ、愛称「なないろホール」。最大343席(1階285席・2階58席)を収容できる多目的ホールである。

 

  

 

 松田甚次郎は戦前に山形県新庄市で農村更生、改革運動を実践した人である。最上郡稲舟町の地主松田甚五郎の長男として明治四十二年に誕生。県立村山農業学校を経て盛岡農林高等学校に進んだ。在学中十八歳の時、先輩の宮澤賢治に面会し「小作人たれ、農村劇をやれ」との「訓へ」を受け、帰村後、父から六反歩の田地を借りて小作人となった。とはいっても、完全自立というよりは親の協力なしには以後の活動も不可能だったろうとは思う。

 村の若者たちと農村塾をつくって活動した。渇水を主題に農村劇も創作し、宮沢賢治の助言を受け『水涸れ』と題した。それは神社境内に作られた土舞台で上演された。

 昭和七年、二十三歳で大石田対岸の横山村(新庄藩飛地)村長寺崎效太郎の次女睦子と結婚。彼女はお嬢様から小作人の嫁へと生活が一変した。この縁で今作品の大石田公演では睦子が語り手となって話を進める。同年「最上共働塾」を設立。

 昭和十三年、甚次郎は自分たちの活動記録『土に叫ぶ』を出版した。出版したのは東京の羽田書店で、これは第八十代総理大臣羽田孜の父、羽田武嗣郎が創設した出版社である。武嗣郎は甚次郎の六歳年長、長野県出身で東北大学で阿部次郎に学び、朝日新聞政治部の記者をしていたが、昭和十一年に新庄の農村活動を調査取材に来たことがあった。その縁で甚次郎の活動が知られることになったのだ。その後武嗣郎は政治家となり、運輸、農林政務官などを務めた。同時に出版業を起こしたが発行人は別人の名になっている。『土に叫ぶ』を和田勝一が脚色、昭和十三年八月に新国劇が東京有楽座で一ヵ月間上演して大きな話題となった。連日満員で、現役四大臣が観劇したという。その後大阪、名古屋でも公演が続いた。こうして松田甚次郎の名は全国に知れ渡り、講演に忙しい身となった。

 昭和十八年八月、三十五歳で逝去。十一月、「最上共働塾」は閉塾となった。

 

 このような甚次郎の生涯を作品は概観する。その扱い方は山形市平和劇場でとりあげる人物評伝に似ている。郷土の偉人を紹介し顕彰するといった趣に近い(平和劇場は反戦平和の主題に沿う人物に限っているが)。井上ひさしの『イーハトーブの劇列車』や『頭痛肩こり樋口一葉』などのように作家性を持って対象者の人生や社会に切り込み作品化するというものではない(今作品には『イーハトーブの劇列車』の一部が参考にされているようだが)。しかし、宮沢賢治のように誰にもよく知られた人物でなければ、エピソードを紹介するだけでも大変なわけで、仕方のないことではあろう。

 一人の人生を俯瞰的、網羅的に描くのではなく、何か一点に絞り込まなければ二時間あっても足りない。

 

 また、少しばかり土地制度を調べてみた自分にとっては、明治から戦前の昭和までの地主小作の有り様と人口爆発の問題点、その変化(小作争議、共同集荷出荷、戦中の供出、配給)などがもう少し反映されてほしい感じがした。そうなれば農村協働組合の実態とその影響がわかりやすくなったかもしれない。禁酒禁煙、敬神家であり政治思想的には偏らなかったようだが、地主が小作人になるという大胆な行動をする人間性、精神性がいかにして形作られたかも興味あるところである。実在した人物を演じる役者さんが役柄をよく把握するためにも、より深く研究されるべきことであろう。

 

 さらに、地域の文化活動を取り込んだ構成になっている(たとえば子供たちの合唱とか和太鼓の演奏とかダンスとか)。ようするに文化祭的公演になっていて、それはそれで楽しいのだが、新庄演劇研究会さんの公演(あまり観ていないけど)のように、リアリズムの演劇表現を追求したものとは違っている。だから「演劇」を期待して観るとやや期待外れだったかもしれない。しかし、これは全く個人的な感想であり、二時間半の大作を作り上げた方たちの熱意と努力には敬意を表します。二時間半飽きることなく見入っていました。お疲れさまでした。