美瑛 半澤農場

 半澤久次郎が明治三十年代から北海道で行った開拓について、今知り得たことをまとめておきたい。以下、年表的に羅列する。資料はほぼ『美瑛町史』による。

 

1894 明治27年 7月、健吉(宏)没。40歳。⑤爲澄妻キノ、最上三十三観音巡礼。

 「空知地方・美唄市西美唄町山形地区には山形県出身者が多く移住しています。1894(明治27)年、山形村山地方の零細農民が農民移住団体を組織。この地区の開拓が始まり、1921(大正10)年には水田化に取り組むと、さらに山形県からの移住民が増えています。地縁・血縁のネットワークを大切にしている県民性によるものでしょうか。」 

1900 明治33年 135万7千坪貸下を受け、難民救済のため拓地開発を企図せんとする計画。管理人、片桐助吉。この久次郎は⑥爲傳であろう(49歳)。彼はこの時期家政を令息(⑦爲邦であろう。32歳)に任せている。

 なお管理人の片桐助吉については未詳だが、片桐は漆山にも江戸時代からある苗字なので、漆山から派遣された人かもしれない。

1905 明治38年 安藤市兵衛(30歳)、叔父半澤久次郎の依頼を受けて渡道、美瑛村に半澤農場を設立した。

        3月末、⑥爲傳、洞翁と改名。54歳。⑦爲邦、漆山倉庫入社。叔父(義伯父)とは爲傳(洞翁)であろう。

1907 明治40年 8月15日、農場に半澤神社創建。出羽三山を祀る。後、天照皇太神宮と明治天皇を合わせ、9月21日を例祭日とする。

1908 明治41年 方針を一変して牧場とする。安藤市兵衛、管理人となる。

1909 明治42年 12月に至り457町5反歩開発成功。無償付与を受ける。

1910 明治43年 西村政吉(37歳)、渡道し半澤農場主安藤市兵衛の知遇を得る。

1911 明治44年 西村政吉、安藤市兵衛に代わって半澤農場の管理人となる。

1912 明治45年 収支相償わず方針を一変し、農業経営に改める。

   大正元年 小作人15戸を収容。開墾を開始。毎年20戸の小作人を移住せしむ。ただ、資本を有する者は皆無。食糧さえ無いものが半数近く。

1914 大正3年 2月、洞翁(⑥爲傳)没。

1915 大正4年 農場の立ち木を伐採、薪炭として旭川で売り、最高80円、最低30円を得た。しかしやがて伐採し尽くした。
        安藤、住民の願望により立候補し、村会議員当選。四期務めた。

1916 大正5年 流通資本(回転資金)としての小作人への貸付6千円。最高5百円、最低20円。利子は毎月1分5厘。

1917 大正6年 120戸の小作人があったが、次々に退出し、半減して60戸となる。小作人の移住費用、食糧供給は総額2千円。肥料として厩堆肥と過リン酸石灰2千2百叺を貸付。農場開始以来の起業費は元利金1万8千円。

1922 大正11年 10月22日、⑦爲邦没。54歳。弘介(⑧爲弘)27歳、相続。

 

 昭和に入って以降の半澤農場の様子はまだわからない。ただ、農場は今も「北瑛農場」として存続しているようであり、安藤氏の彫像が建てられている。

 安藤市兵衛は明治八年に山形市七日町の「八つ沼」という衣料品店(足袋屋)に生まれたという。十五、六歳のときに先代市兵衛を亡くし跡を継いだ。妻は新関善八の五女ワカである。したがって、姉のキヌ(長女)が嫁した半澤健吉の伯父⑥久次郎(爲傳)とは義理の伯父甥の関係になる。伯父の勧めで開拓に携わったという記述からは、爲傳の発案であったと思われるが、実際は⑦爲邦が関わり、安藤が実際の開拓の責任者ということだったろう。しかしまた安藤市兵衛は他にも事業を起こし、多忙であったため、管理人を西村政吉に譲る。安藤の五男友之輔は父の命により美瑛町議、町長をつとめた。

 

 (以下追記)

 北瑛開拓顕彰碑碑文

 本町の北高台に広がる約六百ヘクタールの北瑛は元半澤農場及び産牛馬牧場更には夕張、野上、加藤の各農場の一部を区域として入植した人達に依ってつくられた。

 当時を偲ぶに、これらの先人は狐熊が出没する密林荒野に小屋をかけ、粗衣粗食に甘んじ、晨には月影を踏み夕べには星を戴いて木を伐り炭を焼き、後地を焼払っては鍬を入れ、厳しい自然の猛威と闘い言語に絶する苦難に耐え、歩一歩と開拓の実をげ今日を築かれたのである

 我々は現存する三十九戸の経済の源として発展を続ける北瑛の基はかかる先人の血と汗の結晶であり、更にはこの偉業を受け継ぎ今日に伝えられた多くの人々の努力に依ることを想う時、心から感謝と敬仰の念盡ることなし、以来星霜重ねて茲に開基八十年を 迎えるに当たり現住者相計り今感激を新たに、顕彰碑を建立し、その名を刻み功績を讃えると共に、この鴻恩を後世に伝えんとす

     昭和五十七年六月二十日之建

         協賛会長 大西弘近

 

 (北瑛農場に建てられた安藤親子の肖像銅像に書かれた文章。下線は筆者)

 安藤市兵衛翁は、幼名を安次郎、四代目市兵衛、ナカさんの長男として明治八年八月七日山形市に出生さる。小学校卒業後、家業の仕立業に従事、十七才の時尊父死去、五代目市兵衛襲名翌年新関ワカさんと結婚、爾来陸軍並に県警御用、消防指定商等家業を伸長、明治三十二年二十五歳にて渡道親戚半澤牧場を成功更に進めて半澤農場を創設、地域の産業、政治経済等幅広く貢献さる。大正期より東京市に於いて一族の発明に関る電磁式電気時計の企業化に成功業績を挙げらるも昭和二十年戦争に依る爆撃で廃業止むなくその後山形市にて老後を過ごされるも二十三年十月二十三日逝去さる。

  北瑛開基八十周年記念事業協賛会建立

 

 安藤友之輔翁は五代目市兵衛、ワカさんの四男として明治四十三年七月十九日山形市に生まれる。早稲田大学東京農業大学卒業後父の意志を継ぎ北瑛で農業に従事、昭和十五年八月福田みよさんと結婚する。

 昭和二十三年美瑛町農協常務理事をはじめ農業関係団体の要職を歴任。昭和二十六年から十六年間 美瑛町議会議員として副議長議長を歴任、昭和四十二年から二十年間美瑛町の首長として尽力した。質実剛健自己に極めて厳正、旺盛な研究心と実行力に富み責任感と常に平等の精神強く、誠実にして信念堅固、温和と寛容な態度を持ちあわせ、加えて鋭敏な感覚をもって、地域の振興発展に大所高所から広く貢献された。昭和六十三年美瑛町名誉町民推戴、同年十二月勲四等旭日小綬章、昭和十年十一月従五位に叙される。

     平成十二年六月二十五日

     北瑛開基百周年記念事業協賛会建立

 

 なお、半澤神社は明治神社と名が変わって残されているようだ。