半澤久四郎、久三郎 考

 山形市漆山の豪農半澤久次郎家について、明治十四年の明治天皇御巡幸に関連して、久四郎と久三郎について考えてみた。(1月15・16日・22日修正)

 

 明治九年六月に大久保利通、九月に三条実美が半澤家に立ち寄った際、彼らの日記には「半澤久四郎宅」と書かれている。そのほかの記録でも、明治八年の立附米四千表余を記録したのも半澤久四郎とある。一方、明治十四年に明治天皇が御小休された諸記録には「半澤久三郎家」と書かれている。

 明治二年三月の宗門人別改に、「漆山村、大庄那須弥八、名主半沢久次郎、大庄屋 見習那須五八、名主見習半沢久三郎」とある。また同年十一月七日、「半沢久三郎、取締見習・帯刀御免被仰付」ともある。

 これらに該当する人物は、久四郎が四代為親久三郎が五代爲澄(為親の養弟で嗣子)と考えられる。「久次郎」という、二丘以来の襲名の外にこのように呼ばれていたのだろう。

 この記事をお読みいただいて、以下のご教示を受けました。

 「番付『山形縣管内 持丸長者鑑』〔明治18年10月24日御届 山形七日町 菊地豹次郎〕に、「中央 年寄 半澤久四郎 拾萬圓」とあります。」

 明治十八年であれば、五代爲澄の他界後四年、六代爲傳の時期である。世間一般では爲傳が久四郎と呼ばれていたことになる。

 父爲澄の死亡届と葬儀伺は「相続人半澤久三郎」の名で出されている。すると爲澄の長男(爲傳)は父についで久三郎を名乗り、さらに久四郎と改名していたことになる。

 周知のように爲澄は御巡幸の一か月前に急死している。明治天皇御巡幸の記録に残っている久三郎は、当初の計画のままだったのか、急遽爲澄の跡を継いだ爲傳のことだったろうか。

 

 出世魚のように名が変わるようだ。幼名の亀治・亀吉も繰り返し出てくる。

 亀治 ⇒ 久四郎 ⇒ 久次郎・爲親(諱)

        久三郎   ⇒ 久次郎・爲澄

                久三郎  ⇒ 久四郎 ⇒ 久次郎・爲傳

                明治14年     明治18年

 

 父親の急死に長男(30歳)はじめ兄弟たちは痛悼と家政多難の思いに打たれていた。その中で、次男(27歳)が果断に言ったことには『守家の法は勤倹に在り』と。遂に「與兄弟相謀 省冗除煩 賣書画古器不善物 買田数萬畝 田倍旧時 改革家規 始定其吉凶祭祀日時」(「半澤健吉墓碑銘」より。健吉墓は浄土院から離れた場所に他の半澤家の方の墓とともにある。ただし、四代為親の墓はそこにも無いという) 

 爲澄の次男は「宏」といい、「健吉」は諱である。長男が久次郎家を継ぎ、次男が支えたということだろう。

 

 その後、兄六代目久次郎は明治二十二年に初代漆山村長となり、その子の亀吉(諱は爲邦)は同年に勉学のため上京している。

 

 宏(健吉)の子亀治は明治三十五年に早稲田英政を卒業している。明治三十六年四月には東京で阿部次郎(20歳)と初めて面会している。亀治は卒業後「漆山倉庫」の支配人を務め、大正六年に建吉(健吉)と改名している。健吉家は二代に渡って久次郎家を支えていたことになる。

 亀治(建吉)の相続人は旧土地台帳によれば「宏吉」である。この人は優秀で、昭和四年に山形高校文乙卒業後、京都帝大法に進んでいる。昭和七年三月に健吉(亀治)が五十四歳で亡くなると同年七月に相続している。その後は未詳である。

 

 この宏(健吉)という人は墓碑銘によれば、幼いころから米沢の曽根一貫に学び、帰って家政をよく助け、その余は国書を読み和歌を好んだ。また「奉神職爲教導職七年辞焉」とある。「教導職」は明治四・五年ころ神道国家をつくらんとの試み「大教宣布」運動から設置された宗教官吏で、半官半民の任命制だったが、うまくゆかず、明治十七年には廃止されたものである。wikipedia

 宏(健吉)はいつからいつまで教導職だったか。明治五年には十八歳で、まだ人に講義するには早いように感じるが、当時は早熟な人が結構いたから有りうる話ではある。明治天皇御巡幸時にもまだ教導職だったとすれば、その七年前は明治七年となる。この辺が職に任じていた期間だろう。教導職には弁の立つ人が選ばれたようだから、彼もそうだったのだろう。

 また、同時期に神社の制度が定められ、「村社」に「祠掌」がおかれた。これは地方の豪農などが充てられたようだ。(祠掌は後に社掌に変わった)明治十年ころの記録である『旧高旧領取調帳』には、「神社」の項に次のようにある。

 村社 稲荷神社 漆山村  祠掌

         千手堂村   半沢乙卯四良

    神明社  上東山村 祠掌

                半沢乙卯四良

    水神社  下東山村 祠掌

                半沢乙卯四良

 これらの「乙卯四良」はおそらく「き う し ろ」と読むのだろう。つまり久四郎で、四代半澤爲親が祠掌に任じていたことになる。半澤家が敬神家だったのか、その立場上引き受けざるを得なかったのか、その両方か。爲親は明治十年に亡くなるので、任じた期間は数年足らずだった。ちなみに乙卯の年は安政二年で、たまたま宏の生年である。なお、浄土院の墓以外に墓を建てた(健吉や爲邦の個人の墓、爲弘のみの半澤家墓)理由はよくわからない。単に場所が無かったのかもしれないし、上記のように神道関係の役職に就いたので寺を避けたということかもしれない。肝心の為親の墓が無いのも、彼が祠掌だったせいなのかもしれないが、墓碑銘が伝わっているのだからどこかに墓はあるはずなのだが。

 

 時代下って大正十一年に「東南村山教育會」への拠金を行った人々の中に、久次郎と久四郎の名がみえる。この久四郎も久次郎家に近い親族なのだろうが、そのつながりは今わからない。

 

 以上の内容をもとに、半澤家五代から八代までを下に系図化してみる。七代以降は人事興信録などによって、夫人の名や実家もわかるようになる。

 次の記事は半澤家の北海道美瑛開拓についての予定である。