漆山 半澤久次郎家 代々没年考証

 以前の記事「旧出羽村と半澤久次郎(3) 代替わり 2 - 晩鶯余録 (hatenablog.com)」でおおまかにまとめた内容に誤認があることがわかり、さらに詳しい資料を知ることができたので、あらためて記事にする。資料の多くは国立国会図書館デジタルコレクションで検索し読むことができたものである。

 (12月19日、1月11日補記)

 

 半澤家の二代目(二祖)二丘安政三年(1856)一月に亡くなった。二丘は俳号で、名は亀吉のち久次郎である。交流のあった福島県須賀川俳人市原多代女が「二丘老人睦月廿六日なくなりぬと羽人子よりしらせに袖を」と書いている。羽人は四代久次郎為親の俳号である。

 二丘は従来、1770年生まれといわれたが(山形市史別巻2)、襖のまくり(下貼り)の「己酉七十二」という筆記から嘉永二年(1849)に72歳であり、逆算して1777年(安永六年)生まれとなり、没年齢は79歳と考えられている。

 『山形市史』の半澤久次郎に関する記述にはいくつか誤認があり、中でも別巻2生活文化編で二丘と為親を同一人物としているのは諸々混乱のもとになっている。二丘と為親は別々の法名があるので別人なのは明らかである。市史は出羽村役場結城善太郎の著述に依っているのかもしれない。

 山形市史には二丘には(男)子が無かったとある。二丘の後は弟の弥宗二(弥惣治、玉岱)が三代目を相続している。その代替りがいつごろかは未詳だが、当時は大体50歳を過ぎたくらいで家督を譲っているようなので、文政十年(1827)ころかもしれない。だが、弥宗二は天保二年(1831)になくなってしまう。まだ四十代だったろう。二丘が天保十年に高野山にその位牌を収めた時にはまだ院号がなかったという。

 弥宗二没時、その子亀治(為親)は19歳ほどなので、家督を継ぐには若い。隠居の二丘と母(弥宗二の妻(矢萩氏))が支えただろう。そのころ二丘は自分の娘を為親にめあわせる。従兄妹婚になる。しかしこの二人の間にも子が無かった。妻が若くして亡くなったのかもしれない。

 以前の筆者の理解では四代目亀治を為親と別人とし、爲澄の存在を知らなかったため、五代目を為親と誤認していた。

 

 四代目為親の「墓碑銘」全文を『東村山郡史 続編 巻2』で読んだ。この碑は漆山の浄土院境内の墓所には無く、離れた別の墓所にあるようだが確認できていない。

 その墓碑銘文によれば、(下線、朱字は筆者)

 「君諱為親通稱久二郎、羽前漆山之人、通稱彌宗二矢萩氏、君幼不喜嬉戯、年甫七歳從叔父矢萩某學」「天保十四年爲里正」「(明治)十年二月病没、享年六十五」「君無子養弟爲澄」「孝子爲澄建之」

 五代目は爲澄といって、養子で入った弟であることがわかる。為親は没年齢から逆算すれば、文化十年(1813)ころ生まれで、二丘が京都、長崎へ旅をした天保十年(1839)には27歳くらい、里正になったのは31歳くらいとなる。

 

 為親はいつ家督を譲ったか未詳であるが、やはり50歳ころであったとすればちょうど幕末期、文久~慶応のころになる。

 明治維新を経て為親、爲澄の時代の半澤家は、明治六年ころには半澤文庫(曵尾堂)を開く。『山形県農地改革史』によれば、この年立附米四千九百十五俵だったが、実際は六千俵に及んだと言われる。半澤家は江戸時代中期には立附米三百俵程度の小地主だったというが、「文政から嘉永にかけ、農業の傍ら綿商を兼ねていたが、商業に出ては各地の有力者と文化的な交際を結び、一般経済界の見通しを立て、綿商から転じて紅花を扱うこととし近郊から紅花を買集めて上方に売り出した。その計画が当たって資財を蓄え、その余剰資本を土地に投資することとし、一代にして立附米三千俵に増すことができたという。」二代二丘から四代為親の間に村山地方随一の大地主になったということである。地租改正の結果田畑の売買が活発化したためでもあろう。

 明治九年には三条実美大久保利通が立ち寄り(日記には「久四郎宅」とかかれている。この久四郎は爲澄だろう)、明治十二年には立附米四千俵余。四代為親、五代爲澄の二人が当主だった五十年間が、半澤家にとって最も安定した期間であっただろう。

 

 明治十四年(1881)八月、明治天皇御巡幸直前に急逝した久次郎(満52歳11ヵ月)は、従来為親と考えられてきたが、実は爲澄だった。その時の死亡診断書によれば爲澄は文政十一年(1828)十月七日生まれであるから、四代目為親との年齢差は15歳ほどである。なお、この時の診断書には住所が漆山百八十三番地と書かれているのがやや不審である。十四年の明治天皇御巡幸の諸記録では「半澤久三郎宅で御小休」とある。五代目爲澄の相続人は久三郎であり、これが六代目爲傳である。

 考えるに爲澄は半澤久次郎本家に近い血筋から養子に入ったのだろう。

 爲澄の妻キノは61歳のとき(明治27年)最上三十三観音巡礼を行ない、その時の小遣い帖が残っている。付き人の男性がつけたものである。キノが48歳の時、前述のように夫爲澄が急逝した。息子の久三郎(爲傳)は30歳。明治天皇の小休所に決まっていた半澤家は、直前に自宅で父の葬礼をして不都合がないか伺うが、かまわないということだった。兄弟三人助け合って天皇をお迎えしたという。

 

 六代目爲傳は明治三十三年(1900)ころには家督を「令息に」譲って悠々自適していたようだが、明治三十八年(1905)三月には洞翁と改名し、前年十一月に創立した会社「漆山倉庫」の持株をすべて相続人久次郎(亀吉、爲邦)に譲っている。なお漆山倉庫は金銭貸付、倉庫、運送業を業種及営業目的とした会社である。酒田の山居倉庫にならったものだという。

 このころ、久次郎家は北海道美瑛村の土地を貸し下げされ、開拓を始めていることがわかった。これが半澤農場(一時牧場)、今日の北瑛農場である。

 

 「官報 明治38年4月5日 第6525号 合資会社登記変更 一 合資会社漆山倉庫無限責任社員半澤久次郎ハ半澤洞翁ト改名ス  明治三十八年三月三十日 山形區裁判所天童出張所」

 「官報 明治38年4月19日 第6537号 合資会社漆山倉庫登記事項中左ノ通変更ス 一、無限責任社員半澤洞翁ハ其持分ノ全部ヲ東村山郡羽村大字漆山二千五百二番地家督相続人半澤久次郎ニ譲渡シテ退社シ半澤久次郎ハ之レヲ譲受ケテ入社ス  明治三十八年四月十三日登記 山形區裁判所天童出張所」

 

 洞翁爲傳は大正三年(1914)に63歳で没した。その後は七代目爲邦(亀吉)が継いだが、六代目との年齢差が17歳なので、兄弟の可能性も考えられる。

 ここまでを踏まえて下に系図化してみた。

七代以降については下記に続く。

漆山 半澤久次郎家 代々没年考証 その2 - 晩鶯余録 (hatenablog.com)