旧出羽村と半澤久次郎(3) 代替わり 2

 以下の記事の内容について、さらに資料を探して読み解くと、以前の考察とは少しく違う結果が得られましたので近日中に別途記事にします。以下の記述は考察途中のものとして参考程度にとどめてください。(令和5年12月7日)

 新しい知見については右をご覧ください。 漆山 半澤久次郎家 代々没年考証

 

 県立図書館の資料によって復元を進めた結果、以下の程度まで見えてきた。

 初代村長は六代目。八(九か十)代目の時に東京へ移ったようである。

   資料 『明治大帝御巡幸五十周年記念 物語出羽村郷土史』1930

      『出羽地区の歴史』1994  『出羽の今昔』1999 

 

明和7~安政3 1770(1778)~1856 86歳?(79歳)歿 
 二代?久次郎(本名亀吉、俳号二丘)
  ↓

  ↓   三代? ?~天保 弥宗二(玉岱、王岱)(弥惣治(呉秋)?)

  ↓     1824 若松寺絵馬
  ↓   四代? 亀治 俳号羽人 この人が為親 
  ↓

  ↓   文政11~明治14
  ↓    五代(久次郎)為親1828?~1881? 五代目は爲澄で為親の養弟

  ↓ (天保10(1839)『旅日記』京都、高野山

       歿      1843名主(二丘73歳か。これ以前の名主は片桐善左衛門)
        ↓ 明治維新 
        ↓県庁より篤行表彰1870  ↓(1869~名主見習久三郎18歳) 
        ↓漆山大堰開墾1870~71   ↓                         
        ↓学制、第一大区小十区長1872
        ↓曳尾堂文庫1873?       ↓
             ↓        嘉永4~明治? 1851~?
                ↓         六代久次郎(久三郎?)
          1881,8 ?       ↓1876漆山村戸長(久三郎 25歳)   
  ↓                  ↓1881,9 明治天皇巡幸(30歳)
  ↓                  ↓1884「山形県史」忠孝節義の士に挙げる
       ↓                                                ↓1889初代漆山村長(38歳)

  ↓                ↓  (1894母キノ61歳、最上三十三観音巡礼)

明治?~昭和?            ↓
 七代久次郎(本名亀吉、村会議員)  ↓1900(家務を息子に委ねている 50歳)
       ↓                                                          ↓
       ↓1910農業指導教師を雇い改良に努める
  ↓                                                         ?
  ↓       ↓
  ?    大正?昭和?
        八代久次郎 1930「明治天皇御駐輦記念碑」建立
        ↓       「明治大帝御巡幸十周年記念 物語出羽村郷土史」                                ↓                                          刊行
                             ↓ 1950? 東京に移住(1951土地所有権移転)

 

 

 半澤家では毎年9月29日に明治天皇御巡幸記念式典を行い、小学生も紋付袴で小休所の玉座を拝したという。(玉座は平成2年まではあったと。移築されているとも)。

 八代目が五十周年記念事業を大々的に行ったのも、祖父以来代々の名誉としていたからだろう。

 八代目が建てた御駐輦記念碑は、山形市十日町の料亭「嘯月」の奥庭にあったというが、現在はマンションになっているので、碑がどうなったかは分からない。

 今、関心は戦後の農地改革後、東京に移住するまでの経緯に向いているが、資料が探せていない。

 

【令和5年9月21日追記、改定】

 二丘と為親の年齢差が五十八年あり、この間に二世代交代しているようだが、系図は複雑で、明確ではない。    

 野口先生が半澤氏の旅日記(天保十年)にある高野山納骨の記録と、漆山浄土院の墓誌を調査されたところでは、天保二年(1831)七月二十日没の「専求院浄譽圓明王岱居士」と天保四年(1833)六月没の「得了院相譽本戒居士」が見られ、前者(王岱すなわち弥惣治)を為親の父とすれば間が埋まるようである。

 

 【令和5年11月22日追記】

 『郡制廃止記念名誉職員写真帖 東村山』大正15年(1926)の写真と解説によれば、この年久次郎は「陸軍三等主計、正八位、31歳」とあるから、明治29年(1896)ころの生まれとなる。この人は七(八)代目にあたるのだろう。

 

 『東村山郡史続編巻二』に掲載されている半澤久次郎(為親)「墓碑銘」によれば、「君諱為親通稱久次郎、羽前漆山之人、考通稱彌宗二、母矢萩氏、(中略)天保十四年爲里正、明治四年爲副區長、六年遷一等區長、八年管地租改正事務、十年二月病没、享年六十五、(中略)君無子養弟爲澄爲嗣、(後略) 孝子爲澄建之」とある。

 上の表の五代久次郎為親の生没年が違っていることに気づいた。明治10年(1877)没時65歳ならば、文化10年(1813)ころの生まれになり、天保14年(1843)に32歳くらいで里正(名主)になったことになる。一方、明治14年に没した久次郎の死亡診断書では上の表のような生没年になっている。つまり明治14年明治天皇御巡幸直前に卒した久次郎は為親とは別人ということになる。明治10年から14年の間は跡を継いだ養弟、墓碑建立者の爲澄が久次郎を襲名していたということになる。