長谷川長兵衛家過去帳にある「菅原安兵衛」戒名「曙屋安養信士」という人物について、長谷川清さんの所蔵する資料の中に関連するものがある。庄司安兵衛という人物と長谷川長兵衛の関係を考えるうえで貴重なものだと思う。
以前に北隣の庄司治右衛門家の旧土地台帳を調べた。
202番の所有者は庄司𠀋吉から始まって明治33年に長谷川長吉(通り西向かいの長吉であろう)に移り、大正10年に(21年ぶりに)庄司治右衛門に移り、以後、戦前は庄司氏が続いている。
面積は5畝29歩(179坪)。
203番の所有者は庄司彌助から始まって、明治32年に明治村字灰塚の藤田茂八の所有となったが、二年後の明治34年に庄司彌助にもどっている。以後、明治42年に庄司安兵衛、大正10年に庄司敬一と続き、大正13年に齋藤勘三郎に移った。
面積は3畝10歩(100坪)。
考えるに、庄司安兵衛は彌助(父?)の代までに庄司治右衛門家から分家したのではないか。安兵衛は南隣の長谷川長兵衛(五代平治郎)と鉄瓶の販売契約を結んでいる。それはカタログによる全国販売を目指していたようである。
カタログはA5判24頁。印刷所は、「山形縣山形市旅籠町新道四一五 渡邊活版所」とある。なお商品図は写真ではなく描画である。ほとんどが鉄瓶だが、他にも茶釜、風呂、鉢、羽釜、水風呂鉄砲(鉄砲風呂)の図が載っている。
謹啓各位益〱御淸榮之段敬賀候隨而弊店儀七代前より鍋釜
製造を専門と致し江湖諸彦の高評を博し來り候處先年來大釜
(醤油酒釜)及鐵器類一式の鑄造を行ひ各地に輸出販賣し是れ亦頗る
好評を得又群馬縣主催一府十四縣聯合共進會に於て受賞の恩
典を蒙るに至り候而かも弊店之に甘んせず益〱鑄造法の改良
を圖り溶解爐を改築し機關應用の結果幸にして他國産に比し
永く御使用保存に堪ゆべき良器を鑄造し得らるゝに至り候又
此度鐵瓶製造専門光安堂と特約一手販賣之約を結び頗る廉價
を以て販賣致すべく候間本表御高覧被下卸小賣共多少に不拘
御用命の程偏に御願上候
山形縣山形市銅町二〇五番地
明治四十三年九月 福井屋
群馬縣主催一府 萬鑄物
明治四拾四年拾壹月 十四縣聯合共進会 製造業 井 長谷川長兵衛
褒賞狀受領
電略〇井
電話五四三
山形縣山形市銅町二〇三番地
茶釜鐵瓶製造人 庄司安兵衛
インターネットとも違って、この販売方法がどれほどの成果を得たかは不明である。ただ、銅町では他にも鉄瓶の一手販売で二者が協力した例があるので、当時銅町全体にそういう方向を模索する機運があったのであろう。南部鉄瓶に対抗しようということかもしれない。
菅原安兵衛は大正四年(1915)に63歳で亡くなっている(時に四代目長谷川ミヨは71歳、五代目長兵衛56歳、六代目甚吉は28歳だった)。だから菅原安兵衛=庄司安兵衛であれば、この一手特約販売は数年間しか続かなかったことになる。
この後「光安堂」の名は、大正十四年(1925)の『裏日本実業案内 羽越版』に「光安堂 火鉢製造元 庄司安吉 山形市新銅町」という広告が載っている。また「國産山形鐵瓶製造販売 庄壽堂 /\三 庄司彌三郎 山形市新銅町」という広告もある。
昭和三年(1928)版の『大日本商工録』には「/\丸 光安堂 庄司安吉 山形市新銅町 火鉢製造元」とある。
これらと菅原(庄司)安兵衛との関係の有無は不明である。なお、新銅町は宮町両所の宮の角から東の道に沿った地区である。鋳物業が多い。
さて庄司安兵衛が菅原姓になったとして、そのいきさつも不明だし、そもそも過去帳に記載されていても長谷川家の墓に納骨されているかどうかもわからない。親友だから命日と戒名を過去帳に記載しただけなのかもしれない。「光安堂」、「安兵衛」から「安養」という戒名になっているとも考えられるが、「曙屋」の由来は不明である。まだまだ安兵衛の謎は解けない。