烏江の亭における項羽の笑いについて、以前に私論を書いているが、ふと、「且」について詰めていないなと思いついた。
『史記』項羽本紀、項王自刎の場面における項羽の「笑」について(1) - 晩鶯余録
「且」は「かつ」と訓読みして、「そのうえ」の意味であるから、項羽が江を渡らない理由としてあげられる、「且」以後の「嘗て江東の子弟八千人と江を渡って西したが、今一人も生還していない」云々という事は二次的なものであり、「且」の前にある「天之亡我、我何渡為!」こそが第一の理由であると解釈した。
原文及び英訳は「中国哲学書電子化計画」で読むことができる。「!」や「?」は中国語版による。英訳はロバート・ワトソン訳が基礎になっているようだが、少し違う。書き下し文は晩鶯の読みによる。日本語訳は、平凡社版中国の古典シリーズによった。
「且」は九回使われているが、その内「まさに~んとす」という再読文字の使い方をされているのが五回、「~すらかつ~」と抑揚形になるのが一回、「かつ」と累加・添加の意味に読むのが三回であった。今、出現順に書き抜いてみる。なお、人名の「龍且」は数えない。
1 聞陳王敗走,秦兵又且至,乃渡江矯陳王命,拜梁為楚王上柱國。曰:「江東已定,急引兵西擊秦。」
Hearing that King Chen had been defeated and was fleeing, and that the Qin forces were about to arrive, Zhao Ping crossed the river, counterfeited an order from King Chen, and conferred upon Liang the title of Shang Zhugu, a high-ranking official under the King of Chu. He said, "The Jiangdong region has already been secured; quickly lead your troops westward to attack Qin."
秦兵又且(まさ)に至らんとすと聞き、
(召平は)陳王が敗走し、秦軍がすぐにもやってくると聞いたので
❷ 趙擧而秦彊,何敝之承!且國兵新破,王坐不安席,埽境內而專屬於將軍,國家安危,在此一舉。
Once Zhao falls and the Qin grows stronger, what exhaustion can we possibly take advantage of! Moreover, our national forces have just been defeated; the king cannot even sit in peace.
且(か)つ國兵新たに破る、
趙が撃滅されれば秦はますます強盛になる。どうして疲弊した兵を引き受けるなどと言うわけにいこうか。かつ、わが楚国の軍は最近敗れたばかりで、王はご心配のあまり、坐っても席に安んぜられず、国境内を掃くがごとくにして、一兵もあまさず全兵力を宋義将軍にお託しになられたのだ。
3 夫將軍居外久,多內卻,有功亦誅,無功亦誅。且天之亡秦,無愚智皆知之。今將軍內不能直諫,外為亡國將,孤特獨立而欲常存,豈不哀哉!
If you remain stationed outside the capital for too long, accumulating many defeats and retreats, even if you have achieved merit, you will be executed; without merit, you still face execution. Moreover, the heavens are determined to destroy Qin, and this is known by all, whether wise or foolish.
且つ天の秦を亡ぼす、
将軍は都の外におられること久しく、ために宮廷内に多くの敵があります。したがって、功があっても誅せられるでしょうし、功がなくても誅せられるでしょう。かつ、天が秦を亡ぼそうとしていることは、愚者となく智者となくみな知っております。
4 樊噲曰:「臣死且不避,卮酒安足辭!
King Xiang asked: "Hero! Can you drink again?" Fan Kuai answered: "Even death will not scare me, how would wine!
樊噲曰く、「臣死すら且つ避けず、卮酒安くんぞ辭するに足らんや!
臣(わたくし)は死さえ避けたりはいたしません。まして、大杯の酒ぐらい、どうして辞退などいたしましょうか!
❺ 「項羽為天下宰,不平。今盡王故王於醜地,而王其群臣諸將善地,逐其故主趙王,乃北居代,餘以為不可。聞大王起兵,且不聽不義,願大王資餘兵,請以擊常山,以復趙王,請以國為捍蔽。」
"Xiang Yu, as the ruler of the world, is not impartial. Now he has enfeoffed former kings in despicable lands, while giving the best territories to his ministers and generals. He drove out Zhao's original ruler, King Zhao, who now resides northward in Dai; I think this is unacceptable." I have heard that Your Majesty has raised an army, and you will not listen to injustice. I wish for your support with troops; please allow me to attack Changshan in order to restore King Zhao of Zhao, and offer my state as a shield."
且つ不義を聽かず
仄聞するところによりますと、大王(斉王田栄)には兵をおあげになり、かつ、不義なる項羽の命はおききなさらぬとのことですが、どうか余(わたくし)に援兵をおおくりください。そうしてくだされば、常山(もと趙王の地)を撃って趙王を復帰させ、趙国を斉の藩屏にしてご覧にいれましょう。
6 項羽聞漢王皆已并關中,且東,齊、趙叛之:大怒。乃以故吳令鄭昌為韓王,以距漢。
Xiang Yu heard that King Huai had already unified Guanzhong and was advancing eastward, while Qi and Zhao had rebelled against him; he became very angry.
且に東せんとするに、齊、趙之に叛す。
項羽は漢王がすでに関中の地を併せてさらに東進しようとしており、また斉・趙が反旗をひるがえしたと聞いて大いに怒り、
7 項王聞淮陰侯已擧河北,破齊、趙,且欲擊楚,乃使龍且往擊之。
Xiang Yu learned that General Huaiyin Hou had already captured the region north of the Yellow River, defeated Qi and Zhao, and was preparing to attack Chu. He therefore sent Long Ju to go and fight against him.
項王、淮陰侯已に河北を挙げ、齊・趙を破り、且に楚を撃たんと欲すと聞き、
項王は、淮陰侯がすでに河北を席巻して斉・趙をやぶり、まさに楚を撃とうとしていると聞いて、龍且に命じてでむいてこれを撃たせた。
8 「楚兵且破,信、越未有分地,其不至固宜。
"Chu's forces are on the verge of defeat. Han Xin and Peng Yue have yet to receive their promised territories; it is only natural that they did not come."
「楚兵且に破れんとす、
「楚軍はもはややぶれようとしておりますが、韓信、彭越はまだ確定した領地を持っておりません。
❾ 項王笑曰「天之亡我,我何渡為!且籍與江東子弟八千人渡江而西,今無一人還,縱江東父兄憐而王我,我何面目見之?
Xiang Yu laughed and said, "Heaven is determined to destroy me. Why should I even attempt to cross!" Moreover, when I and eight thousand of Jiangdong's young men crossed the river to the west, not one has returned.
項王笑ひて曰く「天の我を亡ぼす、我何ぞ渡るを為さん! 且つ籍江東の子弟八千人と江を渡りて西せしも、今一人の還るもの無し。縦ひ江東の父兄憐みて我を王とすとも、我何の面目ありて之に見えん。
項王は笑って言った。「天がわしを亡ぼすというのに、わしは、どうしてわたったりしようか。かつまた、籍(わし)は江東の子弟八千人とかつて江をわたって西進したのに、いま、一人の生還するものもない。たとい、江東の父兄が憐れんでわしを王にしてくれても、わしは、なんの面目があってかれらにあえようか。
ロバート・ワトソン訳では、「If Heaven is destined to destroy me, 」であるようだ。
「even attempt to」は「なぜ(どうして)私が川を渡ろうとする必要があるのか!」となり、試みることさえ無駄な足掻きであるような、成功の可能性が極めて低いことをどうして自分がしなければならないのか、するわけがないだろう! というようなニュアンスであるようだ。
項羽は亭長の申し出に対し、それは無駄な足掻きだと言った。しかしそれは、あきらめ(どうせ渡っても先がない)からではなかった。亭長の好意に心打たれて人間らしい心がもどったのでもなかった。亭長から憐みを掛けられたことで自分の立場に気づいて自嘲したわけでもなかった。
項羽は、この亭長の用意していた船に対して、全く心動かされなかった。「これで助かるかもしれない!」などとは少しも思わなかった。何故なら、彼は自力で天命に抗って戦い死ぬことを決めているからだ。だが、余人は項羽がまだ生きのびることを願っていると信じきっている。そして天は試している。項羽に、誇りを捨てて(抗うのを止めて)生き残ろうとする弱い心があるかどうかを。それは、全てを捨てて天に抗い戦う孤独な人間項羽の目には見え透いている。だから笑い飛ばすのだ。
恥ずかしくて帰れないなどというのは、ほとんど亭長の好意を断るための理由付けにすぎないだろう。だからそれは「且」の後にあるのだ。
(追記)
於是項王乃欲東渡烏江。烏江亭長檥船待。
とあるのだから、項羽は東岸へ渡り生きのびようとしていたはずだ、と言われるに違いない。しかし、そこに船があるとは考えられない。本来なら江を前にして渡る手段はなく、絶体絶命であったはずだ。だから其処が項羽の死に場所になるのは決まったことだった。
侠気に富む亭長がいたのは奇跡的である。ここまで裏切られ続けた項羽にとって、願ってもない幸運である。だからこそ、これは天のしわざなのだ。
もし亭長が項羽に、「渡れば『江東の王』になれますよ」と言わなかったら‥‥、ただそこに一艘の船があるだけだったら‥‥、あるいは項羽は渡ったかもしれない。亭長の一言は天の仕掛けた罠には蛇足だった。
この烏江の段を、実に巧妙な仕掛けが施されたフィクションとして読むならば、作者司馬遷の筆力に驚嘆するだろう。
司馬遷自身は、目前の船に乗って(宮刑を忍んで)命長らえたのだった。史記に描かれた項羽像は、司馬遷の「あり得た(ありたかった)自分」を投影していると思われるのである。


