項羽本紀の「且」について

 烏江の亭における項羽の笑いについて、以前に私論を書いているが、ふと、「且」について詰めていないなと思いついた。

『史記』項羽本紀、項王自刎の場面における項羽の「笑」について(1) - 晩鶯余録

 

 「且」は「かつ」と訓読みして、「そのうえ」の意味であるから、項羽が江を渡らない理由としてあげられる、「且」以後の「嘗て江東の子弟八千人と江を渡って西したが、今一人も生還していない」云々という事は二次的なものであり、「且」の前にある「天之亡我、我何渡為!」こそが第一の理由であると解釈した。

 

 原文及び英訳は「中国哲学書電子化計画」で読むことができる。「!」や「?」は中国語版による。英訳はロバート・ワトソン訳が基礎になっているようだが、少し違う。書き下し文は晩鶯の読みによる。日本語訳は、平凡社版中国の古典シリーズによった。

 

 「且」は九回使われているが、その内「まさに~んとす」という再読文字の使い方をされているのが五回、「~すらかつ~」と抑揚形になるのが一回、「かつ」と累加・添加の意味に読むのが三回であった。今、出現順に書き抜いてみる。なお、人名の「龍」は数えない。

 

1 聞陳王敗走,秦兵又,乃渡江矯陳王命,拜梁為楚王上柱國。曰:「江東已定,急引兵西擊秦。」

 Hearing that King Chen had been defeated and was fleeing, and that the Qin forces were about to arrive, Zhao Ping crossed the river, counterfeited an order from King Chen, and conferred upon Liang the title of Shang Zhugu, a high-ranking official under the King of Chu. He said, "The Jiangdong region has already been secured; quickly lead your troops westward to attack Qin." 

   秦兵又(まさ)至らんとすと聞き、

 (召平は)陳王が敗走し、秦軍がすぐにもやってくると聞いたので

 

❷ 趙擧而秦彊,何敝之承!國兵新破,王坐不安席,埽境內而專屬於將軍,國家安危,在此一舉。

Once Zhao falls and the Qin grows stronger, what exhaustion can we possibly take advantage of! Moreover, our national forces have just been defeated; the king cannot even sit in peace. 

   (か)國兵新たに破る

 趙が撃滅されれば秦はますます強盛になる。どうして疲弊した兵を引き受けるなどと言うわけにいこうか。かつ、わが楚国の軍は最近敗れたばかりで、王はご心配のあまり、坐っても席に安んぜられず、国境内を掃くがごとくにして、一兵もあまさず全兵力を宋義将軍にお託しになられたのだ。

 

3 夫將軍居外久,多內卻,有功亦誅,無功亦誅。天之亡秦,無愚智皆知之。今將軍內不能直諫,外為亡國將,孤特獨立而欲常存,豈不哀哉!

If you remain stationed outside the capital for too long, accumulating many defeats and retreats, even if you have achieved merit, you will be executed; without merit, you still face execution. Moreover, the heavens are determined to destroy Qin, and this is known by all, whether wise or foolish.

  且つ天の秦を亡ぼす

 将軍は都の外におられること久しく、ために宮廷内に多くの敵があります。したがって、功があっても誅せられるでしょうし、功がなくても誅せられるでしょう。かつ、天が秦を亡ぼそうとしていることは、愚者となく智者となくみな知っております。

 

4 樊噲曰:「臣死不避,卮酒安足辭

 King Xiang asked: "Hero! Can you drink again?" Fan Kuai answered: "Even death will not scare me, how would wine

  樊噲曰く、「臣すら且つ避けず、卮酒安くんぞ辭するに足らんや!

 臣(わたくし)さえ避けたりはいたしません。まして、大杯の酒ぐらい、どうして辞退などいたしましょうか!

 

❺ 「項羽為天下宰,不平。今盡王故王於醜地,而王其群臣諸將善地,逐其故主趙王,乃北居代,餘以為不可。聞大王起兵,不聽不義,願大王資餘兵,請以擊常山,以復趙王,請以國為捍蔽。」

"Xiang Yu, as the ruler of the world, is not impartial. Now he has enfeoffed former kings in despicable lands, while giving the best territories to his ministers and generals. He drove out Zhao's original ruler, King Zhao, who now resides northward in Dai; I think this is unacceptable."  I have heard that Your Majesty has raised an army, and you will not listen to injustice. I wish for your support with troops; please allow me to attack Changshan in order to restore King Zhao of Zhao, and offer my state as a shield." 

  且つ不義を聽かず

 仄聞するところによりますと、大王(斉王田栄)には兵をおあげになり、かつ、不義なる項羽の命はおききなさらぬとのことですが、どうか余(わたくし)に援兵をおおくりください。そうしてくだされば、常山(もと趙王の地)を撃って趙王を復帰させ、趙国を斉の藩屏にしてご覧にいれましょう。

 

6 項羽聞漢王皆已并關中,東,齊、趙叛之:大怒。乃以故吳令鄭昌為韓王,以距漢。

Xiang Yu heard that King Huai had already unified Guanzhong and was advancing eastward, while Qi and Zhao had rebelled against him; he became very angry.

  且に東せんとするに、齊、趙之に叛す

 項羽は漢王がすでに関中の地を併せてさらに東進しようとしており、また斉・趙が反旗をひるがえしたと聞いて大いに怒り、

 

7 項王聞淮陰侯已擧河北,破齊、趙,欲擊楚,乃使龍且往擊之。

Xiang Yu learned that General Huaiyin Hou had already captured the region north of the Yellow River, defeated Qi and Zhao, and was preparing to attack Chu. He therefore sent Long Ju to go and fight against him.

  項王、淮陰侯已に河北を挙げ、齊・趙を破り、且に楚を撃たんと欲すと聞き、

 項王は、淮陰侯がすでに河北を席巻して斉・趙をやぶり、まさに楚を撃とうとしていると聞いて、龍且に命じてでむいてこれを撃たせた。

 

8 楚兵,信、越未有分地,其不至固宜。

 "Chu's forces are on the verge of defeat. Han Xin and Peng Yue have yet to receive their promised territories; it is only natural that they did not come."

 「楚兵且に破れんとす

楚軍はもはややぶれようとしております、韓信、彭越はまだ確定した領地を持っておりません。

 

❾ 項王笑曰「天之亡我,我何渡為!籍與江東子弟八千人渡江而西,今無一人還,縱江東父兄憐而王我,我何面目見之?

Xiang Yu laughed and said, "Heaven is determined to destroy me. Why should I even attempt to cross!" Moreover, when I and eight thousand of Jiangdong's young men crossed the river to the west, not one has returned. 

  項王笑ひて曰く「天の我を亡ぼす、我何ぞ渡るを為さん! 且つ籍江東の子弟八千人と江を渡りて西せしも、今一人の還るもの無し。縦ひ江東の父兄憐みて我を王とすとも、我何の面目ありて之に見えん。

 項王は笑って言った。「天がわしを亡ぼすというのに、わしは、どうしてわたったりしようか。かつまた、籍(わし)は江東の子弟八千人とかつて江をわたって西進したのに、いま、一人の生還するものもない。たとい、江東の父兄が憐れんでわしを王にしてくれても、わしは、なんの面目があってかれらにあえようか。

 

 ロバート・ワトソン訳では、「If Heaven is destined to destroy me, 」であるようだ。

 「even attempt to」は「なぜ(どうして)私が川を渡ろうとする必要があるのか!」となり、試みることさえ無駄な足掻きであるような、成功の可能性が極めて低いことをどうして自分がしなければならないのか、するわけがないだろう! というようなニュアンスであるようだ。

 

 項羽は亭長の申し出に対し、それは無駄な足掻きだと言った。しかしそれは、あきらめ(どうせ渡っても先がない)からではなかった。亭長の好意に心打たれて人間らしい心がもどったのでもなかった。亭長から憐みを掛けられたことで自分の立場に気づいて自嘲したわけでもなかった。

 項羽は、この亭長の用意していた船に対して、全く心動かされなかった。「これで助かるかもしれない!」などとは少しも思わなかった。何故なら、彼は自力で天命に抗って戦い死ぬことを決めているからだ。だが、余人は項羽がまだ生きのびることを願っていると信じきっている。そして天は試している。項羽に、誇りを捨てて(抗うのを止めて)生き残ろうとする弱い心があるかどうかを。それは、全てを捨てて天に抗い戦う孤独な人間項羽の目には見え透いている。だから笑い飛ばすのだ。

 恥ずかしくて帰れないなどというのは、ほとんど亭長の好意を断るための理由付けにすぎないだろう。だからそれは「且」の後にあるのだ。

 

(追記)

 於是項王乃欲東渡烏江。烏江亭長檥船待。

とあるのだから、項羽は東岸へ渡り生きのびようとしていたはずだ、と言われるに違いない。しかし、そこに船があるとは考えられない。本来なら江を前にして渡る手段はなく、絶体絶命であったはずだ。だから其処が項羽の死に場所になるのは決まったことだった。

 侠気に富む亭長がいたのは奇跡的である。ここまで裏切られ続けた項羽にとって、願ってもない幸運である。だからこそ、これは天のしわざなのだ。

 もし亭長が項羽に、「渡れば『江東の王』になれますよ」と言わなかったら‥‥、ただそこに一艘の船があるだけだったら‥‥、あるいは項羽は渡ったかもしれない。亭長の一言は天の仕掛けた罠には蛇足だった。

 この烏江の段を、実に巧妙な仕掛けが施されたフィクションとして読むならば、作者司馬遷の筆力に驚嘆するだろう。

 司馬遷自身は、目前の船に乗って(宮刑を忍んで)命長らえたのだった。史記に描かれた項羽像は、司馬遷の「あり得た(ありたかった)自分」を投影していると思われるのである。

溥儀日記 1959年12月14日

 『溥儀日記』(王慶祥編、学生社 1994.10)

 戦後、溥儀はハバロフスク戦犯収容所で五年間をすごした。この間、1946年8月には日本に連れて来られ、東京裁判の証人となった。ソ連は溥儀に対し、中国に戻れるように毛沢東に手紙を書くことを勧めるが、彼は断固拒否し続けた。溥儀はスターリンに対し、永遠にソ連に在留したいと述べていた。

 しかし、1950年7月に中華人民共和国(1949年10月成立)に引き渡され、その後十年間を撫順戦犯管理所に収容されて過ごした(これは他の日本人戦犯も同様だった。初期に管理所の移転があり、一時哈爾賓に収容されている)。その間、満洲のさまざまな所に「参観」に連れ出された。満洲王朝最後の皇帝としては、見たこともなかったような鉱山や工場、農業の労働生産現場に行ったのだ。毛沢東主席の指導の下、生き生きと活動する労働者、日本を凌ぐような工夫と研究。日記にはこれらへの称賛と自分の罪への反省が綴られる。‥‥もちろん中国側からの「改造」の影響であろう。

 そして、ついに劉少奇国家主席から特赦を受け解放される日が来た。1959年(昭和34年)12月9日だった。その数日後、14日月曜日、周恩来が特赦を受けた人々に接見し講話を行なった。それを溥儀が日記に書き残している。一字一句が周恩来の言葉通りではないだろうが、非常に細かくメモしている。収容所生活で必要な習慣だったのかもしれない。

 

(引用開始 小文字の注、太字等は晩鶯による

 

 (前略)我々共産党は民族の利益と人民の利益にもとづいて君たちを釈放したのだ。

 四つの問題を君たちに話しておく。

   一、立場の問題

 政治問題はすなわち立場の問題である。整風反右の多くは立場の問題を解決するためにおこなったのだ(周自身が整風運動の被害者だった)

 まず、民族の立場にしっかり立つこと——民族の立場と人民の立場は、すなわち民族の利益と人民の利益である。民族の利益は労働者の利益と一致するものである。

 アヘン戦争から今日まで、約百二十年近くになる。中国人民が解放されてたちあがった事実は、帝国主義者さえも認めている。溥〔儀〕さん、あなたも我々が過去にあなたがたがおこなったことよりも良くやったことは証明できよう。国民党は二十数年間統治したが、何もうくま(原文ママ)いかなかった。今日、六億五千万人民は立ちあがった。このような国家を愛さずに、何を愛するか。ここに生まれ、ここで育って、この国家を愛さないでほかに何を愛するか。

 民族問題を例に挙げれば、溥〔儀〕さん、あなたは清朝のときわずかに六歳、責任はない。しかし、偽満州国時代のことには、その責任を負わねばならない。清朝は滅んだ。民族も変った。清朝は国が滅んだばかりでなく、民族も滅びた。満州族人の姓名の改名は、北洋軍閥の時代からやってきた。宣統年間に私は辮髪を編んだまま瀋陽に行った。あの頃、満州族の気炎はとても高かった。その後、大部分の満州族は自分が満州族だと言わなくなって、漢族に同化された。

 舒舎予(しょしゃよ。作家の老舎のこと。文化大革命時に暴行を受け自殺したという。満洲旗人)程硯秋(ていけんしゅう。京劇俳優の程菊農のこと、四大名旦の一人。満洲旗人)はその例である。過去には一つの民族が他の民族を圧迫していた。しかし今日共産党の指導のもとで、多くの満州族は〔民族を〕回復し、満州族と名のるようになった。満州族の女性は漢族と異なる特徴があるので、我々も見わけることができる。

 今日の新中国は各民族人民の大家庭となった。第二次国勢調査の時、族籍を満州族と記入した人は多くなった。

 チベット族もその農奴制を改革した。

 孫中山〔訳注、孫文のこと。以下同じ〕は民族問題の上では不徹底だった。一方では民族平等を唱え、一方では全中国人を「国族」と称している。蒋介石に至っては、「宗族」といってきた。孫中山の欠点はブータン、ネパールを中国の領土としたことであり、これは大漢民族主義である。孫中山の民族主義に対する解釈は不正確で、大漢民族主義の思想があった。しかし、孫中山の革命進歩は認められるところである。

 今日、各民族はおのおの承認されなければならないし、将来に至っては同化され、全世界もまた同化される。しかしそれは何百年も先のことである。今日においては、諸民族は平等につきあい、互いに助け合わなければならない。中国全人口の九十四パーセントを占める漢民族が、たち遅れている民族を援助するのは当然のことで、また援助する責任がある。そうすることによって初めて平等につきあうことができる。

 (中略)

 我々は民族問題に対し、進歩的な民族には団結を呼びかけ、たち遅れた民族には批判し助ける。ただし、批判するときには道理を講じて節度を守らなければならない。民族問題においては、どの国とも平等につきあう。

 民族の立場が第一に重要なことである。我々は蒋介石にも余地を残している。彼の罪悪から論じれば、彼を残すべきでないが、民族問題においては、彼と米帝国主義との間もそりが合わないところがある。彼も台湾の国際信託管理に反対し、二つの中国に反対している。今日、米帝国主義は台湾侵略を合法化しようとしている。だから、台湾をアメリカに渡すよりも蒋介石に残した方が良い。台湾はいつかは祖国の懐に戻ってくる。二つの害を比べれば、まだしも害の軽い方を取るべきだ。米国は我々に台湾と澎湖の現状を承認させ、金門と馬祖島を我々に戻して、機会を見はからって蒋介石を見捨てようとしている。我々はそういう機会を米国に与えはしない。

(引用終了)

 

 さて、周恩来は「清朝は滅亡し、満洲族も滅亡した=漢族に同化された」と言っている。そして、はるか未来においては中国のみならず、世界中の少数民族が多数民族に同化・吸収されてゆき、消滅する運命であると。小が大を飲み込む、と言えば、それは大漢民族主義ということになるのではないか?

 ➀ 諸民族は平等につきあい、助け合わなければならない。

 ➁ 大多数を占める民族(漢族)が立ち遅れている民族を援助するのは当然である。

   ⇒ 多数が少数を、進歩した者が後進の者を援助してこそ、平等と言える。

     ここには前提として各民族の発達段階の差、文明化の程度差がある。   

 ③ 各民族がともに発展して、はじめて同化できる。

     「同化」の前提は「平等」である。

     「平等」の前提は各民族の文明化の程度差を埋めることである。

     そのためには

     多数民族・先進民族が少数民族・後進民族を援助しなければならない。

     援助とは旧体制(指導層)の打倒、旧思想(伝統)の改革を意味する。

 

 周恩来の言う各民族の「同化」とは、結局は唯物史観の立場から、多数の漢民族が他少数民族の伝統・習慣・思想を共産主義・毛沢東主義に変え、中国共産党(毛沢東)の指導下に置くということでしかなかった。だから、自分が満州族だと明かしても別段不利はないということだろう。

 こういった詭弁は、延安から文化大革命に至る中国共産党の激烈な内部権力抗争の過程で様々な場面で駆使された。権力者の意によって指導者層も大衆も二分され、互いに他を批判し打倒しなければ、限りなく批判される側に落とされる。虚言が通り、正論が斥けられる。そうなれば、たとえ自己批判しても、それ以上の罪科を「自白」しない限り、自身も家族も許されない(暴力から逃れられない)。引用した中に出て来る舒舎予(老舎)もその一人であった。

 

 「民族」についての中国共産党の行動はその表向きの声明とは違うことが、チベットや新疆に対する行動を見れば如実にわかる。これは前にみた、孫文の到達した「民族融合」の理想とは似て非なるものであろう。

 

 レーニンの「民族・植民地問題に関するテーゼ」(コミンテルン第二回大会1920)以来、「民族」と「階級」という全く異なる要素を同時に扱おうとしたソ連共産党の方針は、ロシア帝国内での諸民族問題に対しては有効だったかもしれないが、イスラム教圏の国々や中国ではうまく当てはまらなかった。その方針とは、

 「二〇年にレーニンによって示されたこのテーゼは、ソヴィエト・ロシアと世界のブルジョアジーの闘争を世界政治の中心点とした。そして前者が勝つためには、世界中のソヴィエト運動と民族解放運動を結合させなければならないと説く。(中略)ここで注目すべきは、こうした両者の同盟のあり方については、ソヴィエト・ロシアの連邦制が範とされたことである。それはつまり、ロシア・ソヴィエト共和国内の地方自治(たとえばバシキール自治共和国のようなタイプ)によるものと、ロシア・ソヴィエト共和国と独立共和国(たとえばウクライナのようなタイプ)との同盟条約によるものからなる連邦的な関係を指す。/したがって、コミンテルンの任務とは、それぞれの地域の状況に合わせて形づくられるソヴィエト・ロシア内の同盟関係を手本として、それを世界の大半を占める後進国地域にも拡張していくことだとされたのである。(中略)コミンテルンの究極的な目的は、「国際ソヴィエト共和国」の樹立にあったが、これが実際どういった国家なのかは、コミンテルンが創立された時点ではそれほど明確ではなかった。しかし、このテーゼによってソヴィエト・ロシア内の連邦的関係を世界規模に押し広げたものだという一定の具体像を得た。」(『コミンテルン』佐々木太郎、中公新書2025)

 

 一九二二年一月にモスクワで「極東民族大会」が開催された。この大会に中国からは学生を中心に三十九人が参加した。被植民地であり、農民が圧倒的多数で、ごく少数のプロレタリアートしかいないアジアの国々(日本はいち早く資本主義化し、プロレタリアート階級も存在していたので、コミンテルンは日本への工作を重視、優先していた。)では民族の解放が先であり、封建的地主小作関係からの解放が重要で、ブルジョアジーとの階級闘争という段階は遠いものだった。また、中国では清朝の帝政を打倒し共和制の国家が誕生したものの、軍閥の武装勢力がその前途を塞いでいた。

 

 清朝の下では一種の連邦国家だったモンゴルは、辛亥革命後早々に独立した。チベット、新疆、そして満洲は、世界共産主義の下で民族国家として独立し、かつ中華民国との同盟関係を続けることができただろうか。

 ‥‥よくまとまらないものになった。

日清日露戦役の意味

 日清日露の戦役に従軍し、戦死された方達については、各地域の寺社に慰霊碑や顕彰碑(忠魂碑)が建てられている。村から出征、戦死された方々の名がすべて刻されている。見たことがあるだろうか?

 

 明治以降、国民は徴兵され、外国との戦争に参加してその国民としての義務を果たした。納税と同様に、憲法によって成人男子には兵役の義務があったのだ。だから男の子たちは小さい頃から、自分たちもいつかは外征のいくさに身を投じ、御国の為に戦う時が来ると当然に知っていた。

 第二次世界大戦後、米ソ冷戦も終わると、多くの国々は国民皆兵をやめた。現代国家からは徴兵制がなくなる傾向だったのだ。しかし、ここに来て、現在の欧州ではロシアの侵略戦争が長く続いており、近隣の国々では危機感を強め、自国防衛のために国民に対し兵役を課そうとする向きがあるようだ。80年を経て、世界は帝国主義の時代のような、世界の中で領土を取り合う戦争を再開しようとしているのだろうか。あるいは権威主義的(独裁)国家と民主主義国家との争いに最終決着をつけるべく、世界大戦が行われようとしているのだろうか。

 

 大日本帝国は第一次世界大戦後には世界の軍縮条約に参加する五大国の一つだった。その地位は、欧州の帝国主義国家群がアジアの国々を侵略する大波への最後の防波堤となり対抗する過程で得たものだった。

 幕末から明治にかけイギリスがアヘン戦争で清国に勝利すると、アメリカ、フランスなども不平等条約を結んだ。東南アジアのみならず中国までもが半植民地化されてゆく中、日本は明治維新で国内体制を一変させ、海峡を隔てた朝鮮となんとか国交を開き、協力してともに抵抗しようとするが、朝鮮王室は鎖国を堅持し、国書の受取りすらしなかったので、日本は方向を転じ琉球・台湾へと向かった。古代さながらの王朝政治を続ける清と朝鮮は、そのままでは外国勢力によって打ち負かされ、植民地となり果てる運命だったろう(特に西太后の時期には)。そうなれば、日本が単独で西洋の衝撃に抗うことは非常に困難だっただろう。

 日本は清国と戦い、朝鮮の独立を勝ち取った。下関講和条約の第一条は「淸國ハ朝鮮國ノ完全無缺ナル獨立自主ノ國タルコトヲ確認ス因テ右獨立自主ヲ損害スヘキ朝鮮國ヨリ淸國ニ對スル貢獻典禮等ハ將來全ク之ヲ廢止スヘシ」である。朝鮮の近代化を進めるための第一歩と言えよう。日本はロシアとの緩衝地域を得たのである。

 日本はこうして、長い歴史の中で様々な影響(文化的恩恵)を受けてきた「中華」の国に対する「東夷」の立場を逆転し、帝国列強と同列の立場を得ることになったのだ。だがこれ以降、日本を含む列強は、一層中国の分割に進んで行った、言い換えれば「日本が列強化」したのは皮肉なことである。

 

 さて、日清日露の戦役で戦死した国民は、出身地の村々で手厚く慰霊、顕彰された。

 しかし、日中戦争・大東亜戦争は敗戦であり、国はGHQの占領下に置かれた。その戦争意義は戦勝国によって否定され、平和に対する犯罪であるとまでされた。だから、この一連の戦いで斃れた兵士たちも地元の寺社において永遠に名を刻され、慰霊、顕彰されることはなかった。沖縄の「平和の礎」などは例外的なものではないだろうか。

 復員した兵士たちは一般市民に戻ったが、誉めてくれる人もいなかった。多くの人は自分の戦争体験が何か悪事のように言われ、かつて童謡『冬の夜』に歌われた「囲炉裏の端に縄なう父は 過ぎしいくさの手柄を語る」のように自分の苛烈な体験を自慢話にして語り、昇華させるような機会もなかった。多くの人は体験を心の中に仕舞い込んで、家族のために、国家復興のために黙々と働いた。だから、酒に酔ったりすると、中国語の罵り語を叫んだり、妻に暴力を振るったりしたのは、その鬱積した戦場神経症の後遺症だったのだろう、と今になって思う。

 自分の父親の世代がそうやって生きて、この国を立て直してきたのだ。

 

 中国大陸に限れば、日本軍は主要地域を占領し、負けていたわけではなかった。現地にいた兵士たちは突然?の敗戦、武装解除、捕虜生活あるいは抑留、現地での裁判という流れにとまどったのではなかろうか。そこは父親に詳しく聞かなかったのでわからない。

 汪精衛国民政府という仮の政府が立てられたが、これに統治を任せて日本が兵を引くというわけにはいかなかっただろう。日本軍がいなくなれば汪精衛政権は瓦解し、新たな軍閥の割拠する大混乱状態となり、大きくはソ連の支援を受けた毛沢東の中国共産党軍とアメリカの支援する蒋介石国民党軍の内戦が延々と続くことになるのは目に見えていただろうから。数年後の朝鮮戦争を鑑みれば、アメリカであっても勝ちきれなかった対共産軍戦争を、辛うじてソ満国境で食い止めていたものを、「連合軍」という名のもとに侵略を許してしまった。

 1900年、北清事変後のロシアの満洲軍事侵略という事実を踏まえれば、当然予測できたことであろう。黒竜江沿岸ブラゴヴェシチェンスクの対岸、江東六十四屯の虐殺に始まるロシア侵攻軍と満洲旗人+義和団との戦いで清は敗れ、多くの満洲人は殺害され南に逃れた。そのまま満洲に居座るロシアを、死力を尽くして黒竜江まで押し戻したのは清ではなく、日本の兵隊だ。

 それから40年後、満洲は再びロシア(ソ連)の蹂躙を受けた。日本人移民の苦難も計り知れないが、最大の被害者はやはり中国人民である。

 

 靖国神社はもとは戊辰戦争の勝者の招魂社だが、日清日露戦争後は国民皆兵の下での殉難者を祀っている。戦犯とされた人々も同様だ。首相にはぜひ参拝してほしいが、現状ではまだ遥拝も止む無しであろう。国連憲章の敵国条項が抹消されるのが一区切りかもしれない。だが、ロシアとの間にはいまだに平和条約がないので、それも難しい。

映画「日本の一番長い日」

 テレビで原田眞人監督版を初めて見た。岡本喜八監督の1967年版も見ていたが、格段に原田監督版が良いと感じた。玉音放送までの24時間に限らず、原爆攻撃やソ連参戦の前、4月の鈴木貫太郎内閣組閣から描かれていて、ポツダム宣言受諾までの紆余曲折がよくわかった(サイパンが落ちて東條が辞職し、東京大空襲で小磯が辞職、最後の手段として選ばれたのが鈴木だった)

 また日本帝国陸軍がいかに法令、規則、命令系統を厳重に守り、上官の命令を絶対としていたかが明瞭に見て取れた。この強固な組織力が個々の戦闘場面で発揮されていたのだろう。近衛第一師団長森中将を殺害し、その印鑑で偽の命令書を作成した畑中少佐らだが、NHKで「空襲警報発令中の放送には東部軍管区の許可が要る」と抵抗されると、東部軍管区に電話して許可を求める(司令官はクーデター鎮圧にあたった田中静壱中将だった)。なんという律義さか。

 しかし、参謀肩章(飾緒)をつけた連中は、頭は良いのだろうが、その頭でろくなことを考えなかったものだ。最前線でもないのに独断専行よろしく直情的な判断を下す。陸軍省軍務局=大本営参謀部の政治的動きは代々伝わって弊害となっていたが、上の者も大同小異だったから下の者を止め難かったのだろう。

 

 役者たちが皆すばらしい演技をしている。遠景で薙刀の練習をしている女学生たちに至るまで当時の雰囲気を醸し出しているのだった。(もちろん自分も直接は知らないわけだが)

 役所広司、堤真一、松坂桃李、山崎努、いずれも見事だった。役所広司は同じ監督の作品、「KAMIKAZE TAXI」の演技も強く印象に残っている。

 

 山崎演じる鈴木貫太郎首相は、地下壕の御前会議で天皇の前に進み出る時、一旦横に歩を進め、そこから向き直って天皇の前に出る。まっすぐ正面から近づかないのだ。この老人は映画では昼行燈のようにも見えるが、夏目漱石と同年(慶応三年)の生まれで、海軍軍人として日清・日露の海戦に参加したという古強者である。連合艦隊司令長官、枢密院議長や侍従長も務めた。天皇とはごく近い所にいた人物である。そのため、君側の奸とみなされることにもなった。

 侍従長で枢密顧問官の時には、二・二六事件で官邸を襲撃され、数発拳銃で撃たれたが、妻が、老人なのでとどめだけは許してくださいと願い、一命をとりとめた。この冷静かつ気丈な妻、たかは、皇孫御用掛として昭和天皇とその弟たちを11年間教育したという女性である。たかから宮中への電話で反乱は天皇の知る所となった。天皇は、自分の父母のような鈴木夫妻の遭難に怒りを覚えたことだったろう。クーデターは逆賊と即断された。(この、二・二六事件の際にとどめを思いとどまらせた妻を、会津藩士の娘と記憶していたのだが、それは前妻で早く亡くなられていたことを知った)

 鈴木はその10年後、終戦直前のこの映画の主題である「宮城事件」でも首相公邸を襲撃されたが、いち早く逃げている。

 終戦の頃にはもう77歳の高齢で、怖いものもない(戦犯として死刑は覚悟)。軍人は政治に関与すべからずという信念で、国会議員にもならず政治には距離を取っていたため、内閣の人事もまったくの手探りだったが、利害関係を超越した俯瞰的立場を保持しているようでもあった。もちろん天皇の直々の指名によって、お前しかいないと言われて終戦内閣を組閣したのだから、また、貞明皇太后からも直に頼まれたという逸話もあり、その責任を全うすることがすべてだったろう。

 御前会議、御聖断という手段を繰り返したのは、天皇との阿吽の呼吸が可能な鈴木ならではの道だったのだろう。

 しかし、天皇陛下御自身も鈴木首相も、戦後に国体が保持されることを確信していたように描かれていた。この根拠は何だったのか。ソ連やアメリカ、中国が納得するわけもなく(これらの国には皇帝はいない、あるいは革命で打倒している)、イギリス王室やローマ教皇筋の力が働いたのかもしれないと思ってしまう。

 

 昭和天皇が大国の君主たる人間として、いかなる存在でいかに振舞ったか、が過不足無く描かれている。

 東條英機が軍の降伏、武装解除を問題外とし、継戦を上奏する際に「陛下のお詳しい動物学で譬えるならば、栄螺の殻が軍で身が国であり、殻なくして身は生きられないように、軍無くして国は持たない」というようなことを申し上げると、「では聞くが、スターリンやチャーチルが栄螺を食する時、殻は食べずに捨てるであろう」というようなことを仰せになる。東條は震え上がって「東條の比喩は不適当でありました!」と引き下がる。殻と身のどちらが大事かも分からないのかと叱責されたのである。ただし、このエピソードが何を根拠にしているのかは、今分からない。(昭和3年、満洲某重大事件の際に天皇が田中義一首相を𠮟責され、内閣が総辞職に至った時も、侍従長は鈴木だった)

 

 平成、令和の天皇に、鈴木貫太郎のごとき股肱の臣はいないだろう。今は主権者たる私達国民が決断しなければならないのだ。

 それでも、やはり御聖断を仰ぐほうが自分にとっては納得できるように? 自然に? 感じられる、という世代がまだ生き残っていることも確かなのではなかろうか。それもまもなく消えてしまうに違いないが。

ゴジラ、マイナス2 鉄腕アトム、マイナスゼロ

 映画「ゴジラ」が封切られたのが昭和29年、漫画「鉄腕アトム」が連載開始されたのが昭和27年ということ。その年に誕生したのが自分だと言うだけのこと。

 当時の子供たちは、特撮映画と漫画雑誌の影響を受けて育った。これは間違いない。まあ、両方ともSFと言ってもよいかもしれない。探偵小説もよく読んだが、年齢が上がると、海外のSFをハヤカワノベルなんかで読んだりもした。スカイラークシリーズとか。007シリーズもあったなあ。SFもいろいろ読んだが、ブラッドベリ―が好みだった。「The Martian Chronicles (火星年代記)」とか「The Fog Horn (霧笛)」とか。

 「霧笛」といえば、それにヒントを得た「怪獣ゴルゴ」というイギリスの映画があって、昭和36年に日本で封切られている。これも父親と見に行ったと思うのだが、当時9歳の自分にはものすごくリアルに恐ろしく見えた。今見ると怪獣は着ぐるみで、ずいぶん不格好なのだが。

 海から現れる怪獣、もうゴジラである。先に幼獣が捕まり見世物にされる。後に親の怪獣が助けに来るという話なのだが、幼獣でも20mくらいあるのに、親は70~80mあるのである。ゴジラより大きい。海から上陸するとロンドンをめちゃくちゃに壊す。

 自分は第一作の「ゴジラ」は映画館では見ていない。昭和37年の「キングコング対ゴジラ」が最初のゴジラ体験なので、この「怪獣ゴルゴ」が怪獣映画を見た最初ということになる。日本のゴジラ映画は「ゴルゴ」よりずっと画面が明るかった。

81年目の広島原爆の日に思う

 今日は、81年前にアメリカ軍爆撃機によって、広島に原爆が投下された日だ。

 あなたが生まれてからは何回目の原爆の日になりますか?

 

 下の写真は『原爆爆心地』(志水清編、日本放送協会出版会発行、1969,7)に掲載されている写真で、T字形が特徴的な相生橋(市電が通っている)と、現在は広い平和公園になっている中島地区の、被爆前の様子を写した航空写真である。出版当時高校生だった自分が購入した本である。禁無断転載の記載が確認できないので引用させていただく。

 

 

 下の写真は左が北である。太田川が北から南に流れ、幾筋にも分かれる。写真の上(東)が元安川、下(西)が本川だった。写真左側に切れている所に相生橋がある。この中洲の先端を「慈仙寺の鼻」と呼んでいた。その名のお寺があったからである。写真では見切れている。原爆ドーム、すなわち当時の産業奨励館も左外で写っていない。

 要するに、昔からの賑わった市街地であり、多くの旅館やお寺、映画館や役場、学校や商店、住宅があったのだ。もちろん、慈仙寺の鼻の北東岸には広大な広島城があり(旧天守閣は原爆で壊滅、現在のものはコンクリート製の復元)、そこは第五師団の衛戍地であった。それは確かに軍事目標だったかもしれないが、なぜ都市丸ごと、住民のすべてを巻き添えにするような核兵器を使用しなければならないのか。日本中の都市無差別爆撃に加え、石に刻むべき非人道的戦争犯罪だろう。

 

 下の図は同著の付録で、1960年代当時の被爆生存者たちが、記憶をもとに再現した爆心半径500メートル内の復元市街図である。(今は中国新聞社のページで詳しい旧状と現状を重ねた地図が見られる。bakushinchi_hukugen_ja.pdf

 

 右の元安川東岸に産業奨励館がある。右下にお寺と広島郵便局、そして「細工町」の「町」の字の所が爆心地の島病院である。赤文字の名前は未消息の家。ただし、(全滅)の家も多い。右上が広島城になる。慈仙寺の鼻の西側、川向うは本川国民学校。

 

 原爆でも、空襲警報が出て防空壕に入っていれば比較的助かった、というようなことを言う人もいる。たしかに通常爆弾の直撃を受けるのとはわけが違う。上空500メートルで炸裂したのだ。その直下であっても、そういう幸運な人がいたのも事実である。かえって直下で垂直の圧力を受けた石柱などは、耐えて立っていた。しかし、無傷の人もまた多くが放射線被曝の影響で死んでいったことを忘れてはならない。

 

 原爆投下は嘘で存在しなかった。あれは核兵器ではなく、焼夷弾だった。あれは投下ではなく打ち上げたのだ。などなど、あきれるようなトンデモデマ言説が流れてきたりする。この市街図を見て、当時そこに生きて体験した人たちの語ることを聞いてみればよい。…それでもまだ否定する人も居るのかもしれない。

 

 自分の言説に責任を持たない人間、いや、あえて曲げて発言する輩がいる。

 

 

 話は変わるが、四半世紀前に「神の手」といわれた旧石器発掘捏造事件があった。学術の世界でも捏造があるのだ。まあ何とか細胞とかもあった。

 さっき見た記事では、キリスト教の研究者が学術論文を捏造したというのでその著作が絶版になったというのがあった。そしてこれが初めてではなく前にも岩波書店での絶版、吉野作造賞受賞の取り消しがあったというのだから驚きだ。この絶版とは、在庫を処分するだけではなく、回収までするというものだ。出版社もいい迷惑かもしれないが、編集者がもっと注意すべきだったろう。賞を与えた審査員も自分の不明を恥じねばなるまい。「お前はグルかバカか!?」 しかし悲しいかな多くの場合、人は周りの人が何かを高く評価すれば、それを自分で検証せずに(あの原爆に関するトンデモ説のように)、たやすく信じてしまうものなのだ。

 この学者はまだ60代、日本基督教団の牧師でもある。東洋英和女学院の院長だったが懲戒解雇されたというから驚きだ。捏造事件後、日本基督教団愛泉教会の牧師になり、今はなんと鶴岡市にあるキリスト教若葉学園の理事長だという。自分のついた嘘の罪は神に懺悔したのだろう。懺悔じゃなくて告解? プロテスタントだから告白も無い?

 日本基督教団というだけで、数か月前の沖縄県辺野古の事件、同志社国際高校と日本基督教団の関係を連想せざるを得ない。この愛泉教会では、牧師のほかに信徒という人たちがお話をしているのだが、その内容を見てみるとLGBTとかパレスチナとかが多くて、どうも本来のキリスト教からはズレているように感じる(まあ全部見た訳でもないし、自分が門徒で氏子だからかもしれない)。

 なお、日本基督教団の住所は、あの「新宿区西早稲田2ー3ー18」である。

 宗教や学問の世界の背後に、いやもっと、教育界、福祉とか精神医療関係とかも含めて、思想と行動・実践の間に綾なすと言ってもいいか、何とも知れぬ実態不明のネットワークが重なり合っているのではないか。

 いや自分が陰謀論にはまってどうする。人の事は言えないとしておこう。ここから先はもっと追及したい人がいれば、すればよい。

『徒然草』序段「書きつくれば」の口語訳について

 以前に書いた「徒然草序段の解釈について~「ものぐるほし」を中心にして」の補足になりますので、そちらを併せてお読みください。

徒然草序段の解釈について~「ものぐるほし」を中心にして - 晩鶯余録

『徒然草』序段「ものぐるほしけれ」補説(五) - 晩鶯余録

 

 

 「心にうつりゆくよしなし事をそこはかとなく書きつくればあやしうこそものぐるほしけれ」

 この「書きつくれば」の解釈についてだが、これまで見た解釈、訳文のすべてが、この「ば」を、「~すると」と訳している。

 

接続助詞「ば」の分類

 

 學燈社『國文學 解釈と教材の研究第29巻8号 昭和59年(1984)6月臨時増刊号、古典を読むための助動詞と助詞の手帖」という特集号がある。もうずいぶん古いものだが、今手元にあったので、「ば」について引いてみる。155頁から吉田金彦氏の「古典を楽しむための助詞辞典」である。186頁に「ば」の項目がある。引用してみる。(改行等は晩鶯)

 

「【意味・用法】

 前文と後文とをつないで、前文が後文の条件になり、ほぼ順接の意味関係になることを示す。

➀ 未然形につく場合は仮定的条件を表す。

(中略)

 已然形につく場合は確定的条件を表す

 ㋐ 因果関係の顕著なもの。 

   「風吹けえ出で立たず」(土佐)<風が吹いたので、よう舟出しない>

 ㋑ 平常事態としていうもの。 

   「家にあれ笥に盛る飯を草枕旅にしあれ椎の葉に盛る」(万葉一四二)

   <家にいる時には食器に盛って食べるご飯だが、旅にいるので椎の葉っぱに盛って食べる> (晩鶯注、「あれば」の「ば」は㋑ではなく、㋐である)

 ㋒ 単なる継起的前後の関係を言う。 

   「それを見れ、三寸ばかりなる人いとうつくしうてゐたり」(竹取)

   <のぞいて見る九センチぐらいな人が大変可愛いいあり様でそこにいた>

 ㋓ 超時的に真理を表す。

   「おのがなさぬ子なれ、心にも従はずなんある」(竹取)

   <自分の実子ではないので、ちっとも聞いてはいない>

 ㋔ 事態が並行している場合。

   「人々参りつれ、夜も明けぬ」(紫式部日記)

   <人々が参上した頃には、夜も明けた>

 ㋕ 当然順接を予想しながら、結果として逆接になる。

   「秋立ちて幾日もあら、このい寝る朝けの風は袂寒しも」(万葉一五五五)

   <秋が来て、(段々寒くなることを暗示する)まだ何日も経たないのに、この寝て起きた朝の風は(私独りの)袂に寒いことだ>

 【留意点】

 ⑴ 「ば」は接続助詞の中で最も接続助詞と呼ぶに適する代表的機能の助詞である。

 (以下略)

 

 引用してみたが専門的に詳しすぎて分かりにくい所もあるので、あらためて学校文法的に説明してみる。

 

 今、序段の接続助詞「ば」をみると、動詞「書きつく」の已然形「書きつくれ」に接続しているので、「順接確定条件」を表すことになる。

 (未然形「書きつけ」に接続していれば「順接仮定条件」である。この場合の口語訳は「もし仮に、書きつけたならば」というふうになるだろう。)

……………………………………………………………………………………

 確定条件の場合は、次のような口語訳が考えられる。

 ➀ 原因・理由(~ので、~から) 前記吉田氏の分類の㋐に相当 

    「京には見えぬ鳥なれ、みな人見知らず」(伊勢物語)

 ② 偶然的条件(~と、~ところ、たまたま) 前記㋒に相当

    「天の原ふりさけ見れ春日なる三笠の山に出でし月かも」(古今集)

    「柿喰へ鐘が鳴るなり法隆寺」(正岡子規)

 ③ 恒常条件(~と、きっと、いつも必ず) 前記㋑・㋓に相当

    「疑ひながらも念仏すれ往生す」(徒然草)

……………………………………………………………………………………

 『徒然草』序段の「書きつくれ」については、②の偶然的条件として訳している人がすべてだと言ってよい。すなわち、「書きつける」「書きつけたところ」である。「そこはかとなく」=「とりとめもなく」書きつけた、というのだから、その結果は予想もしない、たまたまできた「偶然の産物」ということになるのだろう。十分納得できる解釈である。

 しかし、これが「あやしうこそものぐるほしけれ」に続くとなるとそう簡単ではないのだ。さらに、「ものぐるほし」は何についての形容なのかが問題にされる。「書いている作者の心」なのか、「書かれた文章」なのか。あるいは両方なのか。

 そのうえさらに「物狂ほし」の語意を「狂気」に近づけて解釈すると、「夢中で書いていると妙に頭がおかしくなってくる」などという解釈になってしまう。

 

『枕草子』跋文との比較

 

 『枕草子』跋文(最終段)には次のようにある。

 「おほかたこれは、世の中にをかしきこと、人のめでたしなど思ふべき、なほ選り出でて、歌などをも木草鳥虫をもいひいだしたらばこそ、「思ふほどよりはわろし。心見えなり」とそしられめ、ただ心ひとつに、おのづから思ふことを、たはぶれに書きつけたれ、ものにたちまじり、人なみなみなるべき耳をも聞くべきものかはと思ひしに、「はづかしき」なんどもぞ、見る人はし給ふなれば、いとあやしうぞあるや。げにそもことわり、人のにくむをよしといひ、ほむるをもあしといふ人は、心のほどこそおしはからるれ。ただ人に見えけむぞねたき。(後略)

  

 兼好法師が『枕草子』を読み、『徒然草』の参考にしたことは確実である。従って、この跋文に相当するものが『徒然草』序段であるとみるのは自然であろう。太字にした部分を見れば、似たような表現があることにも気づくだろう。ただ、『枕草子』では「書きつけたれ」と完了形になっているのに対し、『徒然草』では「書きつくれ」と現在形になっている。このせいもあって、前者が「書きつけので」と(原因・理由)に解釈され、後者が「書きつける」と(偶然的条件)に解釈されるということになるわけであろう。

 しかし、完了の助動詞の有無だけで、条件の訳し方が決まってしまうわけではない。たとえば、『徒然草』四十七段「ある人清水へ参りたりけるに」を見ると、

 「道すがら、「くさめくさめ」と言ひもて⑴行きけれ、「尼御前、何事をかくは宣ふぞ」と問ひけれども、答へもせず、なほ言ひやまざりけるを、たびたび言はれて、うち腹たちて、「やや、鼻ひたる時、かく⑵まじなはね死ぬるなりと⑶申せ、養ひ君の比叡山に児にておはしますが、ただ今もや鼻ひ給はむと⑷思へ、かく申すぞかし」と言ひけり。ありがたきこころざしなりけむかし。」

 これらの「ば」はすべて確定条件だが、⑴⑶⑷は「~ので、~から」と原因・理由で解釈すべきだろう。⑶と⑷には完了や過去の助動詞がないが、⑶は「~と申しますので」⑷は「~と心配するから」と訳せるだろう。⑵は「~と必ず、いつも」で恒常条件になる。

 だから、序段の「書きつくれ」を「書きつけるので」「書きつけるから」と訳しても間違いではない。『枕草子』では跋文なので「たり」がつき、『徒然草』では序文なのでついていないだけだ、ということもできるだろう。

 

「ものぐるほし」の主語は何か

 

 『徒然草』第十九段の「おぼしきこと言はぬは腹ふくるるわざなれば、筆にまかせつつあぢきなきすさびにて、かつ破り捨つべきものなれ、人の見るべきにもあらず」が、序段の「そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」に重なるようにも思われる。これはもちろん『土佐日記』末尾の「とまれかうまれとく破りてむ」にも通じる。

 これらを併せて考えれば、すなわち、私の書いたものはくだらないもので、常軌を逸したものである、と解釈するのが自然であろう。

 この文は「筆にまかせつつあぢきなきすさびにて、(略)人の見るべきにもあらず」のように省略しても、明らかに書いたものについて言っていることが読み取れる。逆に省略した部分を序文に補ってみると、「よしなしごとをそこはかとなく書きつくれば、(かつ破り捨つべきものなれば)、あやしうこそものぐるほしけれ」のようになって、「ものぐるほし」いのは書いた物だということがはっきりするように思われる。(補う場合は「かつ破り捨つべきものにて」にしたほうが自然になるだろう)

 

 「書きつくれば」の部分解釈の違いが、序段全体の解釈に影響するのではないか、という一面について書いてみました。まあ素人考えです。