2022年度共通テスト、漢文・古文問題を解いてみた

 漢文と古文を解いてみた。全問正解できた。難易度は高くないと感じた。聞くところ

では、評論が解きにくかったようだ。

 なお、古文・漢文は、隅々まで完璧に口語訳する必要は全くない。時間内に、傍線部

に関することが分かれば良いのである。自分もあやふやな部分は後で辞書を引いて調べ

た。ましてや学者でも意見の分かれる部分も多いのだから。

 

 今回の漢文問題は基本的な語意と句法と漢詩(近体詩)の知識で十分だろう。授業を

聞いていれば分かる。容易な問題と感じる。清代の詩とその序文である。語彙も簡明

で、全体がまとまっていて分かり易い。作者について何も知らなくても全く支障ない。

 リード文は必ず、しっかりと読まなければならない。


問一 漢字の意味
 復 「ふたたびまた」である。「また」と読む字は、この他に序文中に「又」があ

   る。「是ノ園モ又」で「もまた」だから「亦」であれば高校生には分かり易いと

   思う。

 審 「つまびらかに」 …現代文のような出題。

 得 「~をう」 まずcanかgetかを区別すれば良いのだが、下が体言ならget(手に

   入れる)、用言ならcan(~できる)となる。ここは「形色」だからgetと思う

   が、抽象名詞だから手に持つことは出来ない。「理解する」とか「習得する」と

   かの意味になる。

問二 白文に対して、訓点と書き下し文のセットを選ぶ

  一見して「~ニ~(スル)者有リ」のパターンであるから①と⑤は消せる。また

  「呼之」「入匣」が前の行にあり、蝶を入れて作者の園に持って来て、開けたら

  「空匣」だったという落ちもあるのだから、②③④のいずれかである。あとは

  「帰」を「帰る(自動詞)」と読むか「帰す(他動詞)」と読むかの違い。「呼」

  「入」「帰」はすべて蝶を目的語にしていると見えるし、「客」がどういう人物か

  だが、作者の園の者ではないだろう。句読点がないのは気にしないでいい。

問三 部分解釈

 「苟」 「いやしくも」が読めるかどうか。仮定形であり、下は順接仮定条件の

     「ば」で受ける。④のように逆接仮定条件「とも」にはならない。

 「当」 再読文字「まさに~べし」が読めて、訳し方が分かるか。

     いずれも基本的知識である。「苟くも吾に近づか(け)ば、吾当に之を図(ゑ

     が)くべし(べけん)。」

問四 空欄補充、詩の押韻

 まず形式だが、絶句と律詩の区別ができないのは論外。③か⑤になる。どちらの選択

 肢も、対句や押韻の位置についての説明部分は正しいので、あとは他の韻字と同じ韻

 かどうかの判断になる。これは音読みして簡単に判別できる。「多」(ta)・「何」

 (ka)・「羅」(la)・「過」(ka)だから、答えは「歌」(ka)になる。

 下平声歌。中国音はge(一声)。

 なお、「香」を(ka)と読むのは訓読みになる。引っ掛けかな? 音では(kou)

 と読むべきだろう。下平声陽。中国音はxiang(一声)

 ②だけ古詩とするがそれは無い。

問五 疑問・反語の句法

 「~ヲ奈(如)何セン」が読めるかどうかだけの問題。『史記』「四面楚歌」で「虞

 兮虞兮奈若何」を読んだだろう。

 頷聯が対句なので「留我住」と「奈春何」が照応している。「我ヲ留住シ」「春ヲ奈

 何セン」という感じなのだろう。

問六 エピソードの順序

 「呼之落扇」、「蝶落其袖」とある。「扇」の後に「袖」であるから④か⑤である。

 その間に満州人の家の園に現れ、また作者の園の台に現れているから⑤になる。

 誤答する人は詩の内容を混同し、春城や董思翁を選んでしまうのか?

 なお、「辛未秋」から「壬申春」、「秋半」と都での一年間の出来事であることが分

 かる。十干十二支の知識が無くても注を見れば書いてある。詩はその翌年の春に詠ま

 れている。

問七 心情の読取り

 本文に無いこと、本文と違うものを含む選択肢を排除してゆけばよい。

 誤答する人は明代の董思翁の蝶や竹のエピソードと、清代の作者の体験を同時期と思

 ってしまうのだろうか?

 

 

古文
 人間関係は中心的登場人物が三人しか居ないので分かり易く、敬語からの判断も比較

 的容易かと思われる。文章Ⅰ・Ⅱとも、二条への敬意は無い。ただ、敬語の基本が身

 についていない人は大変だろうと思う。

 状況を把握するには、問題文の前にあるリード文をよく読むということが絶対に必要

 だ。初見の者に、何が書いてあるかを親切に教えてくれているのだから。

 『とはずがたり』には後深草院の女性関係が書かれているが、問題文は『増鏡』との

 共通部分を取り上げていて、女性の私的自伝的回顧と歴史物語との差異を考えさせた

 りして、大学で学ぼうとする生徒に問題意識を誘発させようという意図が感じられ

 る。まことに古典の世界は深いのだ。

問一 語彙

 「まどろむ」は理解できるだろう。「れ給はず」の「れ」は、可能の「る」であっ

 て、尊敬ではない。打消しの「ず」と併用されている。

 「ねびととのふ」は、「若紫」の授業で「ねびゆかんむさまゆかしきひとかな」を読

 むから知っているだろう。

 「おほかたなるやうに」の「おほかた」もそう迷わないだろう。

問二 部分読解

 一文を五つに分けて、それぞれが誰のどんな気持ちを表しているか問う。

 選択肢②と④に文法事項(助動詞の意味)があるが、それが正しくてもこれだけでは

 決定できない。「けむ」は「過去推量」だろうが「なむ」の「む」は「意志」ではな

 い(「止まむ」を「ぬ」の未然形で強めている。「止めむ」の強意なら「止めな

 む」)。

問三 部分説明、院の言動からその人柄を推測する。

 傍線部は「せちにまめだちてのたまへば」だけである。「心底まじめな顔でおっしゃるので」くらいの意味か。「まめだつ」の「まめ」は、『更級日記』の「まめまめしきものはまさなかりなむ」とかで読んだかも知れない。

 

 未完

1945年8月15日以降における韓国の農地改革(朝鮮半島における土地制度の変遷)その23

 帰属財産(Vested property) 敵産(Enemy property)

 日本の敗戦後、朝鮮半島に残された資産は連合国への戦争賠償のため接収された。これを「帰属財産」とか「敵産」とか言う。これには官有地、私有地も含まれる。

 

 

 帰属財産の性格についての認識の発生

 いわゆる帰属財産の範囲はどこまでで、戦後どのように扱われ処分されたのか。

 以下、『朝鮮総督府終政の記録』(1945)よりの引用。

 引用開始(下線、太字は筆者)

(七、進駐後に於ける米軍の行政活動)

 「日本人警察官を罷免し、米軍憲兵の下に朝鮮人警察官を協力せしめ治安確保に任じたる軍政庁は米軍の布告、命令、声明其の他米軍の報道等に依り一般民衆は克くその趣旨の下に秩序ある生活々動を為すべきものと見込み、且つ、期待せるものの如きも、一般民衆は無知にして、且つ、煽動家の使嗾に乗り易く、従って今日の日本行政権の覆滅を機会として、従前の日本人所有の一切の企業及び財産は何れも過去に於いて朝鮮人を搾取して成立せしめたるものなるを以って、この機に於いて凡て之を朝鮮人に復帰せしめ、日本人は速に母国日本に追い返すべしとの誤りたる観念全鮮に蔓延し、収拾の方法なく混乱の一途を辿れり。/即ち朝鮮人は日本人幹部の下に企業活動を継続せざるは固より、其の会社財産一切の接収並びに従前の日本人の獲得せる経済的利益の返還を迫り、極めて多額なる退職手当を要求するの外、理由の如何を問わず金銭の提供を迫り、此のことの速に解決せざるや、或いは企業設備を破壊し、或いは日本人幹部を彼等の実力支配下に拘束する等の不法事件発生相次ぐと共に、日本人の所有せる日本刀其の他の武器を捜索する為なりと潜(僭?)称して保安隊一味徒党の類は日本人住宅に不法侵入し、或いは又、日本人住宅を接収すると称して居住者に追〇〇(?)を命ずる等論外の事件続発し、更に又、日本人の朝鮮残留に対し、有形無形の圧迫を加えて日本人財産不買同盟宣言等を声明するビラ、ポスター等を撒布貼付するの事件連日増加せり。」

(八、日本人の日本帰還に伴う諸件)

 「終戦前、北緯三十八度以北に於けるソ連軍の進寇に鑑み、其の暴行を予察したる鉄道沿線付近の日鮮人の一部分は取るものも取りあえず南下避難し来りたるも、ソ連兵の突如として元山に上陸し交通を遮断するや、多くは咸興付近に滞留を余儀なくせられ、一部は後日徒歩に依り京城に避難し来れり。/終戦後北鮮の武装解除の担当はソ連との通電を受くるや、直ちに婦女子其の他引揚げを適当とする者の引揚げ方指令せるも、多くの要避難者に周知徹底するを得ず、且つは又、ソ連の侵攻速度に先んずるを得ざりし者あるべく、南北鮮交通遮断に遭遇し、陸路引揚企図も空しく、又、海上交通に依る脱出等も一部分は実施せられたるも、之に多くは期待し難く、大多数の日本人及び婦女子はソ連軍および朝鮮人の虐待下に涙を飲み、一日も速なる救出の手を鶴首しあり。満洲戦災民に付、同様の事情なり。/南鮮地区の日本人に在りても北鮮地帯の進駐軍の暴状を耳にせる者は、相伝えて恐怖し、之に加えて保安隊の言動、窃、強盗の侵入、武器の提供を迫る徒党の家宅侵入等の危険を体験し、又は、身近に感じたる者は、一時も速に日本帰還を焦慮せるが、後に至りて日本人財産は朝鮮人の勤労を搾取せるものなりとの観念、朝鮮人側従業員に浸透するや、日本人企業財産の接収、住宅の侵入、退職手当其の他の金銭不当要求、日本人幹部に対する実力支配に依る自由の拘束等の事件頻発し、加うるに、共産党系一味に於いて日本人の即時總引揚げを迫るビラ宣言等の散布あるや、日本人中飽く迠も朝鮮に残留せんと決めたる者も、斯様に身体上の危害を予測せしめられては、朝鮮滞留は不能事なりと断念せざるを得ざるに至れり。」

 「而して之と相前後して、何等刑事上の重大事由なくして民間有力者及び財産家等は朝鮮人警察官の手に依り続々と警察署等に拘留せらるるの事件発生せるが、同室の朝鮮人被拘留者の言動等依り察して、日本人の朝鮮残留は不能事と察せられたりと語る者あり。即ち彼等下層朝鮮人は「日本人の野郎共は尚朝鮮に居るとすれば、女子供は見付け次第殺すが宜しい。日本人の野郎共は殺して宜しい人間だ。」と放言して、恰も日本人に対し危害を加うることを以て國士を気取るが如き態度なると共に、又、他方心ある親日朝鮮人よりも「日本人はこの際速に帰還を得策とする。」の親切なる提言ある状況なりき。」

 引用終了

 上に引用した中の太字部分のような意識が、今日常識的に語られる「帰属財産」の認識であろう。それは、日本降伏後直ちに朝鮮人の間に広がっていたことがわかる。ただ、これが朝鮮人一般の中に、併合下に於いても継続的に、また一部にでもこのような認識があったのか、あるいは日本敗戦を機に意図的に拡散されたものなのかは確認できない。だが、後にみるように、北朝鮮において進行した共産主義革命の影響が、当時まだ往来可能だった南朝鮮の人民委員会に強い影響を与えたことは考えられる。その指導層の多くは併合時の服役者、すなわち政治犯だった共産主義者社会主義者であっただろうし、彼らはソ連の急速な侵攻と北朝鮮の体制変化を見て、社会主義の実現に期待するところが大きかったと想像される。

 

 

 帰属財産の総額とその内容

 「連合国最高司令部の財産管理処外部財産部(External Assets Division of Civil Property Custodian of SCAP)による日本人財産調査では、日本が1945年8月の時点で北朝鮮において29億7千95万9614ドルを、南朝鮮では22億7千5百(万?)5422ドルにいたる公共財産保有していた。これは、朝鮮における総財産の85%にあたる財産であり、朝鮮における日帝の経済支配力を明らかにする。」(崔 恩瑞「米軍政期の南朝鮮における政教分離政策とキリスト教友好政策―米軍政の宗教政策と教育政策によるプロテスタント信者の急増―」より)

 これによれば、朝鮮半島に残された帰属財産の総額は52億4千5百96万5036ドルになる。しかしこれは「公共財産」についてであって、個人の私有財産は含まれていないように見えるがどうなのだろうか。自分はまだ読んでいないが『帰属財産研究』(李大根2015)によると、日本人の資産は当時の推計で約52億ドル、700億円だというから、ほぼこれで、私有財産含め全部なのだろう。現在の価値では数千億ドルになるそうだ。

 さて、この財産の管理、処理はどのようになされたか。

 

 1945年9月25日に、在朝鮮米国陸軍司令官の指令による朝鮮軍政長官アーノルド陸軍少将名での「法令第2号」(敵産に関する件)は以下の通り。

 「第1条 1945年8月8日以降、日本、ドイツ、イタリア、ブルガリアハンガリー、タイ等帝国のその政府やその代理機関、その国民、会社、団体、組合、その他機関と、又はその政府が統合及び規制する団体が一部を所有するか、管理する金、銀、白金、通貨、証券、預金、債券、有価証券、その他財産を売買、取得、移動、支払い、処分、輸入、輸出、その他取扱と権利、権力、特権の行事はこの法令が規定した以外のものは禁止する。(後略)」

 

 また、1945年12月6日に公布された「法令第33号」には以下のようにある。

 「第2条 1945年8月9日以降の日本政府、その機関又はその国民、会社、団体、組合、その政府のその他機関又はその政府が組織あるいは取締団体が所有し管理している金、銀、白金、有価、証券、債券、有価証券及び本軍政庁の管轄する地域内に存在するその他すべての種類の財産及びその収入についての所有権は、1945年9月25日から朝鮮軍政庁が取得しその財産のすべてを所有する。(後略)」

 

 「その財産からの収入」には、小作料も含まれるようだ。南朝鮮に於いて地主―小作制度は維持され、旧日本人所有地からの小作料は米軍政庁に納められるようになるということだろう。(後に触れる北朝鮮の10月10日の決議では、日本人と親日派朝鮮人地主から没収された土地の小作人は、収穫物の30%を地方政府機関に納めることとされたという。)

 

 鶴嶋雪嶺の『〔研究ノート〕南朝鮮においてアメリカ軍政庁が行った土地改革に関する評価について』(「關西大学經濟論集27‐2」1977)によれば、

 「…軍政庁は12月6日付の法令『日本人財産取得に関する件』を公布して旧日本人所有のいっさいの公私財産を接収するとともに、土地所有権が変更なしに維持されること、小作人は無条件に地主に小作料を支払うべきことを宣言し、南朝鮮での植民地的、半封建的土地所有制度を維持する意図を明らかにした。/8・15解放直後から、南朝鮮農民の間では、土地と自由を要求し、小作料不払い運動を展開するなど、広範な農民運動が急速に進展していた。アメリカ軍占領者はこの運動をおさえ、なだめるために、1945年10月5日付の法令『最高小作料決定に関する件』を公布して小作料を収穫高の三分の一に引き下げる命令を出した。(中略)同法令はまた、形式的に小作契約の一方的解除を禁ずることをうたったが、これは『小作権保護』の名のもとに、解放前からの小作制度を維持温存しようとする意図を示したものであった。」とある。

 

 同時期の北朝鮮においても土地改革が進められた。1945年10月10日、共産党創立大会において、「土地問題に関する決議」がなされた。日本人地主と親日的反動地主の土地を没収し、収穫の取り分を「地主3割、小作7割」にするという三・七制が開始されたのだ。

 金日成曰く、「農民の利益を擁護し、彼らを獲得するためには、小作料を減免する戦いから始めて日本帝国主義とその手先どもの土地を没収する戦いを進めながらしだいにすべて地主の土地を没収して農民に分け与える闘争を繰り広げなければなりません。」

 北朝鮮では1946年2月の臨時人民委員会において委員長金日成から土地の国有化と小作制度全廃、無償土地分配が提示され、3月に法制化、実施された。

 

 北朝鮮における土地改革は南よりも急進的だったが、8月15日以降、米軍進駐までの間には、南においても同様な方向に進んでいたようだ。鶴嶋『南朝鮮におけるアメリカ軍政と土地改革』(「關西大学經濟論集26‐6」1977)によれば、

 「アメリカ軍が1945年9月8日に仁川に上陸した時には、すでに、朝鮮人民共和国政府とその地方機関である人民委員会のもとで、厳しい攻撃が、地主制度にたいして行われていた。日本の植民地支配が地主制を基礎にして行われただけに、日本からの解放が、多くの朝鮮人にとっては、地主制からの解放につながるものと思われたからである。朝鮮人民共和国のもとで、人民委員会は、地主を投獄し始めた。これは、小作農から、広い共感をえた。人民共和国政府は小作農に対して次のようにつげていた。/地主の土地は、無条件もしくは条件付きで、もしくはごくわずかの補償付きで没収され、この土地が農民に無償で与えられるだろう。/小作制度の機構と合法性が掘り崩され、改革の機運が進行中であった。」という。

 ここでいう「朝鮮人民共和国」は、米軍進駐直前の9月6日、建国準備委員会の呂運亨らが(各地人民委員会の)全国代表者会議において決議した「朝鮮人民共和国臨時組織法」によるものであるから、引用にあるような行動が「共和国」名で組織的にできていたかは疑問であるが、各地の人民委員会がそれぞれ独自に過激な行動をしていたのは事実だろう。しかし、米軍政庁は10月10日、軍政長官アーノルドの声明を出し「朝鮮人民共和国」を否認している。

 

 さて、地主はどんな罪を犯し、どんな法律に従って投獄されたのか? これは法律以前の「革命」であり、地主・資本家は共産主義のいう「人民の敵」「階級の敵」とみなされたのであろう。これは米軍政庁の人々には無法状態と映ったであろう。

 

 

 対日平和条約と戦争賠償

 朝鮮銀行日本銀行は切り離され、日本人の預金は送金できなかった。さらに、帰国に際して持ち帰ることのできる金額は一千円とされた。遡って8月9日以降、日本人の私的預金、不動産は、その所有権を米軍政に奪われた。

 対日平和条約第14条では、連合国は連合国内にある日本国および日本国民の財産を没収して戦争による被害の賠償に充当できると定められている。(最後に対日講和条約本文を載せます。)

 

 日本人地主(大地主、農場所有者)はすべての田畑を失った。しかし、その田畑の耕作に当たっていた小作人は、継続して農作業をしていただろう。あるいは旧地主から安く買い取った場合もあったろう。しかし、それも8月9日以降の売買であれば無効にされた(強奪や不法占拠のような場合も無効にされたのだろうか)。次のハンギョレの記事を参照。

日本の敗戦後、日本人の財産は米軍政に帰属…韓国憲法裁が「合憲」初判断 : 政治•社会 : hankyoreh japan (hani.co.kr)

 「韓国の憲法裁判所は、日帝強占期(日本の植民地時代)に朝鮮半島において日本人が所有していた財産を、日本の敗戦後に米軍政に帰属させた法令に対して、合憲との決定を下した。解放政局における日本人所有財産の処分問題を扱った憲法裁の初の判断だ。(中略)

  A氏が落札した土地の元の所有者のK氏は、1945年8月10日に在朝鮮日本人からその土地を購入したが、これは米軍政庁法令に反する行為だった。同法令は、1945年8月9日をもって日本人が所有する財産に関する取引はすべて無効とし、日本人が所有・管理していた財産は、すべて米軍政庁に帰属すると規定している。K氏は1945年9月に所有権登記移転を終えているが、8月9日の時点で日本人の所有だったため、取引が禁止される帰属財産だったわけだ。A氏は、米軍政庁の法令が1945年9月25日に公布されたにもかかわらず、8月9日をすべての取り引きの無効の基準とすることは遡及立法禁止に反し、韓国人が日本人から取得した財産まで没収することは過剰禁止原則に反すると主張した。(中略)

  しかし憲法裁は、重大な「公益上の事由」があれば、遡及立法は正当だと判断した。憲法裁は「違法な韓日併合条約により、日本人が朝鮮で蓄積した財産を保全し移譲するという公益は、朝鮮半島内の私有財産を処分し、日本本土に撤収しようとしていた在朝鮮日本人や、彼らから財産を買収した人たちに対する信頼保護要請よりもはるかに重大だ」と説明した。違法に蓄積した財産を還収し、これを大韓民国に返すことの方が、当時日本人や彼らと取引した人々の財産権保護よりも重要だと考えたわけだ。」

 韓国語原文入力:2021-02-03 13:12

 

 そして5年後に始まる朝鮮戦争の間は、北朝鮮の占領下になれば一切が無効とされ、土地売買契約や融資の証文は廃棄され、新たな土地配分がなされた。それがまた南朝鮮支配下にもどった場合、過去の売買や契約は回復されたのか? 回復されたとして、その根拠は何に依ったのか? その当時の状況、実態は「混乱」という言葉以外想像できない。

 

 大韓民国との交渉

 サンフランシスコ講和条約の署名国でない韓国との間にある、帰属財産の請求権放棄問題については、日韓の国交回復交渉でさんざん論議が繰り返された(13年間)。その経緯は、今は詳しく公表されている。韓国側の主張は、まず韓国併合は違法で無効であり、ひとえに、上海にあった臨時政府は大韓帝国を継承し朝鮮人民を代表しており、韓国は対日戦争に加わった連合国の一員である。即ち大韓民国戦勝国であるという認識を確立したいところから発している。経緯については論文「第1次日韓会談における「旧条約無効問題」について」(藤井賢二)を参照させていただきました。AA112829850150007.pdf (hyogo-u.ac.jp)

 そこから、「敵産」という言葉が使われているのだ。

 韓国の認識では、韓国は支配者日本の敗戦によって独立したのだから、他の植民地、たとえば英国とインドの場合のように、両者合意の下に独立したのとは違う。インドはイギリス連邦に留まっている。そこで宗主国の財産が保護されたのとは比べることができないという考えである。

 しかし、当時の朝鮮人の内何人が臨時政府の存在を知っていて、それを亡命政権と認識し、支持し期待していただろうか。国家としての正統性があるのかも疑問である。

 

 一般に、併合された国が独立した場合、旧併合国の財産はどのように処分されるのが通例であったか。それに比して日本と朝鮮の場合はどうだったか、二つの例をざっと見てみよう。

 

 ポーランドとドイツの関係に似ている面がある。古の大国ポーランドは弱体化すると隣国によって分割され消滅した。第一次大戦後、ベルサイユ条約により独立したが、独ソ不可侵条約の秘密条項に依りまた分割される。第二次大戦後、ソ連圏で独立したが、ソ連の指導により旧東ドイツとの間で請求権放棄協定がなされた。その後統一ドイツ、ポーランド共にEUNATO加盟国となっている現在、ポーランドから、請求権放棄はソ連の圧力によるものだったと賠償請求の声が上がっている。ナチスによる被害には倫理的にも償いが必要だという感じだ。一方ドイツでも、大戦後に旧領地から追放されたドイツ人の財産補償請求の声があるとか。

 

 植民地からの独立では、インドネシアとオランダの関係が参考になるか。300年間の植民地支配から日本軍により解放され、日本軍政下、母国語が公用語になり、末期には独立も約束された。日本敗戦後、一時独立したインドネシア共和国に、旧宗主国は再び戻ってきた(オランダ本国自身、大戦中はドイツから支配されていたわけだが)。オランダの傀儡国(島)を含めた連邦共和国の構想に反発したインドネシアはオランダ軍(始め英印軍)と戦って完全な独立を果たした。オランダの財産は接収されたとか。その後、独立以前の負債は(踏み倒さずに)オランダに償還されたようだ。

 

 

 

 対日講和条約 第14条

 下のサイトから引用させていただきました。

対訳 サンフランシスコ平和条約 (chukai.ne.jp)

Chapter V 第五章
Claims And Property 請求権及び財産
Article 14 第十四条

(a) It is recognized that Japan should pay reparations to the Allied Powers for the damage and suffering caused by it during the war.
日本国は、戦争中に生じさせた損害及び苦痛に対して、連合国に賠償を支払うべきことが承認される。

Nevertheless it is also recognized that the resources of Japan are not presently sufficient, if it is to maintain a viable economy, to make complete reparation for all such damage and suffering and at the same time meet its other obligations.
しかし、また、存立可能な経済を維持すべきものとすれば、日本国の資源は、日本国がすべての前記の損害及び苦痛に対して完全な賠償を行い且つ同時に他の債務を履行するためには現在充分でないことが承認される。

Therefore,
よつて、

1. Japan will promptly enter into negotiations with Allied Powers so desiring, whose present territories were occupied by Japanese forces and damaged by Japan, with a view to assisting to compensate those countries for the cost of repairing the damage done, by making available the services of the Japanese people in production, salvaging and other work for the Allied Powers in question.
1 日本国は、現在の領域が日本国軍隊によつて占領され、且つ、日本国によつて損害を与えられた連合国が希望するときは、生産、沈船引揚げその他の作業における日本人の役務を当該連合国の利用に供することによつて、与えた損害を修復する費用をこれらの国に補償することに資するために、当該連合国とすみやかに交渉を開始するものとする

Such arrangements shall avoid the imposition of additional liabilities on other Allied Powers, and, where the manufacturing of raw materials is called for, they shall be supplied by the Allied Powers in question, so as not to throw any foreign exchange burden upon Japan.
その取極は、他の連合国に追加負担を課することを避けなければならない。また、原材料からの製造が必要とされる場合には、外国為替上の負担を日本国に課さないために、原材料は、当該連合国が供給しなければならない。

2. (I) Subject to the provisions of subparagraph (II) below, each of the Allied Powers shall have the right to seize, retain, liquidate or otherwise dispose of all property, rights and interests of (a) Japan and Japanese nationals, (b) persons acting for or on behalf of Japan or Japanese nationals, and (c) entities owned or controlled by Japan or Japanese nationals, which on the first coming into force of the present Treaty were subject to its jurisdiction.
2(I) 次の(II)の規定を留保して、各連合国は、次に掲げるもののすべての財産、権利及び利益でこの条約の最初の効力発生の時にその管轄の下にあるもの差し押え留置し、清算し、その他何らかの方法で処分する権利を有する。(a)日本国及び日本国民、(b)日本国又は日本国民の代理者又は代行者、並びに(c)日本国又は日本国民が所有し、又は支配した団体

The property, rights and interests specified in this subparagraph shall include those now blocked, vested or in the possession or under the control of enemy property authorities of Allied Powers, which belong to, or were held or managed on behalf of, any of the persons or entities mentioned in (a), (b) or (c) above at the time such assets came under the controls of such authorities.
この(I)に明記する財産、権利及び利益は、現に、封鎖され、若しくは所属を変じており、又は連合国の敵産管理当局の占有若しくは管理に係るもの、これらの資産が当該当局の管理の下におかれた時に前記の(a)、(b)又は(c)に掲げるいずれかの人又は団体に属し、又はこれらのために保有され、若しくは管理されていたものを含む。

(II) The following shall be excepted from the right specified in subparagraph (I) above:
(II) 次のものは、前記の(I)に明記する権利から除く。

(i) property of Japanese natural persons who during the war resided with the permission of the Government concerned in the territory of one of the Allied Powers, other than territory occupied by Japan, except property subjected to restrictions during the war and not released from such restrictions as of the date of the first coming into force of the present Treaty;
(i) 日本国が占領した領域以外の連合国の一国の領域に当該政府の許可を得て戦争中に居住した日本の自然人の財産。但し、戦争中に制限を課され、且つ、この条約の最初の効力発生の日にこの制限を解除されない財産を除く。

(ii) all real property, furniture and fixtures owned by the Government of Japan and used for diplomatic or consular purposes, and all personal furniture and furnishings and other private property not of an investment nature which was normally necessary for the carrying out of diplomatic and consular functions, owned by Japanese diplomatic and consular personnel;
(ii) 日本国政府が所有し、且つ、外交目的又は領事目的に使用されたすべての不動産、家具及び備品並びに日本国の外交職員又は領事職員が所有したすべての個人の家具及び用具類その他の投資的性質をもたない私有財産で外交機能又は領事機能の遂行に通常必要であったもの

(iii) property belonging to religious bodies or private charitable institutions and used exclusively for religious or charitable purposes;
(iii) 宗教団体又は私的慈善団体に属し、且つ、もつぱら宗教又は慈善の目的に使用した財産

(iv) property, rights and interests which have come within its jurisdiction in consequence of the resumption of trade and financial relations subsequent to 2 September 1945, between the country concerned and Japan, except such as have resulted from transactions contrary to the laws of the Allied Power concerned;
(iv) 関係国と日本国との間における千九百四十五年九月二日後の貿易及び金融の関係の再開の結果として日本国の管轄内にはいつた財産、権利及び利益。但し、当該連合国の法律に反する取引から生じたものを除く。

(v) obligations of Japan or Japanese nationals, any right, title or interest in tangible property located in Japan, interests in enterprises organized under the laws of Japan, or any paper evidence thereof; provided that this exception shall only apply to obligations of Japan and its nationals expressed in Japanese currency.
(v) 日本国若しくは日本国民の債務、日本国に所在する有体財産に関する権利、権原若しくは利益、日本国の法律に基いて組織された企業に関する利益又はこれらについての証書。但し、この例外は、日本国の通貨で表示された日本国及びその国民の債務にのみ適用する。

(III) Property referred to in exceptions (i) through (v) above shall be returned subject to reasonable expenses for its preservation and administration.
(III) 前記の例外(i)から(v)までに掲げる財産は、その保存及び管理のために要した合理的な費用が支払われることを条件として、返還しなければならない。
If any such property has been liquidated the proceeds shall be returned instead.
これらの財産が清算されているときは、代わりに売得金を返還しなければならない。

(IV) The right to seize, retain, liquidate or otherwise dispose of property as provided in subparagraph (I) above shall be exercised in accordance with the laws of the Allied Power concerned, and the owner shall have only such rights as may be given him by those laws.
(IV) 前記の(I)に規定する日本財産を差し押え、留置し、清算し、その他何らかの方法で処分する権利は、当該連合国の法律に従つて行使され、所有者は、これらの法律によつて与えられる権利のみを有する。

(V) The Allied Powers agree to deal with Japanese trademarks and literary and artistic property rights on a basis as favorable to Japan as circumstances ruling in each country will permit.
(V) 連合国は、日本の商標並びに文学的及び美術的著作権を各国の一般的事情が許す限り日本国に有利に取り扱うことに同意する。

(b) Except as otherwise provided in the present Treaty, the Allied Powers waive all reparations claims of the Allied Powers, other claims of the Allied Powers and their nationals arising out of any actions taken by Japan and its nationals in the course of the prosecution of the war, and claims of the Allied Powers for direct military costs of occupation.
(b) この条約に別段の定がある場合を除き、連合国は、連合国のすべての賠償請求権、戦争の遂行中に日本国及びその国民がとつた行動から生じた連合国及びその国民の他の請求権並びに占領の直接軍事費に関する連合国の請求権を放棄する

1945年8月15日以降の韓国における農地改革(朝鮮における土地制度の変遷)番外6

防穀令 1890(明治23年) 

 岩波新書『近代日本と朝鮮』趙景達(2012)より

 第5章「一八八五年になると、韓国人以外の外国人にも内地旅行が許可されたため、日本商人は生産地に出向いて米の買い付けを行うようになった。その結果、春に出向いて買い付け、秋に入手するという青田買いが横行した。米穀取引はますます投機性を強めていき、貧農民を苦しめた。八五~八九年は凶作であったため輸出量は少なかった(21,472円と54,394円)が、九〇年には前年に比べ、いきなり四七倍ほど(2,540,652円)に跳ね上がっている。」輸出額の高騰は92年まで続いた。これに対して「一八八九年秋に咸鏡道観察使趙秉式が発した防穀令は有名である。

 

 上記の部分が気になったので少し調べてみた。

 防穀令は、大韓帝国以前から朝鮮国内各地域で行われていた救荒対策であったが、産地(農村)を保護すれば他方で消費地(都市)が困窮するという難題もあった。これが開港後の国際貿易でも問題になることが予想されたため、防穀令についての協定が結ばれていた(日朝修好条規? 在朝鮮国日本人民通商章程?)という。すなわち、発令の1ヶ月前には予告するということである。しかし、上記の咸鏡道の場合などは大豆禁輸についての予告が遅れ、日本商人に損害(春に貸付けた金が回収できない)が出た。その賠償問題がこじれて長引いたのだ。何故遅れたのかは未詳だが、日本側の強硬さと地方官吏が協定を熟知していなかった面とがあるのではないか(参考にしたサイトは最後に載せてあります)。

 

 上記の「米輸出額47倍」についてだが、同時代の塩川一太郎『朝鮮通商事情』(明治28.1)によれば、朝鮮からの米輸出額は、明治22年(1889)が77,578弗、23年(1890)が3,550,478弗、24年(1891)が3,366,344弗、25年(1892)が2,443,739弗となっている。明治23年の米輸出額(㌦)は22年の26.3倍である。この47倍と26倍の違いは何によるのか? 円ドルのレートが関係するのか? 当時は1㌦≓1円ではなかったか? (塩川同書中の別表ではこの数値が全く違うが、単位が違うだけなのか、理由は不明。別表23年874,665。24年928,010。別表25年、487,601。単位不詳、印刷が潰れていて読み取れない。)

 

 当時の日本では米が輸出商品であり、豊作が続いたこともあって、1888・89年には20万トンをヨーロッパに輸出していた。しかし、人口の増加、都市住民の米食普及などにより、91年以降は生産量を消費量が上回り、良質米の輸出を続けながら食糧輸入もせざるを得なくなっていた。

 

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 1885~89年の朝鮮は凶作だったというが、1890年は『朝鮮通商事情』によれば豊作だった。一方日本では、89年に暴風雨による水害で収穫量が前三か年平均の85%まで落ち込むと、米価が高騰し、翌年には不足分を補うため193万石(約29万トン)の米を輸入することになった。ただ、これがすべて朝鮮米だったわけではなく、1930年代に100万トンを超える量を輸入していたのに比すれば、数万トン規模の微々たる量であり、29万トンの数分の一の量だった。

 

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 凶作で米不足になれば米価は暴騰する。金額で47倍(あるいは26倍)という数値が出ているが、輸出量の増大の実態(㌧数量)は金額に比例せず、それほど激しいものではなかったかもしれない。趙景達は輸出量(石、㌧)と輸出額(円、㌦)を明らかに分けていないので分かりにくい。日本側の一方的な搾取の一例というニュアンスが感じられるが、要は、旧来の問題が未整理のまま国際市場へ開かれた時点で顕在化した「事件」だったのだろう。

 大蔵省の統計グラフでみると、日本への外国米の輸入は、明治23年(1890)に29万トンであったが、翌年には三分の一程度に減り、翌々年にはさらにその半分程度になった。その中で朝鮮米は1890・91年にほぼ同量輸入されている。外米の産地が朝鮮、中国、台湾、東南アジアに限られるため、それらの地域の作況によって輸入先や輸入量は大きく変動するのだろう。

 併合後の輸出増大(米騒動、産米増殖運動による)のはるか前の話である。

 

 下記のサイトを参考にし、引用もさせていただきました。

その3:お米の自給率:農林水産省 (maff.go.jp)

日清戦争前の朝鮮の状況③ 日朝貿易と防穀令事件 反日感情を高めた問題行動 (sinojapanesewar1894.com)

日中韓近代史の復習問題/『現在の米中・米朝・日韓の対立のルーツとしての中国・韓国の外交詐術は変わらない』★『記事再録/日本リーダーパワー史(705) 『日清戦争の引き金の1つとなった防穀令事件 <1889年(明治22)>』★『最後の最後の最後まで、引き延ばし、拒否戦術で相手をじらし土壇場にならないと妥協しないのは中国/朝鮮側の常套手段』 | 前坂俊之オフィシャルウェブサイト (maesaka-toshiyuki.com)

小野田才助と酒田大仏 小野田商店と長谷川家

 このところ、母方の家系をさかのぼって調べる作業にかかっていた。母方長谷川家の関係で、現在も銅町で鋳造所を営む、はとこにあたる方から、小野田才助についても話を聞いた。

 小野田才助(弘化三年1846生)は江戸時代から続く鋳物師小野田平左エ門家の人で、八代目の二男である。本家を助け家業の更なる隆盛を招いた人である。全国に多数の作品が残っている。讃岐の金毘羅様と金華山と山寺に同形の大燈籠が残っているが、これは才助と銅町の職人たちが力を合わせて作ったものである。鋳造とは思われない、彫刻のような緻密な装飾、リアルな人物像などの作品も多い。この家系からは小野田高節(帝展無鑑査)も出ている。

 名工小野田才助の晩年に近い大作に酒田大仏がある。酒田市日吉町良茂山 持地院にある釈迦牟尼立像で、三丈五尺(10.6㍍)ある。台座を含めると17㍍という、日本一の銅製鋳造仏である。写真横に書かれた「明治四十五年(1912)五月」にほぼ完成したようだ。しかし、現地の説明書きによると大正3年(1914)に開眼法要を行ったとある。完成から法要まで2年もかかるのは少々不審なので、大正2年が正しいのではないかとも思う。この大仏建立を発願した住職の、なみなみならぬ決意と苦労が伝えられているが、惜しくも戦時金属供出によって昭和18年に失われてしまった。現在ある像は平成4年(1992)に再建されたものであり、銅町の職人は係わっていないようだ。

 

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  足下の人物と比較するとその大きさが実感できる。屋根は開眼法要までかけてあったようだ。

 

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           在りし日の酒田大仏 台座よりの高さ五丈(光背込みか)

 

 なお、小野田才助はこの巨大仏像の見積りに失敗し、大赤字となって家運を傾けたと伝わっている。だが、この大仏建立発願の経緯を知れば、彼が意気に感じ、商売抜きで協力した面があるのではないかとも考えられる。

 この大仏製作には才助の甥たちが協力したと言うから、自分の曾祖父長谷川長兵衛(小野田平治郎)も手伝ったのだろう。

 大正4年の写真で、才助と思われる老人が職人たちと出荷前の一対の燈籠とともに写っているものがあるが、彼はこの年に亡くなっている。「やまがた散歩」8号(1973)に掲載された木村重道氏(当時山形美術博物館学芸員)の「小野田才助 鋳物師の記録」には「この大仏の大きな見積りのミスが結局、彼の経営者としての一生一度の失敗となって、大仏鋳造中途で病死してしまった。ときに大正四年、数え年七十歳であった」とあるが、写真の人物が才助ならば、実際は完成の後まで健在であったことになる。

 小野田家はやがて明治以来買い集めた近隣の土地を売り、店(商売先含め)は長谷川甚太郎(丸ゐ)に譲ったようだ(あるいは長谷川家が買い受けたのかも知れない)。その後、次代が「マルイ鋳造所」に改称して現在に至る。なお創業は大正6年(1917)とされているから、才助没後2年にして小野田の工場を引継いだとみられる。『幻の梵鐘』によると、大正5、6年にも才助名の梵鐘があるから、この間、才助が生前に引受けた仕事を、甚吉や甚太郎が小野田の職人とともに完成させたものと思われる。

 甚吉は大正10年に金華山の燈籠を「小野田商店 長谷川甚吉」名で修復し、甚太郎は大正13年に現在地に分家している。甚太郎は本家の兄甚吉(丸井)と共に「小野田商店」の名で商売を行ったようだ。当時の「小野田商店」スタンプで、共通のデザインで名前だけ(長谷川甚吉と甚太郎)違っているものがある。兄弟で一つの有名ブランドを受け継ぎ、共有したということになる(丸井長谷川と併存していたのだろう)。小野田の名を継ぐことは晩年の才助から四代目長兵衛に託されていたことなのかも知れない。

 長谷川兄弟の父、四代目長兵衛(幼名平治郎)は、九代目小野田平左エ門の二男で、婿養子である。また、母は寺津の大木勘十郎家から養女として迎えられた人であり、結局、長谷川の血筋(おそらく江戸時代に銅町の組頭を務めた長谷川甚六の分家)は断絶して、銅町小野田家を継いでいるとも言える。

 小野田本家は関東に移り、やはり金属関係の仕事をしているとのことである。

 (21日22日29日、追記と訂正)

 (1月16日加筆修正)

 

 後日記 

 山形市銅町(鋳物町)鈴木鋳造所が平成30年(2018)に高さ12㍍(台座込み18㍍)の釈迦如来座像を鋳造している。東京都西多摩郡日の出町の宝光寺にある鹿野大仏である。3年をかけ200個以上の部品を溶接して完成したという。

 なお、鎌倉の大仏は高さ11.3㍍(台座込み13.35㍍)、奈良東大寺の大仏の高さは14.7㍍のようである。

 

1945年8月15日以降の韓国における農地改革(朝鮮における土地制度の変遷)その22

 南北分断占領初期の南朝鮮における食糧事情

 

 1945年8月15日以降、南北に分断されたそれぞれの地域の耕作地面積は正確にはわからない。今、昭和17年末の総督府統計の道別面積で、江原道の水田面積の三分の一を北に、三分の二を南に入れる便宜的方法で計算してみた。

 南朝鮮の水田面積は127~128万町歩、北朝鮮の水田面積はおおよそ46万町歩ほどで、南は北の2.7~2.8倍になる。南北のおおよその人口比3:2からみても南朝鮮の水田面積が圧倒している。一方、畑の面積では南が97万町歩、北が169万町歩と逆転している。気候など地理的条件からそうなるのは当然である。

 それぞれの灌漑水田面積を見ると、昭和17年度末では北朝鮮各道の水田は8~9割が灌漑田だった。だから反当り収量という点では南北に差はないとみてよいだろう。

 

 この状況で南北に分かれたことで、北朝鮮には雑穀類はあっても南からの輸送が途絶えたため、米の不足が生じただろう。ソ連軍は占領地区から米を徴収するが、アメリカ軍に対して南からの米の移送を要求している。アメリカは断っている。

 

 軍政長官アーノルド少将は、11月13日に記者団との意見交換で、「北朝鮮としては南朝鮮の食糧が必要であり、南朝鮮としては北朝鮮の石炭、食塩、大豆等が入用であるからバーター制に依って一箇月二万噸の石炭、食塩、大豆と食料とを交換するつもりで、これは収穫が済んだら実施されるであろう。」と述べている。これは南北の交通輸送路が遮断されて実現しなかった。

 

 当時、総督府総務課長だった山名酒喜男氏の『朝鮮総督府終政の記録』(1945)には、「今年度の米産高は三十八度以南だけで一千六百万石、雑穀一千万石、都合二千六百万石であるが、一般人民の消費高が二千一百二十万石で、四百五十万石は余剰となるのである。/これを農民は米價騰貴のみを待つことなく、軍政庁当局に売るようにするつもりである。/今年は豊年だから米價がもつと髙くなる見込みはない。農民たちは後で米價が上がらなければ失敗である。この剰余物を日本に輸出し、日用品を買入れたらよい。」とある。

 総督府アメリカ軍への要望として8月25日の段階でまとめていた13項目の中に、

 「五、端境期食糧窮迫し、鮮内治安にも影響あるものと考えらるるに付、速急、満洲よりの雑穀輸入を配慮せらるるの要ありと思料す。/塩を北支及び関東州より輸入するに就いても同様なり。六、朝鮮内の産業の中で、石炭業、液体燃料、電力等の事業並びに國民衣料の繊維産業等の確保は民生確保上、絶対的に必要に付、之が引続いての操業(継続)に便宜を与えらるることを希望す。…中略…九、貴軍の部隊を輸送し、日本軍を撤収せしめ、内地に帰る婦女子等を輸送し、又食糧を配給する為に必要なる鉄道を運転するに使用する石炭は絶対に確保を要するが、現在、其の貯蔵量が極めて僅少なるに付、早く満洲及び北支より輸入することを配慮せらるることを希望す。」とある。後に軍政長官アーノルドの話した内容と一緒である。

 8月26日には進駐軍への対応として12項目が考えられた。一部抜粋すると、

 「(一)ト、独逸に於ける例を見るに、独人の生活に就いては殆ど顧みらるる所なきが如し。当方面に於いても亦然りとせば、先方に対する要求を要求とし、別に何等か手段を講ぜざるべからず。之は一刻も速に、予備的に実行し、少なくとも京城、釜山、麗水、木浦等には出来るたけ食糧、衣料の集積に努力せざる可らず。農商、交通、両局の此處一両日間の大奮闘を要望せざるを得ず。…中略…(二)ホ、内地側の意向は朝鮮の事情如何に拘わらず、内地人の内地帰還を阻止せんとする希望ありと察せらる。然るとき、総督府が保護の責任を有する以上は、帰還希望者を無理に抑止し、不測の災害を蒙らしむること能わず。/尚、内地に在る多数朝鮮人と交換的のことを考うるとき、少くとも内地帰還希望者位の鮮人は半島へ自然に帰らしめ得るものと考えらる。此の点、内地当局再省を要す。」

 当時、半島には80万人、その内南朝鮮には55万人の日本人(軍は除く)がいた。総督府首脳は、先に降伏したドイツ国民の置かれた孤立無援の状況を知っており、日本人保護に奔走する。一方、日本本土でも空襲被害と多数の帰還兵から食糧事情は最悪で、半島からの帰還は迷惑だったのだろう。しかし、本土の朝鮮人は先を争って半島に帰ったので、その分は交換のように内地へ帰国できるという見込みだったのだ。

 

 同じく『終政の記録』から8月末の食糧事情を垣間見ると、

 「八月末より九月中に於ける鮮内食糧事情は最も急迫したるが、鮮内全般に亘る麦作の不況、満洲雑穀の搬入不円滑等に依り、食糧需給計画は幾度か変更を余儀なくさせられたり。即ち、九月末迠は鮮内各地の食糧を極度に操作して需給を調整し、十月に至らば早場米の大量喰込みを計画せるが、食糧の操作に当るべき各地行政機関の末端部は、八月末迠の間に於いて機能を喪失し、輸送は停止し、倉庫は接収せられる等の悲運に直面せるを以って、京城府内に於いては非常備蓄米を使用し、蓋し、又、軍隊の出動に依りて近郊より強行搬入する等の非常措置に出でたるも、後に至るや皇軍将兵朝鮮人の反抗を怖れて米の搬出をも為し得ざるに至れり。/依って食糧営団よりは、一日一合八勺の配給に変更の提案をも見たる次第なるが、兎も角にも事態を切り抜けたるは身体の安全感を脅やかさるる治安状況となり、如何なる食糧にても我慢を要すとの覚悟を各人に持たしめたるに由るものなり。」

 一日1合8勺という量は、戦時配給制度の2合3勺(末期は2合1勺)に比べても少ない。

 当初、アメリカ軍政庁は米の売買を自由市場にまかせていたが、その結果としてのインフレの激化、米価の高騰により、12月19日一般告示6号で米穀収集令を公布した(米穀の統制を10月5日に告示5号で廃止していたもの)。こうして、日本軍が行ったような米麦の強制供出が繰り返されたが、供出価格と時価との隔たりによって、供出農家の所得減を招いた。これによる生活困窮に対しては、アメリカから日用品を輸入して援助した。

 軍政庁は、1945年の(南朝鮮)米生産高約1,285万石の内、551万石(42.9%)を供出目標としたが、実績は68万石(5.4%)に過ぎなかった。しかもこれには日本人地主のもとにあった小作料の米約10万石と日本軍用米(量不詳)が含まれていた。いかに供出が嫌われ、応ぜられなかったかがわかる。農民は現金収入を得るため、少しでも高く売れる方に、売れるだけ売る(これは総督府が行った産米増殖運動の中でも見られたことだろう)。

 米の生産高が、山名氏の概算1,600万石から1,285万石に300万石以上減っているが、それは既に収穫期を過ぎて、アメリカ軍政庁が対応した12月までには売買され、農家から流出してしまった分であったろう。

漢劇WARRIORS 「トリプティク」

黒木あるじ×漢劇WARRIORS公演

 「あるじかんげきGong2021 トリプティク

2021年11月27日(土)14:00開演 山形市中央公民館6階大ホール

新型コロナ感染対策の続く中、半券への記名、マスク着用で観劇。座席を一つ空ける必要はない。

 

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 結構な入りである。従来の漢劇公演とはまた少し客層が違っている感じだが、これはこの公演が、作家黒木あるじ氏とのコラボであるためだろう。

 「トリプティク」とあるように、3篇の短編で構成されている。「トリプティク(三連画)」というタイトルや、各話の英語タイトルから、何らかの「選択と決断」が共通するテーマとされているようである。が、関連性を意識しなくても観られた。第一話はコント様、第二話がドラマ的、第三話が時代物SFという感じである。

 

第一話 Choice

 昔(漢劇メンバー在校以前)、山形南高映演部が「塩原町長選挙」という作品を上演したことがある。過疎化しているこの町では、伝統的に調味料は地元産の塩しか用いない。この村で町長選挙をするのだが、ほかの地域と同じように納豆には醤油をかけようという者が対抗馬として立候補する。確か、現職と新人は父子である。あれ?ソース派もいたかな? それを思い出していた。

 ユーチューバーになりたい引籠り青年が、住民二人だけという限界集落に撮影にやって来る。村の住人は爺さん二人。この二人が村長を争うのだが、投票する村民がいない。そこで青年を捕まえ投票を強制する。やがて当惑していた青年も自ら立候補し、新たな訪問者を生け捕って村民にしようとする、シュールなコント風の話である。

 

第二話 Select

 О.ヘンリーの作品を思わせる。あるいは「岸部露伴は動かない」か…。

 そのレストランは、「読書のスープ」というのが唯一のメニューであり、飲む者の心に様々な心象風景、小説の一場面を感じさせることで有名になっている。ある日、ウエイターは偶然のことから、そのスープの秘密を知ってしまう。

 一冊の本からページを破り取っては寸胴の中に入れているのだ。元々はシェフが読んで感激した小説(題名失念)。それを誤ってスープ鍋に落としてしまったとき、偶然にも素晴らしい味が生まれたのだ。食する者にその小説の内容が、味として現れてくるのだった。作品にこめられた作者の思いが移りこむのだろう、それほどの傑作なのだと信じられる。この辺は「失われた黄金酒」という作品を彷彿させる(Оヘンリーの作品と違うか?)が、ある日、一人の客が来てこのスープの味を「古い紙のようだ」と難じる。シェフはこの本とその作者を擁護するが、なんと、その客こそがその小説の作者だったのだ。何も大したことではなく、売れない日々に、なんとかして食べるだけの稼ぎを得ようと書いていたにすぎないと客は言う。「俺はお前の物語ではない。」

 筋書きとしては一番面白かった。ただ、売れない作家の描写が少し納得いかない。

これも昔だが、永島慎二という漫画家の「漫画家残酷物語」シリーズで、こんな作品があった。ある漫画家がすべてを犠牲にして、自分の理想とする作品を描きあげた。ところが、どこの出版社からも採用されず、絶望した漫画家は屋上から「さあ、俺がすべてをかけて描いた漫画だ、読め、読め。」と原稿を撒き、飛び降りる。何か月か後、道端に乞食となっている、足を失った漫画家。その前を親子連れが通り過ぎる。その子は小脇に漫画の本を抱えている。それはこの男の作品だった。「ああ、俺のが本に…」

 散乱する原稿を拾い集め、その作品のすばらしさに感嘆した出版社の社長がいたのだ。作者不明のその作品は世の多くの子供たちに読まれるのだった。

 スープの話。たとえ作者が不純な動機で書いた作品でも、たくさんの人がその味に感動した。決してシェフの独りよがりではなかった。そこに文学の秘密があるのだろう。自分の作品をパン絵のごとく見下げる作者にも、芸術家の心の欠片くらいはあるだろう。

あのセリフのままでも違う演技ができたかもしれない。自分の作品から出来たスープの味が、自分の、作品に対する態度そのものの苦いものだった。しかし、作品そのものには何かが宿って、作者以外のみんなに幸福感を感じさせた。その奇跡奇蹟には何も反応せず、ただシェフの思いを残酷に否定するのは少し違うのではないかなと思った。

 

休憩

 

第三話 Decide

 江戸時代の首切り浅右衛門にSFのタイムパラドックスを重ねたお話。ターミネーター?を浅右衛門がやっつけるという話。

 尾張家だったかの大名屋敷に忍び込んで若君の命を奪ったという犯人の首をはねるのだが、この時浅右衛門は、着流しの町奉行所同心らしき人物から、明日まで小塚原刑場に首を持ってこいと命じられる…。いや、斬首は小伝馬町牢屋敷で、検分役が付いて、非人が押さえつけて、穴の前で切るのではないか。浅右衛門の屋敷で切るわけではない。浅右衛門は正式な役人ではないが、お試しという刀剣鑑定の専門家で、ついでに斬首を(同心に代わって)行っている。同心にあごで使われるような関係ではない。まして、大名家の若君を殺害したとなれば、その犯人の裁きが町奉行所の管轄なのかも疑わしい。というように時代考証の部分で疑問を感じてしまった。

 

 話は、浅右衛門の前にもう一人の犯人と自称する男が現れることで混乱が生じる。どちらの首を切ればいいのか? 実は二人は同一人物で、ここにパラドックスが起きるわけだ。さて、浅右衛門は誰の首を晒すのか。

 この話だけ漢劇らしく殺陣が入っている。

 

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1945年8月15日以降の韓国における農地改革(朝鮮における土地制度の変遷)その21

 1945(昭和20)年8月の状況

 これまで朝鮮の土地制度について、日本統治時代から見てきた。いわゆる「土地の収奪」については、総督府の「土地調査」をもって文盲の農民から耕地を取り上げたというような言説は不正確であると言える。旧帝室所有地と荒蕪地を国有化し、その土地を耕作者(小作人)に対して有償分配している。土地調査は地主に対する課税を確定させるために必要なものだった。ただ、道路や鉄道、軍関係の土地収用令は強引さが見られ、恨みを買っただろう。

 戦時中は朝鮮にはほとんど空襲などの戦災がなく、内地人以外は末期まで徴兵されることもなく、本土に比べて平穏であった。

 戦後の部分について、あらためて資料を読み始めているが、去年プリントアウトした資料をもう忘れていて、重複して印刷したりしている。以下、土地、農地制度に入る前に、日本国朝鮮の大転換に直面した、当時の人達の状況を見てみたい。

 

 敗戦の受け止めと敗戦直後の治安

 1945(昭和20)年8月9日(金)にソ連が対日宣戦布告。満州に侵攻を開始する。日本は広島に続いて同日昼、長崎にも核攻撃を受け、万事休してポツダム宣言を受諾することになる。以下、ブルース・カミングスの『朝鮮戦争の起源』によると、朝鮮京城では同日から13日にかけて数回、日本人4人が宋鎮禹と会見。朝鮮の独立に備え、秩序を維持するための「行政委員会」のごときものを組織してくれないかと持ちかける。しかし宋は引き受けなかった。宋鎮禹は裕福な旧家の出で、明治大学で法律を学び、東亜日報社長となった人物である。

 日本はやむなく交渉相手を呂運亨に換え、15日早朝、政務総監遠藤柳作との会談が持たれる。呂は敗戦後の治安維持についての提案を受け入れるにあたり、①政治犯、経済班の即刻釈放、②3ヶ月間の食糧補給の保障、③治安維持と独立準備のための朝鮮人の活動に鑑賞しないこと、④学生の訓練と青年の組織に干渉しないこと、⑤労働者と農民を組織し訓練することに干渉しないことの5条件を飲ませた。

 呂はただちに安在鴻ら指導的立場の人物たちと相談し、「建国準備委員会(建準)」を組織する決定を行った。呂運亨は穏健左派の独立運動家。高麗共産党に入党したが、投獄された後は言論活動で名声を博していた(文京洙『新・韓国現代史』2015)。

 呂運亨は、日本の敗戦を見越して10日には地下組織「朝鮮建国同盟」を結成。11日には連合国軍に提出すべき四項目の合意書を作成している。日本人と宋鎮禹との交渉についても知ることがあっただろう。

 8月中に145の建国準備委員会支部が作られた。

 

 8月15日水曜日、朝鮮にいた一般内地人にとって玉音放送(不意の敗戦)は驚きでしかなかった。総督府官房総務部長だった山名酒喜男氏の手記『朝鮮総督府終政の記録(終戦前後に於ける朝鮮事情概要)』(1945)によれば次のような感想であった。

 「然れども日本人は従来、官の施策に順応して朝鮮を以て恰も、九州と呼び、四国と称うるが如く、又、朝鮮人皇民化すべく各方面とも努力し来りたるものにして此度の急変下、朝鮮が外國と為り、朝鮮人が外國人と為ることは夢想だにもせざりし處なるを以って、朝鮮人の八月十六日以降に於ける示威運動、接収行為、保安隊の蠢動等は痛く日本人の神経を刺戟せり。」

 「八月十五日、大詔煥発せらるるや内鮮人共に極度の衝撃を蒙り、一時は呆然たるものありしが、日本人側は一切を挙げて官の措置に俟つの態度を以って、冷静に推移せるが、朝鮮人側に於ては、停戦に依るポツダム共同宣言の受諾を見るときは朝鮮は直ちに日本より解放せられて独立するものなりと誤解し、終戦平和到来の安堵と朝鮮独立歓喜の情に興奮し、これに一部不穏分子の巧妙なる煽動あり、八月十六日、京城府内の目抜きの場所を中心として多衆民の街頭示威運動の展開せらるるに及べり。/即ち、米國旗と旧韓國旗の併掲の下、「朝鮮独立万才、連合軍歓迎」を呼号して多衆示威運動と為り、公的企業体の乗用車及びトラック等も運転手の朝鮮人なりしものはこの示威運動に参加し、恰も公的企業体自体、行列行進に参加せるが如き観を呈せり。」

 

 忠清北道警察部長だった坪井幸生氏の『ある朝鮮総督府警察官僚の回想』(2004)によれば、

 「総督府の政治情報の主管課は保安課であった。隣接の図書課には同期の村上正二事務官がいた。彼から八月十四日の夜に電話があり、明日の正午に終戦詔勅が出されるということを知らせてきた。」

 「八月十五日の早朝、単騎で(中略)知事官舎に行った。知事は鄭僑源(創氏名は烏川僑源)という高齢の朝鮮人であった。彼は、下級役人から叩き上げて知事になった老練の苦労人であった。これから起きるであろうことの予測を聞いて大変驚いたが、すぐにこれに対応する覚悟を固めたらしく、道当局としての処方策について真剣に考えるふうであった。」

 「私は知事と相談してつぎの事項を決めた。/第一に、治安維持には警察が全力で当たり、軍隊や憲兵は可能な限り出動を見合わせてもらうこと。大正八(1919)年の「万歳騒擾」のさいに鄭知事が体験したところによれば、軍隊や憲兵が出動したところは、例外なくその結果が悪かった。その轍を踏んではならないというのであった。」

 「(玉音放送後)知事は、あらためて全庁員を整列させて、声涙ともに下る悲壮な訓示をし、「こんなことになって残念だ。日本人と朝鮮人は助け合って、非常事態に対処しなければならぬ」と諭した。」

 

 江原道庁鉱工部鉱工課主任だった西川清氏の『朝鮮総督府官吏最後の証言』(2014)によれば、

 「地下で活動する人達には外国の情報が入ったのかも知れません。玉音放送の後、お昼過ぎには街で朝鮮の旗を振っていましたので随分と準備が早いなと不思議に思っていました。」

 「終戦前夜まで日本人と朝鮮人は上手く付き合ってきました。何故、この終戦を機にして朝鮮人が変わってしまったのかと思うと、やはり朝鮮人の中には内心、独立したいという希望があったからだと思います。/その思いがあったので朝鮮は日本と戦争はしていないけれども、日本の敗戦で一夜にして、「朝鮮は日本に勝った」とか「もう日本と同等だ」という気分になったのだと思います。/朝鮮は今まで日本と併合し、「これで朝鮮も日本と同じ一等国となった」と思っていたのに、今はその日本が戦争に負けて落ちぶれてしまったのです。朝鮮人は日本に対する反発というより、朝鮮人が伝統的に持たざるを得なかった事大主義の発想で、「もう戦争に負けた日本とは一緒にはやっていけない」と思い、すぐに考えを変えたのだと思います。/自分たちがこれから生き残る道として、朝鮮は独立して立派になってみせると考えたのだと思います。」

 

 これらの感想は日本人側からのもので、朝鮮人自身にとってはやはり「異民族支配からの解放」「独立回復」という意味での歓喜の方が強かっただろう。

 しかしそこから、「日帝の蛮行」を断罪する立場へと一変するのには、やはり飛躍があるように感じる。

 

 日本人にとってもっとも緊急な事は治安の維持であった。当時の日本人の心中には、尼港事件、霧社事件通州事件をはじめ、外地での日本人虐殺という恐ろしい事件の記憶があっただろうから無理もない。

 16日には京城市内でデモがあったが、日本側は規制しなかった。暴発を怖れ、ガス抜きのために黙認したのだ。また政治犯、経済犯が釈放された。その人数は1万6千人(京城だけで1万人)という。彼等は全国に散っていった。この時、

 「戦時中の政治犯及び経済事犯の囚人を終戦に伴い之を釋放するも差支えなしとの首脳者の許容ありしを、行刑当局の誤解乃至無力に依り、一般的囚人の騒擾あるや、之をも輕挙に釈放し、又は脱走せらるるの不祥事を惹起し、憂慮すべき事態に瀕せるを以って、軍隊の出動配置を求むると共に、軍と協議の上政治運動取締要領を策定し、軍官ともに、毅然たる態度を表明し、警察の取締活動を更に積極的ならしめたる結果、各地方の治安も漸次平静を回復するを得たり。」(『朝鮮総督府終政の記録』)

 

 夜には平壌神社が放火された。日本は朝鮮内各神社に昇霊式を行い、京城神宮は解体焼却する方針を決定した。

 16日から25日までの10日間に発生した朝鮮内の事故事件統計は、咸鏡南北道がソ連の侵攻により通信途絶で不明の他は下の如くであった。(『朝鮮総督府終政の記録』による)

  警察官署に対する襲撃、占據、接収、要求等     149件

  神祠、奉安殿に対する放火、破壊          136 

  朝鮮人警察官に対する暴行、脅迫、掠奪       111

  朝鮮人官公吏に対する暴行、脅迫、掠奪       109 

  郡、面其の他一般行政官庁に対する襲撃、占據、破壊  86

  内地人に対する暴行、掠奪、脅迫、其の他       80 

  内地人警察官に対する暴行、脅迫、掠奪等       66

  朝鮮人に対する暴行、掠奪、脅迫、其の他       60

 

  殺害(被害) 日本人  6件 警察官、学校長とその家族、無職

         朝鮮人 21  警察官、面職員と家族、訓導治安維持会員  

         支那人  1

  自殺     日本人 25件 警察官6、学校長3、訓導1、郵便局長1らと家族

  傷害     日本人  8件 警察官6、学校長、公吏

         朝鮮人 67  警察官40、面職員22、郡守、區長、保安隊員

  殴打・暴行  日本人 21件 警察官12、学校長4、邑長、医師、其の他

         朝鮮人 118  警察官67、面職員42、警防団員、看守、教員、

                運転手、其の他

 

 これらの被害状況から、民衆の鬱憤がどこに向かって吐出されたかは明確である。

 「朝鮮人の暴行は多くは朝鮮人たると日本人たるとを問わず、警察及び郡、面の官公吏を対象とせる個人的怨恨関係に依るものにして、戦時中民衆の最も苦痛としたる労務及び食糧の供出を繞る官の施策に対する反動と見得べく、この間に於て日鮮間の民族的抗争事件は無きことを察し得べし。」(『朝鮮総督府終政の記録』)

 

 総督府からの治安維持の要請を受けた呂運亨は、16日「建国青年治安隊」を結成。本部は京城の豊文女子中学校で、その後162の支部が各地に組織された。

 17日には除隊兵士等により「朝鮮国軍準備隊」が結成され、8月末には正式に決定された。6万人といわれる。

 こういった建準の動きに対して総督府側は、「元来の任務から逸脱したのは重大な過ち」と非難し、敵対視するようになった。

 「朝鮮建國の秩序ある進捗翼賛の為、鮮内治安の自治的協力機関として、呂運亨一派の活動を許容せる處、彼等は、「建国準備委員会」なる団体名称の下、其の機関活動の末端に於いて、往々、必要以上の権力行使を民衆に加え、殊に日本人に対し、威力を加うる事例の発生を見るや、一般日本人は恐怖心を湧起せしめ、結局、朝鮮人の徒党的暴力には黙従するを以って身体安全上得策とすべしとの氣運を発生せり。」(『朝鮮総督府終政の記録』)

 

 朝鮮人の保守派の中には、建準に対し治安維持にとどめるよう説得に来る者もいた。

 しかし、28日、建準は宣言文を発表。建準は挙国政府が樹立されるまでの暫定的過渡組織であって、挙国政府は各地の人民代表による全国会議で選出された人民委員会によって樹立されるとした。

 

 ソ連軍の侵攻と北朝鮮の状況

 一方、北朝鮮では、9日0時半より、咸鏡北道の国境近く雄基から羅津にかけて終日ソ連軍による空襲(爆撃、機銃掃射)があり、10日には羅津約2万人の一般人に退去命令が出された。越境侵攻したソ連軍は、15日までに雄基、羅津、清津と海岸沿いの港を南下、占領した。避難民は18日までに満州国境沿いの茂山に到着したが、集積していた物資を失い、食糧事情は厳しかった。

 21日、ソ連軍は元山港に上陸、日本軍を武装解除した。憲兵、警察官も武装解除され、それらの武器は民間の私設保安隊に引き渡された。

 平安南道ではチョ(曹の1画少ない字)晩植が15日に治安維持会を結成、17日には(呂運亨に応じて)平安南道建国準備委員会を開いた。しかし、同時に朝鮮共産党平南地区委員会も作られている。チョ晩植は五山学校の校長をしたキリスト教徒で、20年代末に新幹会という共産主義者民族主義者の統一戦線組織の平壌支会会長をつとめた。(和田春樹『北朝鮮現代史』2012)

 24日、ソ連軍司令官チスチャコフが咸興に飛来。道知事岸勇一と面会し、総督府の下部組織に行政を担当させる方針を明らかにした。しかし、共産党代表と建国準備委員会代表から、行政を委せるよう要請され承諾する

 「行政権の接収については、咸南、平南北、黄海道等、何れも八月二十五日より二十七日迠の間に於いて、当初はソ連軍将校より、「道行政は現在の道庁の機構に依り運営すべく、治安に付ては特に責任を負荷す」との申渡しを受け、其の積りにて行政を継続せんとしありたるに係らず、翌日又は二、三日後には行政権を一切人民委員会に引継ぐべき旨の指示に接し、且又、道知事以下内地人幹部、殊に警察官に在りては相当下級者に至る迠何等の理由なく抑留拘束せられ、勿論取調等の措置も無く今日に至る迠其の不法なる拘留を継続しあるは奇怪至極にして被害者本人は勿論、其の家族に就いても其の消息を明に知ることを得ず。」(『朝鮮総督府終政の記録』)

 24日、ソ連軍は平壌に至り、布告文を出した。

 「朝鮮人民よ。ソ連軍隊と同盟国軍は、朝鮮から日本略奪者を駆逐した。朝鮮は自由国になった。

 29日には、チョ晩植平安南道建国準備委員会と玄俊赫平安南道共産党委員会が対等合同して「平安南道人民政治委員会」を作った。