山辺健太郎『日本統治下の朝鮮』批判

 前にも触れたが(朝鮮半島における土地制度の変遷 番外 山辺健太郎『日本統治下の朝鮮』 - 晩鶯余録)、山辺健太郎『日本統治下の朝鮮』(岩波新書776、1971年)の38頁に次のように書いてある。下線は筆者。(2月12日加筆)

 

 「朝鮮人が土地を抵当にして、日本人の金貸しから金を借りて、その金の返済期限を何月何日ときめるとする。この期限はたいてい一〇〇日以内であるが、約束の返済期日時になると時計の針を一時間くらいすすめておく。この奸計を知らない朝鮮人が金を返しにくると、約束の時間はすぎているというので抵当流れにしてしまうという、ちょっと考えられないようなことが行なわれていた。

 買収による土地にしても、それは普通の買い入れではなく、腰にピストルと望遠鏡をもって土地の買い入れに出かけるのである。この方法は日本の官吏がやった方法で、休みの日に望遠鏡をもって丘の上に行き、手ごろの土地を望遠鏡で見つけると、そこに何某所有の標柱を立て四方に縄張りをしておく、もし所有者が届け出をしないときはたいてい標柱を立てた者の所有にしてしまう。

 これらのうそのような話は、みな当時の経験者の話としていまも記録にのこっている。たとえば加藤末郎『韓国農業論』や『朝鮮農会報』の「二十五周年記念号」にでている農業経営者の座談会で、一々引用の煩にたえない。」

 

 まさに「うそのような話」なのだが、この金貸しや官吏の不法行為のはなしはその後の論文にも影響し、広く信じられているもののようである。

 たとえば『大阪における「在日」形成史と階層分化:高齢期にある在日韓国朝鮮人一世の生活史調査より』(2010)CV_20240212_2009000772.pdfなどは主要な参考文献の一つとしてこの山辺健太郎『日本統治下の朝鮮』を挙げている。論文内容は実地調査に基づいた堅実なものと思うが、本文で「併合の翌月朝鮮総督府官制がしかれ、いっさいの政治結社は解散され、御用新聞以外の新聞は廃刊になり、武断政治が行われることになった。裁判によらず犯罪を即決し、日本人にはない答刑を実施したことにも見られるように憲兵による統治であった。そこにおいて日本政府主導のもとに設立された東洋拓殖株式会社は土地を抵当に金を貸し、抵当ながれで土地を取り上げ、日本からの農業移民(1910~26年に 9096戸)を送り込んだ。」と書いている。そこにはいかほどかの先入観が(もう無意識に)潜んでいるように感じる。

 笞刑は朝鮮旧来の刑罰であったろうし、東洋拓殖が土地を抵当に金貸しをしたとしても、東拓が移民を入れる目的で時計をごまかすような不当な取引で土地を奪ったわけでもあるまい。そもそもそんな面倒な方法より直接買い取る方が早い。以下に見るように、土地を日本人に売りたい者が多かったのだから。

 

 さて、そもそも山辺の引用元にはどのように書いてあるのか、読んでみた。

 

 まず、『朝鮮農会報』であるが、それは昭和十年(1935)十一月発行の第九巻第十一号で、冒頭記事「始政二十五周年記念朝鮮農事回顧座談会速記録」(2頁~91頁)が該当する。明治四十年代当時の農業指導の実情について、複数の実体験者が回顧する座談会である。引用に当たって旧字体新字体に変えた。下線は筆者。

 

 辻善一(不二興業社員)の話。(36頁~)

 「私は明治四十三年の三月に朝鮮へ参つたのです。(中略)当時は日韓併合の直後でありますから、例の朝鮮軍隊の解散兵が暴徒化して、日本人と見れば皆殺すといふ騒ぎの頃でありますから、私等も村田銃を持つて居つたものであります。かやうな訳でありますから、私等の棉花試作所には守備兵が六人ほども居つたのですが、内地人は他に五、六人居りました許りで、(中略)こんな物情騒然たる時に棉作を奨励しやうとしたのであります。それには先づ第一に土地を選定しなければならない、百姓に向つてお前のところでは棉を何段歩に植えるか、二段歩か三段歩か、而してどこの畑に作るのか、と言ふ工合に而も一戸一戸戸籍でも調べるやうに廻つたものであります。

 而してもう一つは百姓は陸地棉といふものを寧ろ嫌つて在来棉を作りたがり、陸地棉の種だけを貰つて蒔かないのです。

 そんな工合で、予定の面積が却々出来ないので、第一にかういふことをやつたのであります。それは丁度、一、二、三月に在来棉を全部抜いて終つて在来棉の種を残さないやうにして置いて、而して今度蒔く時に行つて種をやるのであります。(中略)それでも在来棉の面積が沢山ありますから、今度は六月の末か七月に、在来棉を作つてゐるその村に出懸けて行つて、青竹を一本持つて、片端から叩き倒して終ふのです。実に乱暴なことを遣つたものですが、それを可なり長い期間続けたものです、斯くして在来棉はその跡を絶つたのです。」

 

 38頁からの発話者は繁野秀介(朝鮮縄叺協会主事、明治四十一年(1908)赴任当時は農業技術員。全羅道は棉(綿)の重点的栽培地と定められていた)。

 「又適地選定と云ふ事に大変困りました。何故ならば適地を選定して耕作者の氏名を書いた標木を樹てると翌日抜き捨てて了ふのです。之は土地に税金を掛ける為に樹てるのだらうと云ふことを流布して妨害するからで、面長、里長を立会させて、今日の様に面事務所が在る訳でもなく名だけの面長であり、其の人も一緒になって云ふのであるから甚だ始末が悪い。其の当時は郡庁を郡衙と称して居りましたが、郡守に農事の奨励上に付き相談に参りましても仲々容易に応じて呉れない。漸く郡守が承諾して出張と云ふ段取となると、輿に乗り、従者を多数引連れ、郡守の印箱、長柄の煙管を従者に持たして大名行列に供揃へをして出掛けると云ふ状態であり、到着した部落では大変なお祭騒ぎで、指導どころではなかったのです。

 夫れから其の当時の我々技術者は銃及びピストル等を携帯して……最も此の銃器は官給品で在ります……指導奨励に従事したのであります。何故銃器を携帯したかと申しますと、其の当時は。暴徒の横行が盛んでありまして、いつ何時、暴徒の襲撃を受けるか判らないからでした

 暴徒にも色々種類がありまして、其の時の政府に反対して徒賊をなすものを義兵と称へ、又た火賊と申しまして直ちに火を放ち略奪するもの、夫れから各地の鎮営隊の解散兵が暴徒に変化したものが有りました、之れ等の徒が何時我々を襲撃するか判りませんので、今申し上げました通り附近の農民は能く親んで危険があれば直ぐに知らして呉れました、少し遠距離となりますと頗る危険でありますから、昼は終日指導に従事し、夜は農民を集め講話を致し、就寝する時は里長の宅か又たは酒幕で銃を抱へて壁に寄り掛かつた儘、転寝をして暴徒の襲撃を警戒しながら宿泊したのであります。」

  筆者注、「酒幕(チュマク、チュマツ)」は居酒屋兼宿屋のこと。

 

 続いて42頁から兵頭一雄全羅南道、営農)の発言。

 「只今棉のお話中でありますが、実際あの当時まのあたり見てゐました私等としては、ただ感慨に堪えないのであります。当時この全南に開拓のため来て居つた内地人農場の空気は今の満洲武装移民を思ひ出すのであります。私共が土地の買収に出ますには腰にピストルと望遠鏡を下げまして、而して二里、三里の田舎に出掛けて、農場としての有望なる土地がどこにあるかを探しにゆくのですが、その時には、どこの山で内地人が殺されてゐたとか、人質に日本人が何人も拉致されたとか、必らず耳に致したものであります

 ただ今もお話ありましたが、光州の佐久間農場も暴徒に襲撃されたといふことも当時聞いたのでした。これらの暴徒といふのは、韓国の解散兵でありましたが、それ以前、明治四十一年からニ、三年の間、あの全南の山地々帯に身を潜めて各地を荒して居つたのであります。それで私が四十二年の春、農場に入りますと同時にピストルを下げ望遠鏡を肩にして丁度、兵隊同様に軍人精神を横溢させて通訳を伴れて行くのでしたが、或る日のこと向ふの山を見ますると、遥か彼方を朝鮮人がニ、三十人も向ふの山の方に進んで行くのであります。そこで匪賊か暴徒の出現でないかと思ひまして、望遠鏡を片手に通訳に早く随つて来んかといふけれども「私は恐ろしいから!」といふて容易に進まないのであります。そこで通訳をその儘にして行って見ると、暴徒でなく擔軍が並んで仕事をしてゐるのでありました。」

 

 久次米邦蔵(京畿道、果樹栽培)の発言。(48頁からの部分)

 「最初、私は毎日京城から纛島に通勤して居りましたが、只今の本町三丁目まで参りますと、二階建の日本人旅館で大東館といふのがあり、それから東南は悉く草葺の朝鮮家屋許りで実に荒涼たる有様でありました。

 それに光煕門までの道路は狭隘、屈りくねつて羊腸たる上に汚物が流れ出した儘で歩行は困難、臭気紛々と鼻を突き頗る不愉快でした。門外に出ると人家はなく一帯の邱陵は累々たる土饅頭のみで、それから纛島までの路も狭く、往復の人や牛が辛うじてすれ違ふ程で、二輪車の牛車が往十里から東大門を経て鍾路の大路に通つて居るのであります。

 私がこの路を種々な感慨に耽りつつ通勤の三日目でありましたが、光煕門外の小溝の傍らで異様の臭気がするので、不図見ますと、男の生首が顔を上に擲げ込んであるのです。これを見て慄つとした悪印象は未に忘れませんが、これで私も身辺を警戒する心持になり、その後は常に「ピストル」を離さず通勤しました。」

  筆者注、「纛島(トゥクソム、トゥッソム)」は京城東南の漢江氾濫原。

 

 以上、各発言者の言うところによれば、標柱を立てるのは適地選定のためであり、その土地の耕作者(当然朝鮮人)名を書いておくと、農民が課税のための処置と誤解して耕作者自身が抜いてしまうという話である。これを土地調査事業中に日本人官吏が不法に土地私有を行なった実例のように解釈するのは曲解と言うべきではなかろうか。これは既に誰かが指摘していることなのかもしれないが、自分は今回確認したところである。

 

 日本人がピストルを持つのは自衛のためである。田舎の土地を見に行く時だけでなく、首都での通勤にすら必要な時期があったのだ。第二次日韓協約後の、義兵闘争が最も盛んだった当時の状況を考えれば当然の対応であったと言わざるを得ない。襲撃を受けた農場の悲惨な様子なども話されている。

 

 また山辺の同書第1章22頁に、朝鮮総督府の警察制度に関して「棉花栽培をやらせるときに、「郡庁に郡守を訪ねて御願致し、栽培者を物色して呼び出し、必ず播種するよう厳重に申渡して貰ったのです。ところが頑固でなかなか応じない。そこで郡守はこれに笞刑を命じ、始めは軽く打たせておりましたが、依然として承諾しないので、だんだんと強く打たせ二〇回臀部を打たせ大部局部が赤く腫れ上がった頃になりますと、いよいよ兜を脱いで播種することを承諾しました」。これは朝鮮農会の座談会で、実見者でありまた棉花栽培を朝鮮人にやらせた千葉喜千弥の談話であるからあきれるほかはない。」とある。

 あたかも総督府の警察が、棉栽培を受け入れない朝鮮人農夫に対して残酷な刑罰を行なって強制したかのように読めるが、実際の座談会での千葉喜千彌(殖銀春川支店長)の発言(44~45頁)は次のようである。

 

 「先程来、陸地棉栽培奨励当時のお話がありましたが、私も渡鮮早々、木浦に於て臨時棉花栽培所長の佐藤政次郎さんの御指導に依り、明治三十九年より四十二年三月まで其仕事に携はりましたので、如何に当初に於て苦心したかを御話致します。

 全南珍島は古来難治の地方でありまして、とても陸地綿栽培など承知しませんので、或時佐藤所長の命を受け、郡庁に郡守を訪ねて御願致し栽培者を物色し呼出し、必ず播種するやう厳重に申渡して貰つたのです。処が頑固で中々応じない。そこで郡守は之に笞刑を命じ、初めは軽く打たせて居りましたが、依然として承諾しないので段々と強く打たせ、二十回臀部を打たせ大分局部が赤く腫れ上つた頃になりますと、愈兜を脱いで播種することを承知しました。今日から考えて想像の出来ない事柄で、随分無理もありましたが、当時の民度として仕方なかったのです。

 何しろ当時の郡守は生殺与奪一切の権限を掌握して居りましたので、郡守の命令には百姓達は震ひ上つたものです。」

 

 当時ほぼ略奪農法が主だった朝鮮に対し、江戸時代を通じて進化した日本式の農法や作物を急いで移植するため、日本の技師達は過激なまでの方法をとった。アメリカからの棉種を播かせるために、在来種の棉畑に行きそれを叩き折って根絶させたりもした。稲についても同様であったが、在来種は地方によって数え切れないほどあり、それらが混在して収穫されるため商品価値がつかなかったのだ(米については赤米と砂、石の混入や乾燥不十分が最も大きな問題だったが)。農民を従わせるための最後の手段として、郡守の強権に頼ったのだが、それは朝鮮式の酷刑を科することになってしまった。併合以前のことである。

 たとえてみれば、幕末に来日した欧米人が日本の刑罰(敲き。公開で五十敲き、百敲きがある)を見た時に感じただろう残酷さと似ているだろうか(欧米にしてもギロチンなどがあり、人の国を言えた義理ではないが)。併合直後には残されたこの刑罰も、住所不定とか罰金の払えない者に対する選択刑で、猶予、免除も即決でできた。罪人の健康を医者に検査させたりする施行規則もあった。しかしそんな酷刑は大正九年(1920)には廃止され、「今日から考えて想像の出来ない事柄」になった。

 

 望遠鏡で云々については、『朝鮮農業発達史 発達編』(友邦協会1960)24頁に、ある農場経営者の回顧談がある。旧字体新字体に変えた。下線は筆者。

 「当時群山港に管理署があり、外国人はこれを中心に、十韓里以内の土地を売買することが出来たのみで、それ以外の土地の売買には、無論証明がある訳がなく、不安心なものではあつたけれども、買収しておけば必ず成功すべしと信じて土地の買収を行い、時としては、山上から眺めて、これを買収したことすらあつた。(中略)国法を犯しての行為であるから、官公吏の目を遁れるのに相当苦心した。が朝鮮人の方では、日本人は土地を買収してはおるが、結局は手放すに至るものだ、と思つておつたとのことである。」

 これは座談会が語る時期よりもさらに前のことであるが、外国人が開港地で行動範囲の制限を受けていた頃に、山の上から望見して土地を買収したという逸話である。この話と前記のピストル・望遠鏡・標柱の逸話が混ざって最初に引用した「うそのような話」が出来たのではないかとも考えられる

 

 もう一つの出典例である加藤末郎『韓国望業論』明治37年(1904)発行。朝鮮の地理、気象、作物などについて細かく調査した、まさに農業論である。目を通したが、日本人が武装して不法な土地取得に及ぶような記述は見つけることができなかった。自分が見過ごしているだけなのか? 山辺が代表的な文献として挙げたこの二つに見当たらないとすれば、いったいどこから「一々引用の煩にたえない」ほどの例を読み取ったのかわからないのである。これでは断片から組み立てた妄想と言われても仕方がないのではないか。引用元の著者加藤末郎や座談会発言者に対しても失礼ではないか。

 

 第十六章の「韓国耕地ノ売買」171頁を引用する。旧字体新字体に変えた。下線は筆者。

 「韓国農民ハ 一ノ土地ニ固着セザルコト我農家ト異ナレリ 金銭ニ窮スレバ容易ニ土地ヲ売却シ 祖先伝来ノ土地ヲ有スルモノノ如キハ 極メテ寥々タリ 故ニ土地ノ放買ハ盛ニ行ハルゝノ実況ナリ

 売買ノ方法ハ 売手ヨリ新旧文記ヲ買主ニ渡スヲ以テ 一切ノ権利一方ヨリ他方ニ移リシ者ニシテ 官衙ニハ何ノ届出ヲ要セズ 新旧文記ニハ何斗落若クハ何日耕ノ田畑ヲ 価何程ヲ以テ某ヨリ某ニ売渡スコト確実ナリト云フ意ヲ記シ 人ヲ選ビ口銭ヲ与ヘテ保證人ニ立テ連名セシメタルモノニシテ 之レ乃チ売渡證ナリ 如斯別ニ官衙ニ届出デザルヲ以テ租税徴収ノトキハ其所有者転移ノ為メ 大ニ不都合ヲ感ズル事アリト云フ」

 

 第十九章「韓国農業ノ振興ト本邦人ノ農業経営」

  一、本邦人ノ土地所有及内地ノ居住(246頁~)

 「邦人ノ韓国農業経営ニ対シ第一ニ念頭ニ浮ブベキ疑問ハ土地ノ所有ニアリ間行里程内乃チ居留地ヲ地点トセル我里程一里以内ニ在リテハ英韓条約第四欵ニ「英国人租界以外ニ於テ土地家屋ヲ賃借若クハ購買スルニハ 租界ヲ離ルコト韓国里程十里ヲ逾ユルヲ得ズ」ト云ヘルニ均霑シ 外人モ土地ヲ所有スルコトヲ得ルヲ以テ 売買ニ際シ其地ノ韓国監理(開港場ノ地方官)ニ地契(地券状)ヲ請求スルトキハ 地券一枚ニ付(二三段歩ニテ一枚ナルアリ五六段歩ニテ一枚ナルアリ一定セズ)二円ノ手数料ヲ要ス コレヲ仕払フトキハ茲ニ全ク所有権ノ移転ヲ確認セラルルヲ以テ 此ノ地域ノ範囲ニ於ケル外人ノ韓国土地ノ買収ハ 既ニ久シキ以前ニ於テ実際耕地ノ売買行ハレ居ルハ事実ニ於テ之ヲ徴スルコトヲ得 夫ノ欧米人ノ幾年ノ久シキ以前ヨリ内地ニ居城ヲ構ヘ 耕地ヲ買収シ 少許ナガラ自ラ耕作ニ従事セル如キ 幾度カ韓国官吏ヨリ撤退ヲ請求スルモ 行ハレタル事実ナク 請求スル官吏モ 中央政府ノ命令ニ依リ行ハレザルヲ知リナガラ 儀式的ニ退去ヲ請求シ 之ヲ受クルモノ亦儀式的ニ受クルノミ 双方トモ既ニ儀式ナリ 此式ヲ了レバ依然トシテ旧ノ如シ 殊ニ近年ハ間行里程以外ニ本邦人ノ土地ヲ所有シ家屋ヲ構ヘ定住スルモノ益多キヲ加ヘタリ 一二ノ例ヲ挙グレバ 釜山居留地ハ条約上、海ヲ境界トスル明文アルニ拘ハラズ 遂ニ其対岸タル絶影島ノ平地ニ本邦人ノ居住スルモノ甚ダ多ク 土地ノ如キ海岸ニ沿ヒタル所ハ一坪七八円ヲ以テ売買セラレ 今ハ純然タル居留地ヲ為セリ」

  一、耕地売買ノ状況(249頁~)

 「而シテ売買ノ実際ノ状況ハ 何レノ地方モ本邦人ヨリ進ンデ購入ノ交渉ヲナスニアラズ 本邦人ニシテ土地ヲ購買スルノ意志アルヲ示ストキハ 村落ノ代表者ハ耕地ヲ売ラントスルモノヲ代表シ 小ハ何十斗落ヨリ大ハ何千斗落ヲ売渡サンガ為ニ 二三里若クハ五六里ノ遠方ヨリ邦人所在地ニ来リ 買人ヲ求ムルナリ 本邦人ヨリ自ラ進ンデ此地ヲ求メタキ故ニ譲与セヨト云フガ如キ方法ニアラズ  而シテ売買譲与ハ極メテ簡単ニシテ 相互ノ交渉終レバ地券タル旧文記新文記共ニ買主ニ渡セバ其手続ヲ了スルモノナリ 最モ此以前買主ハ土地ノ面積ヲ実測シ所有者ノ真偽ヲ確メ 過誤ナキ為メ自ラ充分ノ手続ヲ尽スヲ要スルハ勿論ナリ 従来耕地ヲ買収シタル人ノ経歴談ニ依レハ 韓人ヨリ直接ニ買収シテ詐偽ニ罹リタルコトナキモ 却テ本邦人間ノ転売買ハ頗ル危険ナリト称セリ 此頗ル味フベキノ経験ニアラズヤ」

 「韓農民ノ朴訥ナル一旦売却シタルモノニ対シ苦情ヲ云々スルガ如キ実例ナキガ如シ 而シテ韓人ハ好ンデ本邦人ニ売却スルノ傾向アリ 且韓人間相互ノ売買ヨリモ稍低廉ナリ 此レ韓人間売買ノ慣習トシテ代金ハ一時ニ之ヲ支払ハズシテ三回位ニ分チ払フヲ常法トスル 然ルニ本邦人ハ凡テ直ニ全額ヲ支払ヲ以テ 金利ノ不廉ナル韓国ニアリテハ勢韓人間ノ売買ハ本邦人ニ売却スルヨリ高キヲ致スハ怪ムニ足ラズ 既ニ買収シタル土地ニハ購入者ノ氏名ヲ明記シタル杭ヲ建テ以テ所有ノ移転ヲ明ニスルノ方法多ク行ハル

 如斯クシテ得タル土地ノ耕作ニ関シテハ直ニ本邦農民ヲ移スモ不可ナシト雖 斯クテハ尠カラザル経費ヲ要スルヲ以テ 幸ニ韓人ノ多クハ売却土地ノ小作ヲ希望スルヲ以テ一時其ノ希望ニ委シ 漸次本邦農民ヲ移スノ方法ヲ採ルヲ可トセン」

 

 外国人の土地買収について、許可された範囲外でも買収が公然と行われていたことがわかる。また、土地の管理も、売買が台帳に記録されるようなものではなかった。

 

 

 朝鮮農民は朝鮮の郡衙、政府を嫌う

 朝鮮の農民が何故に裁判を嫌ったかについては前記座談会速記録で繁野秀介が次のように話している。(39頁~)

 「初め農家に陸地棉種子、「ポプラ」の挿穂、桑の苗を無償配布を致しました。然し百姓は棉の種子を飼牛に食はせ、「ポプラ」の挿穂及桑苗は温突に燃して終ふと云ふ始末で、仲々指導に従はないので困りました。

 でも其の内には附近の農民にて「マラリヤ」で苦しんで居る者が癒して呉れと云つて来るので、所員の為に買求めてある富山の薬袋から「カゼピリン」などを与へると直ぐ癒おる。腹痛の時には重曹を与へ、薬の無き時は仕方ありませんから砂糖を服用させますが之れで不思議に癒る。又た鎌で手を切たものには朝鮮焼酎で洗つて繃帯してやると云ふ様に親切に労つて遣つたものです。又た農民間の土地争を持て来る。……それは少し権力のある者が他人の土地を冒耕する。又た地主から種籾を借りて収穫時に返却しない為に直ぐ小作地を取り上ぐると云ふ様なのが主で……百姓達が之を当時の郡守に訴へると、郡庁の使丁から吏蜀、それから郡守と云ふ風に取調べに却々日数が掛る。其の上多大なる金が掛るので普通の者には容易に出訴することが出来ないのです。それを吾々内地人の居る役所、つまり棉採種事務所に持て来る。そこで公平に裁いてやり、又た現場に行つて調停すると云ふ様な訳にして遣つたものですから、農民も喜んで次第に親んで来て我々の指導に能く従ふ様に成つて参りました。」

 

 前記『朝鮮農会報』座談会の久次米邦蔵発言も見てみよう。併合以前の話である。

 「用地の買収に当つて、夫れは勿論民有地の購入でありますが、当時この辺りの土地は一反歩価格十四、五円から極上等で二十円そこそこであつたのです。然るに附近の鮮人を呼び出して買収の相談をすると、反八十円から一文も引かぬと態度頗る強硬なものです。私が如何に説明しても頑として応じませんから、其の経過を農商工部の局長……勿論鮮人でした……に話すと「それは反八十円程度でないと可愛いそうだ」と言はれるのです。このことを今度は統監府の中村(彦)技師に話すと、不当な値段だとは申しましたものゝ何分韓国政府の遣ること故、適当に取計ふより仕方ないと極りました。

 その直後に例の某局長が、日本観察旅行に出発する前日、突然来場して土地の売渡の人達を集め「売つた地代は自分が預つて居るが、急に日本に出張するので忙しいから帰つてから渡すから待つて居れ」と話したと通訳から聞きました。然るに部落民は翌日になると出て来て代金の支払ひを迫るので、私も少々変だと感づき再度支部に出頭し、会計課長に逢つて委曲を話した処が「それは不都合だ、然し一度、八十円と極めてある以上はせめて七十円程度にして局長の不在中に渡して了へ」と言ふので直ぐに現金を持って帰り、翌日鮮人を呼び出し一坪何銭何厘まで計算して彼等の面前に金を並べたのです。

 処が喜ぶと思ひの外、「約束が違ふ。そんな大金は不要ぬ」と言つて受取らぬので、約束とは何かと尋ねますと、一反歩の地代は実は二十円であると言ひますから、私が最初に二十円位いが至当だと言つた時、お前達は八十円でないと売らぬ、と頑張つたから自分が種々心配して七十円以上にして遣つたのではないか、文句を言はずに取つて帰れ、と怒鳴つて諭した処が鮮人等は「八十円で売つても自分達は二十円貰ふ丈で、残り六十円は高等官三人で分配する筈だ」と初めて真相を打明けたのには唖然とした次第です。

 然し鮮人達は後難を恐れてか、躊躇して金を受取らうとはしませんから、種々と諭し受取つて差支へない訳を話して遣ると、忽ち喜色満面に溢れ「日本の官吏は人民の金を取らぬか」と今度は奇問を発し、私が日本の官吏は人民の生命財産を保護するのが役目であると説明すると、心から「実に善政だ!」と感嘆して引揚げて行きました。」

 

 当時の朝鮮の官吏は「人民の金を奪う」のが当然のことであったとわかる。

ゴジラ -1.0

 『ゴジラ-1.0』を4Dで二回観た。昭和29年に初登場したゴジラは、その後続編が多く作られ、日本人ほぼ全員に世代を問わず知られる存在だろう。

 映画作品の中ではゴジラのいる世界が普通で、登場人物が「あ、ゴジラだ。」と既知のものとして呼ぶような作品もあったかと思う。しかし、昭和20年から22年に設定されたこの作品ではもちろん誰も知らない。(まあ『シン・ゴジラ』でも未知の存在という設定ではあったが)

 一方観客にとっては全然承知のもので、背景音楽さえ聞きなじんだものでワクワクするのである。自分も小学生のころから何本も見ていて、懐かしい。

    

 敗戦後の日本は国家主権をGHQにおさえられ、武装解除されていた。が、この作品にはジープに乗った米軍兵士もMPも出てこない。『シン・ゴジラ』のように米軍の最新兵器が登場して戦うわけでもない。都会の焼け跡から傷を抱えながら復興に向かって営々と働く人々しか登場しない。戦うのは武装解除された日本人で、使うのは辛うじて残されていた武器である。意図的にそうしたのだろう。つまり、日本人としての連続性を表現するため、占領を描かなかったのではないか。

 先尾翼局地戦闘機震電」が実戦可能になっていてゴジラと戦うという設定はマニアにはうれしいところ。

 

 前半、日本近海の機雷掃海任務にあたる木造掃海艇が海上ゴジラと戦う。考えてみると、ゴジラとの洋上戦闘場面はあまり記憶にない。戦後の掃海作戦は小説『機雷』などを読むとよい。映画では機雷を咥えさせ、射撃して爆破させるが、これは映画『ジョーズ』のクライマックス場面そのままだった。

 CGの背景やセット、小道具は時代色があり、幻燈スライドの文字もいい感じに戦前風だった。電報を人が届けに来るなんて経験はもうほとんどの人が知らないだろう。

 ただ、逃げ惑う人々のエキストラの中に肥満気味の人が見えた気がしたが、昭和22年に肥満はちょっとどうかと思った。まあ絶無とは言えないだろうが。

 

 

 海神(わだつみ)作戦でようやくゴジラを沈めた時、男たちは敬礼する。その意味はこれまでゴジラの犠牲になった人々に捧げるものだったのだろうが、自分にはゴジラそのものに対して捧げられたもののような気がした。強敵に対する敬意?

 更に言えば、ゴジラを倒すことによって「本当に日本の戦争が終わった」、決別したような気がしたのだ。ゴジラは「戦争」の象徴なのかもしれない、それに憑りつかれた戦前という時代への決別、その中で斃れた名もなき多くの人々への敬礼であったような気がしたのだった。

 

 椅子がガンガン動くし、水が吹き掛かるのが面白かった。

美瑛 半澤農場

 半澤久次郎が明治三十年代から北海道で行った開拓について、今知り得たことをまとめておきたい。以下、年表的に羅列する。資料はほぼ『美瑛町史』による。

 

1894 明治27年 7月、健吉(宏)没。40歳。⑤爲澄妻キノ、最上三十三観音巡礼。

 「空知地方・美唄市西美唄町山形地区には山形県出身者が多く移住しています。1894(明治27)年、山形村山地方の零細農民が農民移住団体を組織。この地区の開拓が始まり、1921(大正10)年には水田化に取り組むと、さらに山形県からの移住民が増えています。地縁・血縁のネットワークを大切にしている県民性によるものでしょうか。」 

1900 明治33年 135万7千坪貸下を受け、難民救済のため拓地開発を企図せんとする計画。管理人、片桐助吉。この久次郎は⑥爲傳であろう(49歳)。彼はこの時期家政を令息(⑦爲邦であろう。32歳)に任せている。

 なお管理人の片桐助吉については未詳だが、片桐は漆山にも江戸時代からある苗字なので、漆山から派遣された人かもしれない。

1905 明治38年 安藤市兵衛(30歳)、叔父半澤久次郎の依頼を受けて渡道、美瑛村に半澤農場を設立した。

        3月末、⑥爲傳、洞翁と改名。54歳。⑦爲邦、漆山倉庫入社。叔父(義伯父)とは爲傳(洞翁)であろう。

1907 明治40年 8月15日、農場に半澤神社創建。出羽三山を祀る。後、天照皇太神宮と明治天皇を合わせ、9月21日を例祭日とする。

1908 明治41年 方針を一変して牧場とする。安藤市兵衛、管理人となる。

1909 明治42年 12月に至り457町5反歩開発成功。無償付与を受ける。

1910 明治43年 西村政吉(37歳)、渡道し半澤農場主安藤市兵衛の知遇を得る。

1911 明治44年 西村政吉、安藤市兵衛に代わって半澤農場の管理人となる。

1912 明治45年 収支相償わず方針を一変し、農業経営に改める。

   大正元年 小作人15戸を収容。開墾を開始。毎年20戸の小作人を移住せしむ。ただ、資本を有する者は皆無。食糧さえ無いものが半数近く。

1914 大正3年 2月、洞翁(⑥爲傳)没。

1915 大正4年 農場の立ち木を伐採、薪炭として旭川で売り、最高80円、最低30円を得た。しかしやがて伐採し尽くした。
        安藤、住民の願望により立候補し、村会議員当選。四期務めた。

1916 大正5年 流通資本(回転資金)としての小作人への貸付6千円。最高5百円、最低20円。利子は毎月1分5厘。

1917 大正6年 120戸の小作人があったが、次々に退出し、半減して60戸となる。小作人の移住費用、食糧供給は総額2千円。肥料として厩堆肥と過リン酸石灰2千2百叺を貸付。農場開始以来の起業費は元利金1万8千円。

1922 大正11年 10月22日、⑦爲邦没。54歳。弘介(⑧爲弘)27歳、相続。

 

 昭和に入って以降の半澤農場の様子はまだわからない。ただ、農場は今も「北瑛農場」として存続しているようであり、安藤氏の彫像が建てられている。

 安藤市兵衛は明治八年に山形市七日町の「八つ沼」という衣料品店(足袋屋)に生まれたという。十五、六歳のときに先代市兵衛を亡くし跡を継いだ。妻は新関善八の五女ワカである。したがって、姉のキヌ(長女)が嫁した半澤健吉の伯父⑥久次郎(爲傳)とは義理の伯父甥の関係になる。伯父の勧めで開拓に携わったという記述からは、爲傳の発案であったと思われるが、実際は⑦爲邦が関わり、安藤が実際の開拓の責任者ということだったろう。しかしまた安藤市兵衛は他にも事業を起こし、多忙であったため、管理人を西村政吉に譲る。安藤の五男友之輔は父の命により美瑛町議、町長をつとめた。

 

 (以下追記)

 北瑛開拓顕彰碑碑文

 本町の北高台に広がる約六百ヘクタールの北瑛は元半澤農場及び産牛馬牧場更には夕張、野上、加藤の各農場の一部を区域として入植した人達に依ってつくられた。

 当時を偲ぶに、これらの先人は狐熊が出没する密林荒野に小屋をかけ、粗衣粗食に甘んじ、晨には月影を踏み夕べには星を戴いて木を伐り炭を焼き、後地を焼払っては鍬を入れ、厳しい自然の猛威と闘い言語に絶する苦難に耐え、歩一歩と開拓の実をげ今日を築かれたのである

 我々は現存する三十九戸の経済の源として発展を続ける北瑛の基はかかる先人の血と汗の結晶であり、更にはこの偉業を受け継ぎ今日に伝えられた多くの人々の努力に依ることを想う時、心から感謝と敬仰の念盡ることなし、以来星霜重ねて茲に開基八十年を 迎えるに当たり現住者相計り今感激を新たに、顕彰碑を建立し、その名を刻み功績を讃えると共に、この鴻恩を後世に伝えんとす

     昭和五十七年六月二十日之建

         協賛会長 大西弘近

 

 (北瑛農場に建てられた安藤親子の肖像銅像に書かれた文章。下線は筆者)

 安藤市兵衛翁は、幼名を安次郎、四代目市兵衛、ナカさんの長男として明治八年八月七日山形市に出生さる。小学校卒業後、家業の仕立業に従事、十七才の時尊父死去、五代目市兵衛襲名翌年新関ワカさんと結婚、爾来陸軍並に県警御用、消防指定商等家業を伸長、明治三十二年二十五歳にて渡道親戚半澤牧場を成功更に進めて半澤農場を創設、地域の産業、政治経済等幅広く貢献さる。大正期より東京市に於いて一族の発明に関る電磁式電気時計の企業化に成功業績を挙げらるも昭和二十年戦争に依る爆撃で廃業止むなくその後山形市にて老後を過ごされるも二十三年十月二十三日逝去さる。

  北瑛開基八十周年記念事業協賛会建立

 

 安藤友之輔翁は五代目市兵衛、ワカさんの四男として明治四十三年七月十九日山形市に生まれる。早稲田大学東京農業大学卒業後父の意志を継ぎ北瑛で農業に従事、昭和十五年八月福田みよさんと結婚する。

 昭和二十三年美瑛町農協常務理事をはじめ農業関係団体の要職を歴任。昭和二十六年から十六年間 美瑛町議会議員として副議長議長を歴任、昭和四十二年から二十年間美瑛町の首長として尽力した。質実剛健自己に極めて厳正、旺盛な研究心と実行力に富み責任感と常に平等の精神強く、誠実にして信念堅固、温和と寛容な態度を持ちあわせ、加えて鋭敏な感覚をもって、地域の振興発展に大所高所から広く貢献された。昭和六十三年美瑛町名誉町民推戴、同年十二月勲四等旭日小綬章、昭和十年十一月従五位に叙される。

     平成十二年六月二十五日

     北瑛開基百周年記念事業協賛会建立

 

 なお、半澤神社は明治神社と名が変わって残されているようだ。

 

令和6年大学共通テスト古文・漢文問題を解いてみた

古文

 物語だが男女の恋物語ではなく、友人と和歌を交わしたときの風流な話。

 文章は主語に迷う箇所もなく、敬意の対象もわかりやすい。基本的な助詞、助動詞、敬語の知識があれば容易であろう。問題文としては適切だと思われる。

 設問中に、この問題文に対する批評文が引用されていて、問題文を読み込む手助けになっている。この意図も有効、適切だろう。

 問題文への注と牛車の図は丁寧だが、過剰とみる向きもあるかもしれない。

 

問1 語彙的問題で、部分訳を選ぶ。

 「あからさま」「とみ」「かたち」「をかしげ」など基本的なものばかり。教科書にもよく出てくるだろう。

 

問2 文法的問題。助詞、助動詞の判別、敬語(二重尊敬、敬意の方向)。

 ①は連用形に接続しているので過去の助動詞とみるべきだろう。

 ③は「サ未・四已(さみしい)り」でサ変動詞「す」の未然形に完了存続の「り」が接続しているのは正しいが、その下の「人々の顔色が」の部分が不適。顔色ではなく、辺りの景色、様相が一変したのである。

 ④は、尊敬の補助動詞と同時に用いられる「す、さす、しむ」は使役でなくて尊敬と覚えていいだろう。

 ⑤の「給ふ」は尊敬の補助動詞だが、「見る」動作主が主人公であって大夫ではないので誤り。

 

問3 和歌の応答について。状況が読み取れていればわかる。

 ①は「源少将が誘いを断った」が誤り。主人公は急に思い立ち、誰にも知らせずに出かけたとある。

 ②は「主人公への恋情」が不適。

 ③は、掛詞の説明は正しいが、「源少将が待つ」が誤り。

 

問4

 (ⅰ)①は、本文20行以降雲が晴れて月が出るので、12行ではまだ月はない。

    ③④も同様に誤り。

 (ⅱ)①「わずかな隙間が生じ」「一筋の月の光が鮮やかに差し込んで」が誤り。本文は「なごりなく晴れわたりて」「天地のかぎり、…きらめきわたりて」とある。

    ③「今夜降り積もった雪が、その月の光を打ち消して」が不適。

    ④「白銀うちのべたらむがごとく」は地上の雪で、夜空の星々ではない。

 (ⅲ)①「足手の色を気にして仕事が手につかない」が不適。急なお出ましに慌てて失態を演じているのである。

    ②「院の預かり」の体調を気遣っているわけではない。

    ④「都に帰りたくて落ち着かない人々」「周囲の人を気にかけない主人公の悠々とした姿」が不適。

 

 

漢文

 杜牧の詩『華清宮』について。詩の内容に関しての資料(漢文)との融合問題。

 問4までは容易だが、問5、問6には正確な読み取りが必要になる。

 

問1 一見して七絶とわかる。空欄はない。押韻する箇所を知っていれば容易。

 

問2 語彙の問題。

 (ア)「百姓」の選択肢に「農民」がないので間違えようがないだろう。

 (イ)漢文とは限らず、日本語の語彙として知っておくべきということか。

    こういった知識(常識、教養)は各人の読書量如何による。

 (ウ)「因りて」と読めるかということ。

 

問3 「有」「所」は返読文字である。

  このことから、返読していないものを除外すれば④しか残らない。

  「人力」と「人命」の対応に気づけば対句として読めるだろう。

 

問4 詩の第三句(転句)の解釈。「それを見て楊貴妃は笑う」はみな同じ。

  早馬が「来る」の選択肢が三つ。「ゆく」「倒れる」が一つずつ。

  何の(誰の)ために荔枝を持ってくるのか。資料Ⅰに「貴妃嗜荔枝」、Ⅱに「明皇致遠物以悦婦人」とあることからわかる。 

 

問5 資料Ⅲ、Ⅳによる詩の事実考証。

  Ⅲは玄宗が華清宮にいるのは冬で、六月まで居たことは無い。だが荔枝は夏に熟するものであるので、時期の不一致がある。①②は誤り。

  Ⅳは別資料に拠り、玄宗が六月の楊貴妃の誕生日に華清宮を訪れ、荔枝が献上されていたことがあったとする。詩の内容と一致することになる。しかし③④は「荔枝香」の説明が不適当(果実の名であるという説明は文脈に合わない)。

 

問6 詩の鑑賞。問5から、事実の有無は決め難いので①や③のように断定はできない。

  あとは杜牧が玄宗をどのようにとらえているかであるが、資料から読み取れることと鑑賞文の表現にやや懸隔があって紛らわしい。

  玄宗(と楊貴妃)のとらえ方が肯定的か否定的か。

  ②と④⑤は対照的で、どちらもあり得るが、④の荔枝の「希少性」「写実的」、⑤の「永遠の愛」などは(類推できるが)資料に直接には出てこない。

  資料Ⅰ、Ⅱにあるのは、人命を軽視した「不適当な手段」による運搬と百姓の困苦である。それで正解は②なのだが、しかし、そこから「為政者の道を踏み外して楊貴妃に対する情愛に溺れたことを慨嘆している」となるのは少し飛躍している感もあるので、「紛らわしい」とした。教科書で『長恨歌』などを読んでいれば、かえって⑤に引かれるかもしれない。

 

 以上、1月14日夜。誤認があれば都度訂正します。

 

(追記) 漢文については、「再読文字」も「疑問・反語などの句形」も無く、そういった知識面よりも内容理解を主眼としていることがわかる。したがって、受験生にとっては、付け焼き刃的な知識よりも、多くの漢文(あるいは現代評論でも)に読み慣れている(読書量が多い)方が有利になる。文章を読み、理解する(論理的に考える)力こそが問われていると感じた。方向性としては正しいが、最後の詰めがもう一歩というところか、というのが感想である。

半澤久四郎、久三郎 考

 山形市漆山の豪農半澤久次郎家について、明治十四年の明治天皇御巡幸に関連して、久四郎と久三郎について考えてみた。(1月15・16日・22日修正)

 

 明治九年六月に大久保利通、九月に三条実美が半澤家に立ち寄った際、彼らの日記には「半澤久四郎宅」と書かれている。そのほかの記録でも、明治八年の立附米四千表余を記録したのも半澤久四郎とある。一方、明治十四年に明治天皇が御小休された諸記録には「半澤久三郎家」と書かれている。

 明治二年三月の宗門人別改に、「漆山村、大庄那須弥八、名主半沢久次郎、大庄屋 見習那須五八、名主見習半沢久三郎」とある。また同年十一月七日、「半沢久三郎、取締見習・帯刀御免被仰付」ともある。

 これらに該当する人物は、久四郎が四代為親久三郎が五代爲澄(為親の養弟で嗣子)と考えられる。「久次郎」という、二丘以来の襲名の外にこのように呼ばれていたのだろう。

 この記事をお読みいただいて、以下のご教示を受けました。

 「番付『山形縣管内 持丸長者鑑』〔明治18年10月24日御届 山形七日町 菊地豹次郎〕に、「中央 年寄 半澤久四郎 拾萬圓」とあります。」

 明治十八年であれば、五代爲澄の他界後四年、六代爲傳の時期である。世間一般では爲傳が久四郎と呼ばれていたことになる。

 父爲澄の死亡届と葬儀伺は「相続人半澤久三郎」の名で出されている。すると爲澄の長男(爲傳)は父についで久三郎を名乗り、さらに久四郎と改名していたことになる。

 周知のように爲澄は御巡幸の一か月前に急死している。明治天皇御巡幸の記録に残っている久三郎は、当初の計画のままだったのか、急遽爲澄の跡を継いだ爲傳のことだったろうか。

 

 出世魚のように名が変わるようだ。幼名の亀治・亀吉も繰り返し出てくる。

 亀治 ⇒ 久四郎 ⇒ 久次郎・爲親(諱)

        久三郎   ⇒ 久次郎・爲澄

                久三郎  ⇒ 久四郎 ⇒ 久次郎・爲傳

                明治14年     明治18年

 

 父親の急死に長男(30歳)はじめ兄弟たちは痛悼と家政多難の思いに打たれていた。その中で、次男(27歳)が果断に言ったことには『守家の法は勤倹に在り』と。遂に「與兄弟相謀 省冗除煩 賣書画古器不善物 買田数萬畝 田倍旧時 改革家規 始定其吉凶祭祀日時」(「半澤健吉墓碑銘」より。健吉墓は浄土院から離れた場所に他の半澤家の方の墓とともにある。ただし、四代為親の墓はそこにも無いという) 

 爲澄の次男は「宏」といい、「健吉」は諱である。長男が久次郎家を継ぎ、次男が支えたということだろう。

 

 その後、兄六代目久次郎は明治二十二年に初代漆山村長となり、その子の亀吉(諱は爲邦)は同年に勉学のため上京している。

 

 宏(健吉)の子亀治は明治三十五年に早稲田英政を卒業している。明治三十六年四月には東京で阿部次郎(20歳)と初めて面会している。亀治は卒業後「漆山倉庫」の支配人を務め、大正六年に建吉(健吉)と改名している。健吉家は二代に渡って久次郎家を支えていたことになる。

 亀治(建吉)の相続人は旧土地台帳によれば「宏吉」である。この人は優秀で、昭和四年に山形高校文乙卒業後、京都帝大法に進んでいる。昭和七年三月に健吉(亀治)が五十四歳で亡くなると同年七月に相続している。その後は未詳である。

 

 この宏(健吉)という人は墓碑銘によれば、幼いころから米沢の曽根一貫に学び、帰って家政をよく助け、その余は国書を読み和歌を好んだ。また「奉神職爲教導職七年辞焉」とある。「教導職」は明治四・五年ころ神道国家をつくらんとの試み「大教宣布」運動から設置された宗教官吏で、半官半民の任命制だったが、うまくゆかず、明治十七年には廃止されたものである。wikipedia

 宏(健吉)はいつからいつまで教導職だったか。明治五年には十八歳で、まだ人に講義するには早いように感じるが、当時は早熟な人が結構いたから有りうる話ではある。明治天皇御巡幸時にもまだ教導職だったとすれば、その七年前は明治七年となる。この辺が職に任じていた期間だろう。教導職には弁の立つ人が選ばれたようだから、彼もそうだったのだろう。

 また、同時期に神社の制度が定められ、「村社」に「祠掌」がおかれた。これは地方の豪農などが充てられたようだ。(祠掌は後に社掌に変わった)明治十年ころの記録である『旧高旧領取調帳』には、「神社」の項に次のようにある。

 村社 稲荷神社 漆山村  祠掌

         千手堂村   半沢乙卯四良

    神明社  上東山村 祠掌

                半沢乙卯四良

    水神社  下東山村 祠掌

                半沢乙卯四良

 これらの「乙卯四良」はおそらく「き う し ろ」と読むのだろう。つまり久四郎で、四代半澤爲親が祠掌に任じていたことになる。半澤家が敬神家だったのか、その立場上引き受けざるを得なかったのか、その両方か。爲親は明治十年に亡くなるので、任じた期間は数年足らずだった。ちなみに乙卯の年は安政二年で、たまたま宏の生年である。なお、浄土院の墓以外に墓を建てた(健吉や爲邦の個人の墓、爲弘のみの半澤家墓)理由はよくわからない。単に場所が無かったのかもしれないし、上記のように神道関係の役職に就いたので寺を避けたということかもしれない。肝心の為親の墓が無いのも、彼が祠掌だったせいなのかもしれないが、墓碑銘が伝わっているのだからどこかに墓はあるはずなのだが。

 

 時代下って大正十一年に「東南村山教育會」への拠金を行った人々の中に、久次郎と久四郎の名がみえる。この久四郎も久次郎家に近い親族なのだろうが、そのつながりは今わからない。

 

 以上の内容をもとに、半澤家五代から八代までを下に系図化してみる。七代以降は人事興信録などによって、夫人の名や実家もわかるようになる。

 次の記事は半澤家の北海道美瑛開拓についての予定である。

 

 

 

漆山 半澤久次郎家 代々没年考証

 以前の記事「旧出羽村と半澤久次郎(3) 代替わり 2 - 晩鶯余録 (hatenablog.com)」でおおまかにまとめた内容に誤認があることがわかり、さらに詳しい資料を知ることができたので、あらためて記事にする。資料の多くは国立国会図書館デジタルコレクションで検索し読むことができたものである。

 (12月19日、1月11日補記)

 

 半澤家の二代目(二祖)二丘安政三年(1856)一月に亡くなった。二丘は俳号で、名は亀吉のち久次郎である。交流のあった福島県須賀川俳人市原多代女が「二丘老人睦月廿六日なくなりぬと羽人子よりしらせに袖を」と書いている。羽人は四代久次郎為親の俳号である。

 二丘は従来、1770年生まれといわれたが(山形市史別巻2)、襖のまくり(下貼り)の「己酉七十二」という筆記から嘉永二年(1849)に72歳であり、逆算して1777年(安永六年)生まれとなり、没年齢は79歳と考えられている。

 『山形市史』の半澤久次郎に関する記述にはいくつか誤認があり、中でも別巻2生活文化編で二丘と為親を同一人物としているのは諸々混乱のもとになっている。二丘と為親は別々の法名があるので別人なのは明らかである。市史は出羽村役場結城善太郎の著述に依っているのかもしれない。

 山形市史には二丘には(男)子が無かったとある。二丘の後は弟の弥宗二(弥惣治、玉岱)が三代目を相続している。その代替りがいつごろかは未詳だが、当時は大体50歳を過ぎたくらいで家督を譲っているようなので、文政十年(1827)ころかもしれない。だが、弥宗二は天保二年(1831)になくなってしまう。まだ四十代だったろう。二丘が天保十年に高野山にその位牌を収めた時にはまだ院号がなかったという。

 弥宗二没時、その子亀治(為親)は19歳ほどなので、家督を継ぐには若い。隠居の二丘と母(弥宗二の妻(矢萩氏))が支えただろう。そのころ二丘は自分の娘を為親にめあわせる。従兄妹婚になる。しかしこの二人の間にも子が無かった。妻が若くして亡くなったのかもしれない。

 以前の筆者の理解では四代目亀治を為親と別人とし、爲澄の存在を知らなかったため、五代目を為親と誤認していた。

 

 四代目為親の「墓碑銘」全文を『東村山郡史 続編 巻2』で読んだ。この碑は漆山の浄土院境内の墓所には無く、離れた別の墓所にあるようだが確認できていない。

 その墓碑銘文によれば、(下線、朱字は筆者)

 「君諱為親通稱久二郎、羽前漆山之人、通稱彌宗二矢萩氏、君幼不喜嬉戯、年甫七歳從叔父矢萩某學」「天保十四年爲里正」「(明治)十年二月病没、享年六十五」「君無子養弟爲澄」「孝子爲澄建之」

 五代目は爲澄といって、養子で入った弟であることがわかる。為親は没年齢から逆算すれば、文化十年(1813)ころ生まれで、二丘が京都、長崎へ旅をした天保十年(1839)には27歳くらい、里正になったのは31歳くらいとなる。

 

 為親はいつ家督を譲ったか未詳であるが、やはり50歳ころであったとすればちょうど幕末期、文久~慶応のころになる。

 明治維新を経て為親、爲澄の時代の半澤家は、明治六年ころには半澤文庫(曵尾堂)を開く。『山形県農地改革史』によれば、この年立附米四千九百十五俵だったが、実際は六千俵に及んだと言われる。半澤家は江戸時代中期には立附米三百俵程度の小地主だったというが、「文政から嘉永にかけ、農業の傍ら綿商を兼ねていたが、商業に出ては各地の有力者と文化的な交際を結び、一般経済界の見通しを立て、綿商から転じて紅花を扱うこととし近郊から紅花を買集めて上方に売り出した。その計画が当たって資財を蓄え、その余剰資本を土地に投資することとし、一代にして立附米三千俵に増すことができたという。」二代二丘から四代為親の間に村山地方随一の大地主になったということである。地租改正の結果田畑の売買が活発化したためでもあろう。

 明治九年には三条実美大久保利通が立ち寄り(日記には「久四郎宅」とかかれている。この久四郎は爲澄だろう)、明治十二年には立附米四千俵余。四代為親、五代爲澄の二人が当主だった五十年間が、半澤家にとって最も安定した期間であっただろう。

 

 明治十四年(1881)八月、明治天皇御巡幸直前に急逝した久次郎(満52歳11ヵ月)は、従来為親と考えられてきたが、実は爲澄だった。その時の死亡診断書によれば爲澄は文政十一年(1828)十月七日生まれであるから、四代目為親との年齢差は15歳ほどである。なお、この時の診断書には住所が漆山百八十三番地と書かれているのがやや不審である。十四年の明治天皇御巡幸の諸記録では「半澤久三郎宅で御小休」とある。五代目爲澄の相続人は久三郎であり、これが六代目爲傳である。

 考えるに爲澄は半澤久次郎本家に近い血筋から養子に入ったのだろう。

 爲澄の妻キノは61歳のとき(明治27年)最上三十三観音巡礼を行ない、その時の小遣い帖が残っている。付き人の男性がつけたものである。キノが48歳の時、前述のように夫爲澄が急逝した。息子の久三郎(爲傳)は30歳。明治天皇の小休所に決まっていた半澤家は、直前に自宅で父の葬礼をして不都合がないか伺うが、かまわないということだった。兄弟三人助け合って天皇をお迎えしたという。

 

 六代目爲傳は明治三十三年(1900)ころには家督を「令息に」譲って悠々自適していたようだが、明治三十八年(1905)三月には洞翁と改名し、前年十一月に創立した会社「漆山倉庫」の持株をすべて相続人久次郎(亀吉、爲邦)に譲っている。なお漆山倉庫は金銭貸付、倉庫、運送業を業種及営業目的とした会社である。酒田の山居倉庫にならったものだという。

 このころ、久次郎家は北海道美瑛村の土地を貸し下げされ、開拓を始めていることがわかった。これが半澤農場(一時牧場)、今日の北瑛農場である。

 

 「官報 明治38年4月5日 第6525号 合資会社登記変更 一 合資会社漆山倉庫無限責任社員半澤久次郎ハ半澤洞翁ト改名ス  明治三十八年三月三十日 山形區裁判所天童出張所」

 「官報 明治38年4月19日 第6537号 合資会社漆山倉庫登記事項中左ノ通変更ス 一、無限責任社員半澤洞翁ハ其持分ノ全部ヲ東村山郡羽村大字漆山二千五百二番地家督相続人半澤久次郎ニ譲渡シテ退社シ半澤久次郎ハ之レヲ譲受ケテ入社ス  明治三十八年四月十三日登記 山形區裁判所天童出張所」

 

 洞翁爲傳は大正三年(1914)に63歳で没した。その後は七代目爲邦(亀吉)が継いだが、六代目との年齢差が17歳なので、兄弟の可能性も考えられる。

 ここまでを踏まえて下に系図化してみた。

七代以降については下記に続く。

漆山 半澤久次郎家 代々没年考証 その2 - 晩鶯余録 (hatenablog.com)
 

 

『羅振玉自伝』 満洲建国構想

 先日購入した東洋文庫『羅振玉自伝』(深澤一幸訳注)を読んで気になったこと。

 

 羅振玉は光緒二十七年(1901、明治34年)に教育制度調査のため日本を訪れている。1866年生まれだから満35歳だった。滞在は12月末から翌年2月下旬(旧暦11月から翌年正月)までの二か月間だったが、その間様々な場所に行き、いろんな人と会っている。

 その中に東亜同文会副会長の長岡護美子爵(熊本藩細川家十代の六男)との面会について書かれている。ある日、長岡子爵(満59歳)から華族会館に招かれた。通訳一人だけである。子爵は尋ねたい秘事があるので他人を呼ばなかったとして話し出す。

 

 引用開始(中略、下線、色文字などは引用者)

 甲午(一八九四、日清戦争が起こった)より両国が不和になったのは、東方の大不幸である。戦後、日本の国際地位はにわかに高まり、ヨーロッパ人の忌避するところとなった。そのうち必ずロシアと日本の争いがおころう。日本は領土が狭いので、勝てばいいが敗れるわけにはいかない。敗れれば滅亡し、勝っても大いに元気を傷つける。万一ついに戦端が開かれたら、貴国の東三省は両国の衝突の場になる。もし中国の国勢が強盛ならば、この緩衝地帯があって、日本は大いに庇護されるだろう。ただ貴国の国勢ではおそらくこの緩衝地帯を固持はできまい。両国が開戦すれば、日本はなんとか生き残るために、必ずまず貴国の中立を犯すだろう。甲午の戦役で、親睦はすでに一度損なわれたが、どうして再再損なうことができようか。だからこそ戦争を回避せねばならない。今ここに一策があり、特に君にご考慮ねがいたく、どうか一言助言してくださらぬか」…中略…「わが国はこのため元老・枢密院と前から協議してきたのだ。ひそかに思うに、変法は危険なことで、今中国は日日変法を言うが、その得失は一言では言い尽くせるものでない。いたってわかりやすい点からいえば、おそらく民情は不穏になり、国勢は不安定に転じるだろう。どうして貴国皇帝が近縁の王公の賢い者を選んで、奉天に分封し、満・蒙を合わせて一帝国とし、地利を開発し、各国の人材を高官に雇用し、これによって新法の試験場としないのか。変法して善かったなら、中国はゆっくり行っても晩くない。もし善くなかったら、経験として参考にできるし、国の根本まで損なうことはない。わが国は今まさにイギリスと同盟条約を締結しようとしておる。もし新国が建国されていれば、日英両国が国際会議を提案し、この新国を暫定的に局外中立とすることができる。ただ藩属国とすることはできぬ。種々の不便をもたらすだろうから。かくすれば、貴国は変法の危難を免れることができ、日本も日・露の戦争を免れることができ、実に両国有利の事である。この策は本会が提案したのだけれども、実はすでに天皇の同意を得ておる。もし公が善しと思われるなら、どうかひそかに両江・湖北の両総督に告げ、政府と協議していただきたい。しかしこれが誠意から出たものであると君は認めるかどうかわからぬが」。わたしはそこでその策が善く、意が誠なることを誉めそやし、「両総督に力説しましょう」と言い、「もし両総督が善しと思われたなら、必ず公と進め方について相談します。公は両江・湖北に来れますか」と尋ねると、長岡は言った、「よろしい」。わたしはそこで懇ろに今後の事を約束しあった。

 引用終了

 

 wikipediaによると、長岡護美はこの年5月から7月にかけ訪中し、南部の諸総督巡撫らと満州開放・領土保全について議論したとあるが、既にこの件についても中国側に伝えていたものかどうか。その案はもともと東亜同文会の会長近衛篤麿から出て、長岡に託されたものである。来日した羅振玉にまで話すとは熱意のほどが感じられるが、日英同盟の計画まで漏らされているのは秘事というにしては隠密性の面から危ういような気もする。あるいは策が深化した(満洲の門戸開放から建国案へ)のであらためて提示したのかもしれない。このへんの経緯はすでに研究されているのだろうが寡聞にして知らない。

 羅は帰国して劉坤一(両江総督)、張之洞(湖広総督)に報告した。彼らはすでに数か月前長岡と内政改革・ロシア対策について会談していた。両総督はひそかに長岡を招かせたが長岡はこの後病気になり中国へは行けず、代わりに近衛篤麿が行った。武漢で話し合いが行われ合意がなされた。しかし北京の永禄西太后側近の満洲人、その娘は溥儀の母)に打診したところ了承されず、そこで沙汰やみとなったという。劉も張もすでに高齢で、まもなく他界した。

 

 日本はまだ朝鮮併合に至らず、満州事変はさらに三十年後だが、この時期からすでに一部日本人の中には後年の日本による満洲国建国につながる遠大な構想があったということなのだろうか。清国側も同調するような、なかなか面白い東洋平和、対ロシアの構想ではないか。実現していたら歴史はずいぶん変わっていただろう。

 しかしこの前年、1900年の北清事変(義和団の乱)以後、東三省(奉天吉林黒竜江の三省)はロシアに占領されていた。もちろん、アムール川以北は1858年の「アイグン条約」で取られ、遼東半島は1895年の「三国干渉」以後ロシアの租借地となっており、ロシアは南下し続け満洲に勢力を広げていた。当時の満洲にはロシアが軍政を敷いて、容易に撤兵しなかったのだ。その撤兵交渉の最中だから、満洲族の王公が満洲に建国するなど実現困難なことだったと思われる。

 

 この後の政治状況の変化を大雑把に復習してみる。

 

 義和団は1900年6月北京に侵攻、各国公使館は包囲される。日本、ロシア、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ、イタリア、オーストリアハンガリーは連合軍を成して解放に向かう。清国はこの八か国に宣戦布告するが、8月になって北京は八か国連合軍が占領。西太后は北京を脱出し、西安まで蒙塵した。いわゆる「北京の五十五日」であり、その実際は芝五郎中佐の『北京籠城』(東洋文庫)に詳しい。

 清国が義和団弾圧に転じたため義和団は瓦解した。この間、張之洞と劉坤一は西太后の命令に反して義和団を討伐し列強を保護する「東南互保」を行った。 

 1902年「日英同盟」、1904~05年日露戦争の結果ロシアが満洲から撤兵。結局日露の対決は避けられず、互いに数万の犠牲を払うことになった。

 清国は膨大な賠償金に苦しむ。そのツケを民衆に転嫁したため、ついに1911年「辛亥革命」が起き、宣統帝溥儀は退位、南京に「中華民国臨時政府」が誕生する。一方北京の政府も存続し、紫禁城には溥儀が住み続けており、ようやく1913年になって日本を含め列国が「中華民国」を承認した。その後、袁世凱の帝政、北洋軍閥の支配が続き、南方では孫文が数次にわたり「広東政府」を立てる。一つの政府の下に全土が統一されない混乱した政治状況が続いた。1928年には満洲軍閥張作霖が爆殺され、その子張学良が易幟して蒋介石の北伐が完了したが、翌1929年にはロシア革命で成立したソ連が東清鉄道利権問題にかこつけて満洲に軍事侵攻、中国軍と衝突する(中ソ紛争、中東路事件)。中(政府と軍閥)・露・日、三つ巴の勢力争いの中、再び露が南下し朝鮮半島への脅威が迫る状況で、ついに1931年満州事変が起き、関東軍満洲全土を占領。中華民国から独立して「満州国」を建て溥儀自身が満洲国執政となる(後に皇帝)。

 このとき羅振玉は溥儀に代わって外国来賓に挨拶した。清朝の忠臣であった彼の心中はいかばかりであったか。彼は68歳で満洲国の参議府参議となり、叙勲一位、満日文化協会会長などをつとめた。1940年、74歳で没。

 

 満洲は長らく封禁の土地とされ漢人の入植を禁じていた。一方満洲族は中国に移ったため、人口空洞化していた。しかし1860年ころから封禁が解かれ移民を奨励したため、主に河北から、また山東半島から大連に向けて人が移動する「闖関東」が進み、満洲事変頃には数百万人が移り住んでいたと言われる。日本人が入植するのは満州事変以降である。