朝鮮半島における土地制度の変遷 番外 山辺健太郎『日本統治下の朝鮮』

 土地所有の申告書について書いたが、いろいろなところで見る、「申告書が書けなくて無主地とみなされ、土地を取られた」という記述の根拠は何によるのかと考えてみて、山辺健太郎の『日本統治下の朝鮮』岩波新書1971)ではないかと思った。

 「2朝鮮の社会状態、土地調査」の部分から引用してみる。(/は原文の改行)

 

 「そのころの農民は近代法にかんする経験も知識もなかったために「申告」をおこたった者も多い。/申告をしなかった人たちの土地は無主地として取り上げられたのだが、もともと朝鮮には土地の近代的な所有制は確立していなかったから、たとえ慣習上土地を占有していたとしても、土地所有の証拠をあげるとなるとなかなかむずかしく、この証明ができないために土地をとられた人も多かった。ところが、地方の豪族などは村の共有地までも自分の私有地だといって申告したが、これらの豪族たちはたいてい朝鮮の旧官僚だったので、総督府も買収の意味でこれらの人物の申告には特別の便宜をはかっている。」

 「朝鮮人が土地を抵当にして、日本人の金貸しから金を借りて、その金の返済期限を何月何日ときめるとする。この期限はたいてい一〇〇日以内であるが、約束の返済期日時になると時計の針を一時間くらいすすめておく。この奸計を知らない朝鮮人が金を返しに来ると、約束の時間がすぎているというので抵当流れにしてしまうという、ちょっと考えられないようなことが行われていた。/買収による土地にしても、それは普通の買い入れでは無く、腰にピストルと望遠鏡をもって丘の上に行き、手ごろの土地を望遠鏡で見つけると、そこに何某所有の標柱を立て四方に縄張りをしておく、もし所有者が届出をしないときはたいてい標柱を立てた者の所有にしてしまう。/これらのうそのような話は、みな当時の経験者の話としていまも記録にのこっている。たとえば加藤末郎『韓国農業論』や『朝鮮農会報』の「二十五周年記念号」にでている農業経験者の座談会等で、一々引用の煩にたえない。」

 

 引用した部分は読者に強い印象を与える。後段の話など、いかにも酷いじゃないか。最初の申告書については、ずいぶんと単純に書いているが、土地所有者が申告しなかった実際の理由としては、新たな課税を忌避したい心理が主だろう。また「農民」とひとくくりにできない部分を飛ばしてしまっている気もする。駅屯土・宮庄土を占有していた農民については、国有地化の問題があるので複雑である。村の共有地について「豪族」が自分の物として申告したというのも無理があると思う。

 後段の話については、今『韓国農業論』や『朝鮮農会報二十五周年記念号』を読むことが出来ないので、根拠の正確性についてはなんとも言えない。また、実際の土地調査における申告書、結数連名簿(地籍調査とつき合わせる)作成、書類(文記や官契)調査、実地調査(複数の世話人・立会人)という流れをみれば、標柱を立て(一人で立てるのか?)縄張りしただけで日本人のものになるなど考えられない。座談会で出たホラ話か、何らかの誤解が誇張されたものなのではないかと思う。この記述が50年に渡っていろいろな物に転載され続け、私たちの意識の中に、あたかも批判出来ない常識(公式)であるかのように刷り込まれているのではないだろうか。

 追記(令和六年二月四日)

 「朝鮮農会」は大正十五年(1926)一月の「朝鮮農会令」発布によって設立され、『朝鮮農会報』は翌昭和二年(1927)四月に創刊された。したがってその二十五周年といえば昭和二十六年(1951)だが、すでに戦後であり『朝鮮農会報』も無かったはずである。では「二十五周年記念号」とは? 実はこれは併合二十五周年ということで、『朝鮮農会報』第九巻第十一号(昭和十一年十一月発行)の「始政二十五周年記念朝鮮農事回顧座談会速記録」のことであった。この中に「ピストルと望遠鏡を持って」という話が出てくるのだが、詳しくは別に記事にすることにした。

山辺健太郎『日本統治下の朝鮮』批判 - 晩鶯余録 (hatenablog.com)

 国立国会図書館デジタルコレクションで加藤末郎『韓国農業論』を読むことができた。これは明治三十七年(1904)、併合以前の刊行で、内容は統計資料に基づいた農業論であり、当時の韓国農業の実状が詳しく書かれている。山辺の言うような日本人の不法な土地取得の具体的様子などは書かれていない。

 

 著者は戦前の総評、日本共産党に所属し、二度の投獄、終戦時に非転向での解放という経歴の人物で、学歴は小学校卒の在野史家である。

 しかしその視点はマルクス主義であり、日本帝国の朝鮮半島支配は植民地からの収奪が目的である、ということが全ての前提になっている。だから分析は客観的なようでいて、所々観念的な色合いがにじみ出ている。

 

 「金を貸し、期限の日に時計を1時間進めておいて抵当をだまし取る」という話は、1919(大正8)年6月、三・一運動の当時、『時事新報』の記事に「某鮮人の直話」として書かれている話と同じである。これをどう考えるか。同じ話が別の所でも書かれているから真実だろうと考えるか、同じ話が広く流布していた、つまり事実かどうか不明な噂話と考えるか。ただ、当時は詐欺的手段で朝鮮人をだまして抵当を取上げる、ひどい内地人がいたということは読み取れる。

 

 高崎宗司『植民地朝鮮の日本人』岩波新書によると、

 「キリスト教救世軍の士官であった林省三は、朝鮮に渡航して農業に従事することを決心した。そして、(一九)一一年、釜山に上陸し、しばらく釜山鎮に滞在して土地を探した。其の付近にはちらほらと日本人農業者も入っていたが、ほとんどは自ら耕作しない地主であった。知人が言った。「――マァ、そんなに慌てて土地を買いなはんな。わしが、ええことを教えてあげる。――金を貸すんですよ、朝鮮人に。そうして一・二年ほったらかしておくんです。そうすりゃ、金は返してきやしまへん。そのまま田地は流れ込んでくるんです。――」(林)。「所謂貸金戦略」である。しかし、林は自ら耕し、りんごの苗木を植えた。」

 とあり、土地を担保にした金貸しで農地が簡単に取得できると知られていたことが分かる。しかし、これは詐欺とは言えないだろう。もっとも、この当時の移住者で実際に農業に携わる人は稀であった。「第一位が公吏で四六七人、第二位が小間物及び雑貨商で二七四人、第三位が古物商で一二九人、第四位が白米小売商と飲食店でそれぞれ一一五人である。」という状況だった。一山狙いの小狡い者の行いであったのだろう。