1945年8月15日以降における韓国の農地改革(朝鮮半島における土地制度の変遷)番外 3

 そろそろ土地調査事業の結果生じた「朝鮮農村の変化」について書き、1945年以降に移りたいのだが、ちょっと触れておきたいことがある。

 東洋拓殖株式会社から日本人入植者に渡った土地(農地)はどれ程だったかをまとめておこう。

 主として『東洋拓殖株式会社創立期の実態』(大鎌邦雄1972)に拠った。

 

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                紛争地調査の様子 「総督府土地調査事業報告書」より 

 

 東洋拓殖株式会社の設立は1908(明治41)年。出資者は日韓両政府、皇室や韓国帝室が主であった。旧韓国政府からは6,000株、300万円の出資があり。これを田畑各5,700町歩(計1万1400町歩)の現物で出資することになった。これは駅屯土の収入の17倍半で算定したという。17年半分の小作料収入相当額ということだ。日本の地租改正による地価は年収の8.5年分だから、その倍以上に査定したことになる。

 1908(明治42)年、第1回払込額75万円を「駅屯土宮庄土十万町歩ノ中二就キ将来事業経営上最有利ニシテ且優良ナル部分ヲ選定シ田畑各一千四百二十五町歩ノ引渡ヲ受」けた。下線部は当時の等級として上田を選んだということか、あるいは下田でも日本人の観点から将来性を判断したということか。

 第2回以降の分は、払入期日まで「小作料実収額ノ八割」で貸借することになった。

 

 実地調査の結果、畑は管理上不便ということで(何が不便か良く分からないが)水田に交換。結果、田7137.8町歩、畑2793.8町歩、合計9,931.7町歩(若干減)となった。
 ところが、その後の土地調査での実測により、正確な面積を算定したところ、水田1万2522.8町歩、畑4,908.7町歩、雑種地282.4町歩、合計1万7714町歩となった。

 全体的に言えることだが、量案上、斗落・日耕という単位で計測したものには相当の誤差があったこと、隠結が多かったことによる増加である。土地調査事業着手当初、全国で272万余町歩と予想された耕地面積が、実測の結果433万余町歩となった(59%増)のに比べれば、78%の増はかなり多いが、特に駅屯土には隠結が多かったということかもしれない。結果的に東洋拓殖側がずいぶん得したことになる。

 

 この他に、東洋拓殖が自前で買収した土地があり、1909(明治42)年に3,248町歩、翌年6,220町歩、翌々年1万4475町歩を入手し、社有田は1万8763町歩になった。しかし地価が3.7倍に急騰したこと、土地略奪という浮説の流布から東拓の非難もあり、土地買収は1913(大正2)年に中止された。累計4万7148町歩になっていた。

 これらを合わせ、1913(大正2)年の社有田は4万7000町歩社有地は6万5000町歩あった(田畑の他に宅地、山林、雑種地を含む)。次第に土地が増え、1931(昭和6)年には社有田6万3473町歩社有地12万3565町歩になっている。

 東拓が地主である土地を耕作していた小作人は、1918(大正7)年には15万人(社有田5万町歩、単純平均3反3畝)、1937(昭和12)年で7万8667人とあるから、単純に昭和期の東拓所有田を7万町歩とすれば一人当り9反近くになる。(駅屯土時代の小作人数で単純計算した4反の倍以上、大正期の2倍以上である。不良小作人を排除するなどして小作人が相対的に減ったせいか?)小作料は物納(籾)で、定租と執租であった。

 

 一方で1910(明治43)年から、内地からの農業移住者を斡旋、1917(大正6)年までで累計3,021戸が入植した。自作農を主としそれぞれ2町歩以内の農地を年利6分、25年の償還で貸付けたが、戦後まで耕地の所有名義が東拓だった者もいるようで、償還を終え完全に自分の物にするのは大変だったようだ。日本人に売る土地の価格が高いという点も、募集に対する応募者の少なさ(半分から4分の1)の原因だった。途中で帰国してしまう場合もあった。2町歩を3,000戸で単純計算すれば6,000町歩になり、これが移住事業で日本人に与えられた土地となる。『東拓十年史』には「六千二百六十四町歩二達セリ」と記してある。田5,633町歩、畑630町歩という内訳である。

 日本人移住者自体は1910(明治43)年で14万人、1917(大正6)年で33万人だったから、他の業種に比べて農業従事者が少なかった(1924(大正13)年で11.3%)のだ。ただ、自作農でなく地主となって農場経営をする場合もあった。彼らは各自土地売買によって地主となった。日本に比べ田畑の地価が安く、得だったからだ。多くは金貸し業で借金の形に手に入れた場合が多かったようだ。

 

 『東洋拓殖による農業入植者地の立地特性』(轟 博志 2010)によると、

 「2町歩の所有のまま終戦まで推移する場合はむしろ少数で、個別に多様な変化を見せる。周辺の土地を買収して規模を拡大する場合、さらに大地主となって小作人を雇い「農場」を形成する場合、現状維持とする場合、土地台帳から名義が消えて「消滅」する場合など、たとえ同じ出身地から同じ団体を結成して移住した場合でも、土地所有の変遷は十人十色である。」「東洋拓殖では入植者が耕作規模を拡大する場合に融資や社有地の斡旋を行っていた。通常入植地周辺には東洋拓殖の所有のまま地元農民と小作契約を続けていた農地が豊富に存在したため、そうした土地が対象となった。また、一部の入植者は地元の朝鮮人や日本人からも直接土地を譲受していた。」「彼らの中にはソウル(京城)など大都市に転居し、不在地主となった場合もある。一方で「消滅」した場合は、何らかの事情で内地に戻ったり、都市部などに転居・転業した場合と考えられる。」

 

 こうして東洋拓殖が行った拓殖移住事業は挫折し、日本人入植者に与えた農地は意外に少ない面積でしかなかった。もっとも最初に駅屯土を出資金として譲られたときも、そこで代々耕作する小作人がいたわけで、彼らとの契約を打ち切らなければ日本人に売り渡すこともできなかった。日本人入植者は荒蕪地を開拓するより、すぐに耕作可能な土地を希望した。

 品種改良、農地改良に貢献した東洋拓殖だが、この後、金融面に事業を移して行く。

 

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      上は第4回移住民の釜山港上陸、下は全羅南道の第2回移住民の家 「東拓十年史」より

 

 日本人の土地収奪という根拠には、土地調査事業中に地主からの申告が無く、無主地として接収した土地が2万数千町歩あり、これを総督府が日本人に払下げたため、30万人の朝鮮人が土地の所有権、耕作権を失ったということがある。これが後々まで恨まれる原因となったということだ。なぜ申告しなかったか。理由は様々だろうが、彼ら地主(両班層)が文盲だからできなかったというわけではないだろう。

 

 終戦時、米軍によって東洋拓殖会社は解散させられ、新に設立された「新韓公社」がその土地を管理した。直ちに農地解放はせず、小作料を3割に下げて地主制度を継続した。米軍が接収した土地は32万町歩とも38万町歩ともいう1942(昭和17)年に日本人が所有していた土地は41万7094町歩というから、終戦直後、米軍進駐までの3週間に朝鮮人に投げ売りした土地が多いと思われる。この辺も「親日派の財産」ということになるのだろうか。