1945年以降における韓国の農地改革(朝鮮半島における土地制度の変遷)その18

産米増殖計画 その3

水利組合

 

併合以前の灌漑状況

 併合期、朝鮮の水田(畓 )は、総面積の四分の三が「天水畓」で、降雨による水源に依存していた。そのため頻繁に旱魃となり、「三年一作」(満足な収穫は三年に一度)と言われていた。昭和3(1928)年8月の『大阪毎日新聞』記事「朝鮮米の宝庫 全州平野を見る」より全羅北道の状況を引用してみる。神戸大学経済経営研究所  新聞記事文庫)

 「全州平野における水田の約四割というものは 天水のみによる いわゆる白田であつて 農作の豊凶は 一に天候の順否にまつのほかないものである。残りの六割といへども堰堤その他により辛うじて水利の便を有するに過ぎない程度のもの 如何に農民が努力したとて 灌漑水がこの状態ではどうすることも出来ない。」

 米作の中心地である全羅北道にしてこのような状態だった。灌漑水路が引かれず、水田の高さより川や溜池の水面が低ければ、人力で「マットゥレ」や「ヨンドゥレ」などの用具(バケツのようにすくい上げるもの)を用いて揚水していた。水車は無かった。

(足踏み式の水車で揚水している写真が「釜山でお昼を」のサイトにありました。無断転載不可なのでURLを載せます。写真手前の人が操作している用具がヨンドゥレですね。共進会・博覧会 釜山 京城 韓国 日韓 (chu.jp))「朝鮮物産共進会8」、大正水利組合関連の頁。

 以前に存在した「堤堰」(=堰堤、溜池・小規模ダム)、「洑」といった灌漑設備も、李朝末期には荒廃していた

 『李朝後期の農業水利』(宮嶋博史「東洋史研究」1983)から孫引きしてみる。

 「中宗の代(16世紀前半)より四百年の間 一般の秕政に伴ひ 漸次荒廃に帰し 近頃迄残存せしもの 堤堰六千三百余 洑二万七百余を算したるも 其の大半は十分の用を為さず」朝鮮総督府土地改良部編『朝鮮の土地改良事業』)

 李朝後期18世紀の英祖、正祖代には水利の発展がみられたが、19世紀に入ってまた衰退したという(李朝水利史研究』李光麟1961)。堤堰の開発には国家の関与が大きく、国政の混乱によって堤堰は減少した。メンテナンス(山谷型の溜池に堆積する土砂の浚渫、堤の補修)が行なわれず、堤堰の用を果たさなくなり、廃棄されるのだ。

 洞・里単位の水利契で対処できる規模の工事ではなかったのかもしれない。

 

 宮嶋氏は韓国の南部、慶尚道全羅道の水利設備について、邑誌などの文献に当たり実証的な研究をしている。李朝における水利事業の程度には地域的に差があり、道によって設備の質、量が違っていた。古く新羅の地だった慶尚道は、その頃から農業に熱心で水利設備も多かったという。その傾向を近代に引き継いでいるという。

 

併合前後の堤堰・氵伏の修築状況

 総督府統計年報によれば、大正2(1913)年3月に、全道で3,735の堤堰と9,386の洑があった。これらの修築はほとんど行われず、明治42(1909)年に10ヶ所、43年に2ヶ所に過ぎなかったが、併合後は、明治44(1911)年に63ヶ所、大正元(1912)年に270ヶ所、2(1913)年に340ヶ所と修築は急増した。

 

水利組合の沿革

 水利組合の歴史について、朝鮮総督府土地改良部編『朝鮮の水利組合』(昭和4(1929)年)にはこう書いてある。(下線は筆者)

 「水利組合の制度は明治三十九年(光武十年1906)の水利組合条例に肇まり 明治四十二年(1909)の交 全北慶南等に二三組合の成立を見たりしが 条例の内容簡略不備にして 且 政府の保護奨励も亦極めて薄く 其の普及も少なかりしが 併合後 諸般行政の著しき発達に伴ひ 水利組合事業も勃興の機運に向ひしかば 大正六年(1917)旧法を廃し 新に水利組合令を制定し 組合の制度に一段の整備を加へ 以て時代の趨向に順応せしめたり 而して当初水利組合の設立目的は 灌漑、排水及水害予防のみに限定せられたるも 昭和二年(1927) 朝鮮土地改良令の制定に伴ひ 水利組合令に一部の改正を加へ 土地の交換、分合、開墾、地目変換其の他区画形質の変更又は道路、堤塘畦畔、溝渠、溜池等の変更廃置等の事業をも 組合の目的と為すを得るに至れり。尚 之と同時に 灌漑排水等土地改良を目的とする水利組合に在りては 当分の間 組合区域内の農事改良に関する施設をも行ひ得ることとし 組合の事業経営を容易ならしめたり。」

 「而して是等の施設は 農民の民度低く 且企業に対する経験に浅きのみならず 地方行政団体其の他の現状に鑑みるときは 極めて小規模のものを除きては 公共団体足る水利組合の企業に依るを最便とす。」

 

「水利組合」の管理下にあった水田の広さ

 『朝鮮の水利組合』によれば、大正6(1917)年、水利組合令発布以前に設立された組合は10箇所、その面積は2万3千522町歩に過ぎなかった。

 昭和4(1929)年には、朝鮮内127箇所に「水利組合」があり、蒙利面積は17万8千982町歩あった。これは当時の総水田面積およそ158万町歩の11.3%にあたる。

 水利組合の管理下にあった水田の、総面積に対する割合は1920年代にはかなり低かったことが分かる。

 

水利契と水利組合(それぞれの水田面積)

 極めて小規模の堤堰や洑は旧来の「水利契」によって管理運営されていたと考えられる。契については、以前紹介したように洞里の有力者が長となっている。

 「植民地期には水利組合という近代的法制度にもとづく水利組織が発達するが、それでも、慣習的な水利組織による灌漑面積が水利組合によるそれを一貫して上回っていた解放後の韓国において、慣習的水利組織は制度上、地方行政団体(市・郡)の管理下におかれるが、実質的には慣習的水利組織(水利契)が維持管理をおこなった。第2図に示したように、水利組合の後身である農地改良組合による灌漑面積が拡大していっている。しかし、市・郡管理(水利契および個人施設)の灌漑面積を上回るのは1980年代中葉のことであった。」(『韓国における農業水利組織の改編過程ー公共性と協同の相剋ー』松本武祝「歴史と経済」2008

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 第2図をみると昭和30(1955)年の水田総面積は120万㏊(町歩)。その内「水利安全田面積」(灌漑水田)は50万町歩強なので、全体の半分以下、45%ほどであった。この内「水利組合」を前身とする「農地改良組合」(1962年名称変更)の管理する水田は20万町歩強、慣習的水利組織(水利契)を前身とする「市郡管理組織」の管理する水田は30万町歩強である。水利組合の占める割合は思ったより少ない。つまり水利組合員となった朝鮮人農民の数も同様であろう

 

 昭和15(1940)年の『総督府統計年報』で「土地改良事業」の項目を見ると、灌漑水田面積とその経営別面積が載せてある。単位は町歩で1町歩以下は四捨五入した。

        灌漑畓  天水畓     水利組合 共 同   個 人   その他

 昭  9(1934) 1,147,308  538,629    204,127  563,793  327,871  51,517

 昭15(1940) 1,260,727  497,944    230,179  592,515  342,922  95,111

  増 減    113,419    40,685           26,052       28,722    15,051  43,594

 天水田が減少しているが、それ以上に灌漑田が増えているのは開墾、干拓によるのだろう。

 経営者が「共同」とあるのが旧来の水利契などであろうか。個人には日本人地主が入っているか。

 「水利組合」と「共同」の経営面積割合は、おおよそ「1:2.6」で、共同の方が多い。

 

 昭和15(1940)年の水田総面積はおおよそ175万9千町歩であり、灌漑畓126万町歩はその約72%であった。灌漑水田は昭和4(1929)年から昭和15(1940)年までの11年間で急速に拡大したことが分かる。

 

 第2図の灌漑水田面積割合、昭和30(1955)年の45%という数字は、半島南半分の大韓民国についてだけの資料である。

 敗戦前の38度線以南の水田面積は今正確には分からないが、127万町歩程度か? (ブルース・カミングスの『朝鮮戦争の起源1』には、解放後に北朝鮮が農民に配分した土地の広さが載せてあり、それは94万3千820町歩である。単純に引き算すれば南側は81万5千180町歩になるが、南側が少ないのでは矛盾する。北朝鮮の数値はおそらく水田・畑・宅地などすべてを含めたものだろうから、水田のみに限ればもっと少ないはずだ。)

 昭和30(1955)年の韓国の統計では総面積も灌漑水田の割合も併合期よりかなり減少している。それは確実に朝鮮戦争の影響だろう。水利施設も大分損壊していたと思われる。

 日本敗戦後の混乱の中で、水利組合も朝鮮人の手に引き渡されたのだろうが、その後の運営、いろいろな融資、債権関係はどうなったのだろうか。

 

水利組合事業の担い手

 『朝鮮の水利組合』冊子は大半が組合の一覧表と水利事業の写真である。その写真に見る数々の大規模な干拓用堤防、灌漑水路、貯水池や動力揚排水機などは近代技術の粋であり、耕作地の拡大と反収の大幅増収を可能にしたことが納得できるのである。

朝鮮の水利組合 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)

 

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 これらの事業を担ったのは誰かと言えば日本人大地主であった。

 昭和3(1928)年8月の『大阪毎日新聞』の記事「朝鮮米の宝庫 全州平野を見る神戸大学経済経営研究所  新聞記事文庫)を引用する。下線筆者。

 「不二全北農場の如きも、往古存在した貯水池の荒廃によって連年旱禍水害相ついだために、農民は疲弊の極各地に流亡し、大部分の地は蘆萩の繁茂に委せてあつたのを、明治三十八年藤井寛太郎氏によつて買収されたものである、自来この瘠薄荒廃の地に農業技術員を配置し、優良籾種の供給、自給肥料の増産改良、水利の改善等に鋭意努力したのであつた。其結果不毛の沼沢も大正三年頃には籾一石二斗内外の収穫を得るに至り、更に十二年後の大正十五年度には二石四斗の収穫を見たのである。米作収入の増加によって著しく生計状態を持ち直した農民は副業の奨励により一段とその経済状態を改善し得たのである。」

 

 上記内容は水利組合とは言えないが、併合以前、既に日本人大地主が朝鮮の土地を購入し、大規模な農業開発を行ったことがわかる。この全北農場は昭和の初めには1千2百町歩ほどあったので、耕作者も500人以上はいたのではないか。その多くは、朝鮮人地主が土地を売り払う際に在住の朝鮮人小作人が同時に雇われたということなのだろう。

 当時の朝鮮は地価が安く、小作料収入が大規模投資に見合う利率に相当するものだった。事業は反収の增加により農場耕作者の生活水準を格段に向上させた。

 

 「大正十四年以降四ヶ年間に国有未墾地の開墾に着手すべく貸付けられたるもの水田千七百町歩、畑千百町歩、公有水面の干拓を免許されたるもの水田一万二千町歩、畑六十六町歩という盛況である。」

 「全州平野における産米の増加は しかく役人の手を煩わさずに行われておるところに強みがあり真剣味がある。ほかでもないそれは内地人大地主の持つ勢力である。この勢力が全州平野を開拓し その農業を開発したのである。大正十四年末調べによる 千町歩以上の内地人地主を挙ぐるも

 一、五九九町歩 東山農事株式会社

 一、五七一町歩 石川県農事株式会社

 二、九七八町歩 熊本農場

 二、一二六町歩 右近商事株式会社

 二、二九二町歩 多木農場

 一、三七一町歩 細川侯爵家農場

 一、二七一町歩 不二興業全北農場

 一、一五二町歩 株式会社橋本農場

 というように八名を数える。五十町歩以上の内地人地主に至っては六十三名の多きに達する。これらの人々が農事改良の先駆となり、産米増殖の原動力となっておるのである。またこれらの農場こそは 明治三十六、七年 国情騒然たるころ すでに投資開発されたものであって 朝鮮開発史の一頁を飾るに足るものなのである。

 沃野二十三万五千町歩(筆者注、全羅北道の田畑面積。水田のみでは18万9千町歩ほど)、この一割八分に当る三万九千七百五十町歩が内地人によって投資営農されるのであるがこの地主たちは自己の収入を増やすために、寧ろ官憲よりも熱心に真剣に、農事の改良を図りつつある。それがやがて鮮人を導き 全北の米作をして長足の進歩発達をなさしめた。試みに総督府が発行する朝鮮要覧のページを繰って見よ。現るるものは不二農場村の写真であり、益沃水利の写真ではないか。また群山港に堆積さるる米穀移出の盛況が読者を驚かすではないか。これらはいづれも大地主が組織的に農業を経営するようになってからの産物なのである。」

 

 全羅北道23万5千町歩の2割弱が内地人地主の経営する農地というのである。これら大地主は、既に内地に於て田畑を買い集め、或は開拓、開墾、干拓して農地を作り、そこからの地代(小作料)を資本として大規模な営農に乗り出していた。

 日清戦争後、内地に比べ格安な朝鮮の土地を買い、地主になった。併合以前には、法的には外国人の土地買収は認められなかったが、事実上制約が無い状況だった。この時期には朝鮮人地主から既墾地を購入していたのだろう。朝鮮では地価が低く設定されたため、内地に比べ耕地の値段が安かった。そこからの毎年の収穫高=小作料をみれば、ずいぶん高利回りの投資だったようだ。

 併合後は、土地調査事業によって確定された国有地の払下げ、貸付けを受けた。