1945年8月15日以降の韓国における農地改革(朝鮮半島における土地制度の変遷)その10

小作権・耕作権について考える

 

 再再度、「韓国における農地制度の変遷過程と発展方向」からの引用

 引用開始(記号、下線は筆者)

 

 2.日帝下の農地制度

 朝鮮の土地制度が封建的土地制度から近代的土地所有制度が確立するのは、日本の植民地下で実施された朝鮮土地調査事業からである。日本は朝鮮農業を支配するために、1918(大正7)年10月まで全国を対象とした土地整理事業を実施した。土地の私有制度の確立を目的とする土地調査は、土地所有権の所在調査、土地価格の調査、地形及び規模の調査など3項目に関するものであった。

(中略)

 3)土地調査事業が実施される以前は、ある程度農民が永久的に土地を耕作する権利がみとめられたが、土地私有制度が確立し、地主に対する小作人の立場が次第に弱まった。小作人は耕作期限を延長するために、地主に現物と労働力を無報酬で提供することも多くみられるようになった

 小作契約は口頭契約と文書契約があり、南韓地域(韓国)での小作機期間は1年が一般的であった。小作料は、生産量の30~70%で現物地代が主流であった。このように4)土地調査事業は、従来の土地地主関係を法的に再確認しただけではなく、耕作権さえ不安定なものとし、新たな地主・小作の関係を形成することになった。これによってわが国の農業は、発展的な転換点を迎えるのではなく、小作紛争が頻繁に起こり社会的不安が高まる契機ともなった。

 

引用終了

 

 下線部 3)、4) について。

 これまでも少しずつ触れてきているが、総督府による土地調査事業の結果、小作人の耕作権が不安定化したという論点について考えてみる。

 「土地調査事業以前は、ある程度農民が永久的に土地を耕作する権利がみとめられ」ていたとあるが、それはどういうことか。李朝は公地公民制だったが、その末期には実際上土地は私有化され、売買されていた。しかし建前上からも正式な売買契約のようなものは無く、所有関係も曖昧な土地が多くなっていた。また、隠結が大幅に増えた結果、国庫収入は激減していただろう。

 土地の私有化、土地税の金納化が行われる中で、従来の地主・小作人関係はどう変化したか。土地の所有者が納税者となったが、小作人は小作料を物納するままだった。

 これは日本の地租改正時の状況と同じだろう。日本では封建領主の下、村請制から個々の土地毎の納税となった。領主から領地が公債と引き換えに召し上げられ、それぞれの地主の所有物となった。納税先は各藩領主から政府に変わった。農地と違って町屋の場合は課税されていなかったが、同様に課税されるようになった。

 では封建領主がいない朝鮮に於いて、小作制度はどのようになっていたか。1922(大正11)年12月の『京城日報』記事「朝鮮の小作制度について(一~四)」から分類表を作ってみた。(なお〔代土〕は「垈」の一字で、沼田あるいは宅地を表すようである) 

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 『小作問題と朝鮮の小作制』(河田嗣郎1925「経濟論叢」第20巻)によれば、

 「定租法とは年の豊凶に拘らず年々一定額の小作料を納むるものであって、(中略)主として畑地に行はれ水田に行はるる場合は少い。即ち朝鮮に在っては水田の灌漑排水設備甚だ不十分で、従て降雨量や出水量の多少に依り年々の作柄一定せず、然かも小作人は貧弱なるものが大多数なるために、自ら作柄の豊凶に依る業務上の損害を一身に引受くるだけの力なく、やはり歩合小作制として豊凶共に一定歩合とするを便宜とするから、定租法は水田には行はれ難く、ただ水利設備の完全な所のみに於いて行はれるに過ぎぬ。定租法に於ける小作料決定の標準は平年作の三割五分乃至五割とせらるが、普通五割見当なのが多いようである。

 執租法とは、検見法、看坪法などとも称せられ、毎年作物の登熟前後に地主又は其の代理人小作人立会の上、立毛のままで収穫量を査攷して其の年の小作料を定める方法である。そしてその検見の方法は坪刈等に依って行はるれば公平に行はれ得るけれど、斯かる手数を掛けるを好まず、大抵は目分量で行はれる。執租法に於ける小作料は、歩合に依り折半を原則とすれど、検見の際、とかく見積りは実収以上に査定せられ易いから、小作料は実収額の五割を超ゆる場合が少くない。其代り又地主の寛大なる者に在っては実収量の五割以下なる場合もある。此の方法は簡便で又貧弱なる小作人には豊凶に依る企業上の危険が少いから、水田に於いては最も広く行はれて居る

 打租法とは、刈分法とも称せらるるものであって、地主又は其の代理人小作人と立会の上、実際収穫の行はるる時に、刈取られたる稲束の数によるか、然らざれば打穀調整の行はるる際に出来上がりたる穀物の分量に依て、之を折半するもの之である。(中略)打租法は小作方法としては最も幼稚な方法だけれど、貧弱なる小作人に取っては最も公平なるを得る方法と考えらるる。」

 

 さて、小作人の「耕作する権利」とはどういうものか。たとえば、耕作地の利用について、裏作も含めて栽培する作物の選定からすべての過程が小作人の自由に任されるような場合。小作人が完全に利用権(地主権)を持って自由に土地を使っている。地租も小作人が負担する。果ては二次小作に貸し出したり、耕作権を売買することも可能な場合がある。これを「永賭」と称している。

 この「永賭」の農民が、土地調査事業の結果、地主になれず小作人に成り下がったという場合、その人数はどれくらいあっただろうか? これを知る資料は、今見当たらない。ただ、上と同じ記事から各道での小作形態のおおよその傾向を分類しているので、そこから類推することができる。

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 上の分類は水田(〔水の下に田〕の一字)に限ってのもので、畑〔田〕ではほぼ全域で賭只である。

 こうしてみると、「永賭」の行われている地域は、国全体から見ればごく一部の地域であったことが分かる。とすれば、ほぼ地主と同等の権利を持っていた農民が小作人に転落した例というものも、全体から見ればごく少数だったと想像できる。

 同じ『京城日報』記事では、

 「永賭とは謂わば賭只の一種で、十年間又は永久に賭額を一定し地主権は小作人の任意に使用するものである。垈、煙草、人参、其の他特用作物を耕作する田(畑)に多く行われ、地租は小作人が負担することとなって居る。又小作人が地主権を「禾利」と称して他に転売することができるのである。」

 「処で朝鮮には内地に於ける永久小作の如きものは存在して居らぬのである。往古職田に於ける遺風として永賭と称する永久小作の制があり、地主は其の土地の収穫物より僅かの分配を受くる権利を有するのみで、恰も永賭小作人は第二地主の如く土地を自由に期間までは売買することが出来得たものである。是れ等は何れかと云えば小作権と認むるよりは寧ろ一種変態の所有権であろう。然し今日は法規上斯かる変態のものを認めざるようになったけれども実際に於いては猶永賭の名を以て関係を継続するものがあるようである。」

 とある。

 また、『小作問題と朝鮮の小作制』(河田嗣郎1925「経濟論叢」第20巻)によると、

 「特殊小作制と見らるべきものの中には、先づ『永小作制』の挙ぐべきものがある。これは永年の小作慣行に依り、小作人は地主の意思に独立して自由に小作権を売買譲渡するを得るものであって、地主は小作人に於いて著しき不都合なき限り、相当の賠償を為すにあらざれば小作地を取上ぐるを得ざるものである。然しその小作権は新に設定せられたるは少く、多くは昔時から永続的に小作の行われたるに依るもので、従て其の権利の法律的に十分確定して居るのは少ない。そして永小作に在っては小作料は普通の小作料より稍々低廉である。其代わり小作人は租税・水利費等を負担するを例とする。」

 とある。新字体に直してある)

 地租を負担し、小作権を売買できるというのであれば、その農民の自覚としては地主であるのとほぼ変わらないだろう。しかし土地調査事業の趣旨からすれば、本来の所有者は元々の地主とするしかなかった。当然、紛争が生じただろうが、そこで地主と永小作人がお互い話し合って収まる(多くは耕作者が買い取るのだろう)場合も多かったようだ。

 

 永賭でない、一般農民の小作権・耕作権はどうなっていたか。一般的には、一年間を期限として口頭で約束をしていたようだが、特に問題が(小作人が亡くなったとか、農地が災害に遭ったとか)無ければ翌年以降も小作は続けることができた。したがって、何年も耕作し続けている場合が多かったのだろう。ここから小作人に小作権・耕作権があったとみることもできるだろう。従来の地主・小作人関係が維持されたわけだ。

 しかし又、この期限が短期間で、また不安定であることから、先に見た「舎音」の横暴、すなわち任意に小作人を換えるということがあった。実際に換えられてはたまらないので、小作人は舎音の機嫌取りに奔走することになり、結果としては小作が続けられたのだろう。

 こういう搾取の最末端の小作人は、土地調査事業の結果どのような影響を受けただろうか。中間搾取者たる舎音や中間(二次)小作人はすぐには無くならなかった。零細小作人には小作権・耕作権のような意識はありようも無く、生きるために最低限の土地で耕作する以上のことは考えられなかっただろう。ここには大きな変化は無かったと思われる。それは同時に地主についても言えることだろう。

 「土地調査事業」は「農地解放」ではなく、正確な土地測量による地籍の整理、所有関係を整理して納税者を確定することが目的だったのだから。

 

 土地調査事業で土地所有関係が整理されて大損したのは、本来国有地だった土地を私有化し、世襲で受け継いできた両班や官僚層だったろう。彼らの不満が紛争の中心であり、大部分だった。その場合、実際の耕作者である小作人においては、地主が国に変わったということであり、耕作地を奪われるということではなかった。そして国(総督府)は自作農創出のための払い下げを、小作人に対して行っていた。

 こうしてみると、朝鮮の農民から土地を取り上げて日本人のものにしたというのは「神話」のようなものではないのか。

 

 金達寿『朝鮮―民族・文化・歴史―』(1958、岩波新書では、

 「いわゆる土地調査といわれたものであるが、それによって朝鮮の農民はほとんどハダカにされてしまった。「元来、朝鮮には土地の近代的所有はなかった。広大な土地が王室・宮院・官庁・書院・両班に属し、全体として官人層が土地に対する支配力を持っていたが、かれらは土地の管理をせずに収穫だけを取り、管理は舎音という差配にまかせ切りであり、しかも舎音が何段にも重って中間で搾取し、収租の権利の主体すら明白でなかった。一方土地を耕す農民は代々土地を耕してはいても、奴婢あるいは無権利な常民であって、その土地を自己のものとするまでには成長していなかった。土地所有そのものが未熟な状態にあったのである。したがって土地所有を証明するに足る文書・記録は整わず、面積の単位は区々であり、土地の境界もあいまいであった。また同族や村落の共同所有地が多く、その場合には所有者を見出すことも困難であった。このような状態は、日本人が詐欺的手段で朝鮮人の土地をまき上げるには好都合であっても、土地の自由な売買や土地所有の安定性は著しく妨げられていた。」(旗田巍『朝鮮史』)/要するにオクれていた、といえばそれまでのようであるが、つまり、こういう状態につけ込んで武断統治の府である総督府はそれらの土地を、しかも九年間もかかってすみずみまで洗いざらい片っぱしからとり上げたのである。其の結果、「土地調査は近代的土地所有権を強力的に成立させ、それによって日本人の土地取得は保証されたが、大多数の農民は生活の地盤を奪い去られた。耕地も山林も失った人々は、新に地主と小作関係を結ぶか、故郷を捨てて放浪せねばならなくなった。(後略)」(旗田巍『朝鮮史』1951、岩波全書)のである。」

 と、旗田巍の文章を引用して述べている。

 しかし、これはここまで見てきた経過からすれば、事実の前後、因果関係を相当飛ばしているようである。「九年間もかけて洗いざらい片っ端から取り上げた」というのは、表現、イメージとしては強く訴えるが、実際にはあり得なかったことで、ほとんど徴用工、挺身隊について語られる時の類のものに近い。(日露戦争時などの軍用地接収については強制的なものがあっただろうが。)

 

 金達寿の家は両班で、併合前は地主であった。

 「「五十里(日本の五里)四方他人の地を踏まず」というくらいだった。それが「数度にわたった土地調査によってだんだんと削りとられ」「それまでは特権的な旧官人で自身働くことはもちろん、農業経営のことは何も知らなかったから、没落はなおもつづいて祖父の代から父の代となり、一九一九年私金達寿が生れたころにはこれはもう、完全に没落しかけていた。」「私がはじめて目にした日本人というのは、家へ来る高利貸しであった。彼は家のものや村の人々からはトクとよばれていたのをおぼえているが、彼は、いつも二重まわしを羽織って猟銃を手にしていた。/私はいまも、このトクさんの顔と姿とを目の底にのこしている。というのは、彼が訪れてくるたびに、必ず家では騒動がおこったからである。収穫をおえたばかりの籾俵が、半狂乱のようになって引きとめる祖母の手をはらいのけてそのままどこへともなく積みだされ、そのあとからは、きまってこれまた父と母とは夫婦げんかをした。」

 絵に描いたような両班の没落と言えようか。特権階級にぬくぬくとしていた、実は無為無能だった彼らは、今まで無関心だった、舎音に収奪される小作人と同様の恐怖を味わったことだろう。彼らの抱いた被害者意識は、相当激しかったに違いない。

 「数度にわたった土地調査」というのはよく分からない。

 

 「この私の一家は、そのほんの一例にすぎない。こうしてハダカにされた朝鮮の農民は、北方のものは主として中国・満州へ、南方のものは日本へと安価な労働力となって流れ出た。」「早いはなしが日本にはいまもなお六〇万といわれる在日朝鮮人がのこっている。これらはもとをただせば、ほとんどすべてがあのいわゆる土地調査によって土地を奪われた農民であり、その子たちなのである。」金達寿、同書)

 と言うが、没落両班(地主)の末路生活に窮した小作農民とを一緒にして「奪われた」と語るのは、土地調査事業についての理解を混乱させるものであろう。