1945年8月15日以降の韓国における農地改革(朝鮮半島における土地制度の変遷)その6

③ 併合以後の土地制度

 

 再び「韓国における農地制度の変遷過程と発展方向」から引用してみる。

  引用開始(記号、下線は筆者)

 

 2.日帝下の農地制度

 朝鮮の土地制度が封建的土地制度から近代的土地所有制度が確立するのは、日本の植民地下で実施された朝鮮土地調査事業からである。日本は朝鮮農業を支配するために、1918(大正7)年10月まで全国を対象とした土地整理事業を実施した。土地の私有制度の確立を目的とする土地調査は、土地所有権の所在調査、土地価格の調査、地形及び規模の調査など3項目に関するものであった。

 当時の土地調査事業は、申告主義を原則としたものであったために、1)実際の耕作者であった多くの農民は、期限内に申告することができず、膨大な朝鮮王朝の所有地が日帝朝鮮総督府の所有地として転換された。土地調査事業の結果、2)我が国の総土地面積の中で、国有地は6%に過ぎず、残りの94%は私有地として確定された。また、土地地主階級として登場した両班官僚層は、全農家の3.4%、全体農地の50%を占めることになった

 3)土地調査事業が実施される以前は、ある程度農民が永久的に土地を耕作する権利がみとめられたが、土地私有制度が確立し、地主に対する小作人の立場が次第に弱まった。小作人は耕作期限を延長するために、地主に現物と労働力を無報酬で提供することも多くみられるようになった

 小作契約は口頭契約と文書契約があり、南韓地域(韓国)での小作機期間は1年が一般的であった。小作料は、生産量の30~70%で現物地代が主流であった。このように4)土地調査事業は、従来の土地地主関係を法的に再確認しただけではなく、耕作権さえ不安定なものとし、新たな地主・小作の関係を形成することになった。これによってわが国の農業は、発展的な転換点を迎えるのではなく、小作紛争が頻繁に起こり社会的不安が高まる契機ともなった。

 

  引用終了

 この併合期に関する短い記述の中で、「併合以前(李朝末期、大韓帝国期)」のことと「併合後」のこととが前後関係不分明に書かれてあり、因果関係が転倒しているように思われる部分があるので、そこを明確にしなければならないだろう。

 併合後については、朝鮮総督府による「土地調査事業」がほぼすべてであろう。この土地調査事業については様々論じられているが、基本的な資料として、総督府のまとめた詳細な報告書国立国会図書館デジタルコレクションで全文読める)があるので、その一部を読んでみた。その簡易版のような『朝鮮の土地調査』(友邦協会1966)も読み易いので利用した。

 併合以前の田制の変遷については、朝鮮総督府発行の『朝鮮田制考』(1940、国立国会図書館デジタルコレクション)に詳細な原資料とともに説明してあるが、今一部しか読めていない。後で引用する。

 

 まず、下線部1)前半の「申告制」の弊害についてだが、そもそも併合以前の「量田」(量案〈課税台帳〉作成のための土地調査)も申告によって行なわれていたので、申告制に問題があれば、以前から同じような不都合があったのではないか。

 1898(明治31)年には大韓帝国によって全国土(耕地に限らない)の土地調査が行なわれた。この時作成された「光武量案」では、絶対面積単位として「斗」を導入し、無主田を一掃し、所有者の一人一姓名制をとり、所有者(時主)と耕作者(時作)の調査も行なわれた。この時、量案と明文(文記)を基礎に、「官契」という官から所有権者への所有権証明書を発給した。この量田は完成しなかったが、1910(明治43)年からの総督府の調査の前に、農民は類似の調査を経験していたとも言える。

 土地調査事業での申告から調査への手順の実際は、「土地所有者をして、まず土地の所在、地目、字番号、四標、等級、地籍、結数を申告せしめ、一筆毎に境界に所有者名及び地目を記載した標識を立てさせる。これらの世話は、部落の土地所有者が選任した総代二人以上が当たることになっていた。そして実地調査の際は、必ず所有者またはその代理人、利害関係人を立ち会わしめ、調査員は申告書と標識を照合して調査し、地盤を測量する。」というものであった。

 

  f:id:hibino-bonpei:20210111230252j:plain

     「土地申告書」(『大韓帝国日帝初期における土地帳簿とその性格』崔元奎より)

 上の朴允根の申告書を見ると、彼は少なくとも5筆の水田を持つ地主である。1斗落は150~300坪(畝)というから、1反以下の広さである。同じ1斗落の面積でも、水田の等級(上の例では未記入)により課税対象の収穫高(結数)が違っている。記入する項目は量案の場合とほぼ同じであり、期限内に書けないものではなかったと思う。土地調査事業初期の頃、新たな課税を嫌って申告をためらう傾向はあったようだ。

 

 まず申告者はその土地の所有者でなければならず、小作人はそもそも申告できない。(しかしこの「所有者」の特定が難題だった)自作農の場合、仮に申告に手間取ったとしても、世話人たる部落(洞里)の総代がこれを無視して進めるとは思えない。これら世話人、立会人が地主側の者ばかりで、当の小作者たる農民を除外して行なわれたように解釈する向きもあるが、当時の朝鮮における農村共同体の結びつきからみれば、そんなことができるとは思えない。

 土地申告書以前に、1912(大正元)年に地主の申告により、まず納税者である所有者の確認のための「結数連名簿」を作成した。納税管理者・地主の住所姓名、土地の所在、字番号、地目、面積、結数、結価、税額などを記入する。これが基本資料になる。総督府は、結数連名簿に誤記、遺漏が無いようにと頻りに訓令を出している。

 近代社会に必須な土地の私有制を確立させるためには、その所有者が決まらなければならない。朝鮮において土地の公有制は早く崩れ、李朝太祖のころには官の証明書である「文記」をもって譲渡・売買を許す形で、私有制はすでに行なわれていた。だが、量田が定期的(20年ごと)に行なわれず、量案が改正されないためこの制度も廃れ、私の文記による譲渡・売買が横行した。ために土地の所有権は混乱し、二重三重に錯綜した関係が、数十年にわたり続いていた。調査に立ち会う「利害関係人」とは、つまりこの紛争の当事者である。以下にあらためて書くが、こういった紛争は全体総筆数1,910万の内、9万9,000筆で存在した。

 

f:id:hibino-bonpei:20210111223808j:plain

   左から「結数連名簿(索引)」・「結数連名簿(様式)」・「結数連名簿(里別合計表)」

             (『大韓帝国日帝初期における土地帳簿とその性格』崔元奎より)

 

 併合直前の田制状況について、以下『朝鮮田制考』より引用(新字体、新仮名遣いに改めた。下線筆者)

 「李太王十三年丙子(1876)日本帝国と修好条約を締結して翌年開港場を定め、仏・英・米・露其の他の諸国も亦修好条約を締結し、外国交通の路開け、日本其の他の外国人移住するに至り、地価暴騰すると共に土地家屋の売買頻繁になり、従来行われた公署の証明なき文記で売買された結果、文巻を贋造して或は典当し、或は転売する等の悪弊甚だしく、本主の知らぬ間に自己の土地家屋売買されて住家を失い、之が為訴訟劇増したので、同三十年癸巳(1893)に至り内務府より家券を発給し、土地家屋の売買及典当は此の家券を以て確実なる証拠とした。(中略)

 土地台帳に相当する田案即ち量案は既に数十年以前の調整に属し、其の後移動を整理せざりし為、該案に記載ある起主或は田主即ち土地所有と認めらる者と現在の所有者と認めらる者とは異る者多く、且田案の起主なる者は或は該地の代位占有者或は納税者或は管理人或は真の所有者と認めらるる者の名義であって所有権の帰属明瞭せず、従って之を整理する為、光武二年戊戌(1898)量地衙門を設けて土地測量を行い、同五年辛丑(1901)地契衙門を設けて地券を発給した。けれども完全に行われず、土地所有権の保証も亦旧来の例に依り極めて薄く、(中略)山林原野も亦特旨賜与地の他は私人の独占を許さず、付近の住民は自家燃料の柴草を採取した。光武十年丙午(1906)国有地未墾地利用法を公布して未墾地の利用者を保護し、又土地証明規則を公布して土地売買及典当契約書には証明官吏の証明を以て確実なる証拠と為したるのみにて土地所有権を確定するに至らず。」

    f:id:hibino-bonpei:20210111160327j:plain

 「李太王即位の頃(1863)より西洋文化の東漸するに至り稍々其の騰貴の状を呈し、太王三十年(1893)即ち国政改革の曙光現わるるに及び躍進暴騰したので土地売買も又盛に行われ、自由放任の結果、弊害著しく茲に至って立案斜出の例に依り売買文記を証明する規則を設け、太王三十年右のごとき新に証明専用紙を作り之に手数料を添えて証明を申請し、所在官が証明することとなった。証明用紙は度々変更されたが、光武十年(1906)に至り勅命第六十五号を以て土地家屋証明規則を発布し、(以下略)」

 

 長くなった。下線部1)の後半、王家の所有地・国有地については次回。