1945年8月15日以降の韓国における農地改革(朝鮮半島における土地制度の変遷)その11

 

 【 土地制度の変遷と朝鮮農村の変化 】

 

 いよいよ農村の変化について書いていくのだが、この「朝鮮の土地制度の変遷」シリーズでは寄り道をしながらも、次第にその実態・真相が分かってきた気がする。この道の研究者の方々には既知・常識の事でも一般には知られておらず、「日帝の土地収奪は有ったか無かったか」というような非常に単純な命題でしか考えられていない。(まあ、知識人と呼ばれる人でもそうなのかも知れないが)

 それを、自分なりに納得できるまで、事実・実際はどういう状況でどんなことが行われ、どのような変化が起きたのかを知るため、一次資料や先人の研究論文をおぼつかないながら読んで、自分の覚えとして書き付けている。

 

 

 韓国併合直前の朝鮮半島における農業と農村の状況

 

 概観1 19世紀民乱の多発と農村における指導者階級の形成 

 ウィキペディア李氏朝鮮後期の農民反乱」から引用。(下線を付すなどした)

 「農業、商業、手工業など各方面にわたる経済的成長は朝鮮両班社会の身分体制に変化をもたらし始めた。良人や中人出身の富農巨商たちは官職を買収するなど両班のように振舞った。一方、両班たちの中で小作農に没落して行く人々がいた

 また、良人である農民の中で小作農に没落する人々も多く、その中には農村を脱して一定の居所なしにさすらう人々もいた。しかし奴婢はますます姿を消していった。奴婢案に記載した公奴婢の数は相当だったが、彼らは事実上良人と違いがなかった。1801年には奴婢案さえ国家で燃やしてしまって、公奴婢たちは賎人身分を脱して良人になった。私奴婢はまだ残っていたが、これも徐々に消滅していった。このような身分体制の動揺は、さまざまな社会的な波瀾を起こすようになった。この頃相次いで起きた民乱はその結果だった

 19世紀に入って、外戚勢道政治が行われて綱紀がさらに紊乱することにより、民心は朝廷から離反していった。農民たちの不満と不平は、圧制が甚だしい社会では、まず陰性的な形態を帯びて現われるものと決まっていた。各地で掛書、榜書などの事件が相次いで起こり民心が乱れた。」

 「しかし農民たちの不満はこのような陰性的なことにだけに止まらなかった。まず火賊や水賊という盗賊の群れが横行した。それだけではなく民乱がまた頻発した。その主体はもちろん農民だった。しかし時には没落した不平両班たちが指導して大規模反乱に拡大する場合もあった。1811年に起きた洪景来(ホン・ギョンネ)の乱はその代表的なものである

 この外にも小規模民乱はほとんど休む間もなく全国的に起きた。1862年の晋州民乱はその中でも最も目立つものだった。このような民乱は、たいてい悪質官吏の除去を目的にする自然発生的なものだった。しかしそれは両班社会自体に対する反抗でもあった

 

 『植民地権力と朝鮮農村社会』(松本武祝、1995)から引用。(下線を付すなどした)

 「19世紀の「民乱」においては「饒戸」と呼ばれた富農庶民地主が中心的な役割を果たしたという(An Pyong-Uk. 1988 "The Growth of Popular Consciousness and Popular Movement in the 19th Century : Focus on the Hyanghoe and Millan."による)。彼等は、農村の商品経済化に対応して資金蓄積を遂げながらも、貧民救済という名目での国家による恣意的な税収奪の対象となったことで、「下層民の安定なしにには自分らの安定もない」ことを悟り、19世紀の農民反乱を主導していった。」

 「植民地期にはすでに「饒戸」という呼称は消滅しているが、村落においては、在村地主が引き続き「地方有志」としての社会的役割を遂行していたのではないか、と筆者は考えている。一方では「起業家」として資金蓄積を追求しつつも、他方では「地方有志」としての(そして時には両班身分としての)役割を担った彼らこそ、「コミュニティー倫理」、「個人主義」そして伝統的身分秩序といった村落における相互に対立し合う規範の狭間にあって、その調停に腐心しつつ、結果的にはその矛盾の中で自己変革を遂げて行かざるをえなかった階級として捉えることができる。」

 

 

 併合以前の1894(明治27)年、李朝末期に、高宗と開化派による「甲午改革」が行われた。その中で、奴婢は廃止、租税は金納となった。

 改革は政変の続く中ですぐに挫折するが、この租税金納化以後(それ以前の1876年、日本による開港から、さらに以前から起きていた変化であるとも言われるが)、朝鮮において商業的農業の発展が見られた。米や大豆の輸出が拡大し、そのため主として大地主が米を売り、自小作農が大豆や蔬菜の生産を拡大した。こうして農民に変化が生じ、ひいては農村に変化をもたらした。

 

  「雇傭」の実態からみる自小作上農層

 以下「朝鮮甲午改革以後の商業的農業:三南地方を中心に」(宮島博史、1974)と「植民地権力と朝鮮農村社会」(松本武祝、1995)に拠ってまとめてみる。

  商業的農業の担い手としての「雇傭」の存在が指摘される。彼等は小作地も持たない純然たる雇用労働者で、モスム(作男)と呼ばれ、当時の戸籍台帳に記載されている。

 南部三道の一部の戸籍台帳を分析した結果、全戸(10,489戸)の22%(2,297戸)が、1人以上の「雇傭」を持っていた(少なくとも3,215人以上になる)。

 地主階級は全農家の数%であるから、その中の幾分かが在村地主であったとしても全戸の22%になるわけはない。従って自作農、自小作農もまた「雇傭」を持っていたことになる。

 

 

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  1903(光武7)年の全羅北道鎮安郡 崔理文の戸籍台帳 下に「雇傭/男  口/女  口」の欄がある。

              「朝鮮甲午改革以後の商業的農業:三南地方を中心に」より

 

 少し時代が下がるが、1913(大正2)年当時の、農家の所有面積と経営面積別農家数をみると、1町歩から5町歩を所有する農家の戸数(1,715,700戸)よりも同面積を経営する戸数(2,457,524戸)の方が多い。つまり自作農がさらに小作地を借りて耕作していることになる。

 3~5町歩になれば1戸の働き手では足りず、農繁期だけあるいは年雇用で人を雇っていたはずである。経営する土地は地主(おそらく在村地主。不在地主の場合には舎音が介在するので自由がきかない)から借り、不足分の働き手は土地を持たない貧農から供給されたのだろう。(当時の総督府統計年報には、職業別人口の中で農業の「無業者」が載せられている。これは労働年齢に入らない家族を含むようだが、かなりの人数になっており、これが雇傭と重なっているのかも知れないが確認できない。)

 この資料では、全く土地を持たない戸数が全戸数の28%に及ぶと推定されている。したがって、貧農の多くが「雇傭」(年雇用の作男)となり、また農繁期臨時雇用労働力となっていただろうことが分かる。

 別に1922(大正11年)の全羅南道の統計では「殆ど一定の小作地を有せざる窮農」が27,533戸(総戸数356,195戸の7.7%)、3反未満の小作地を耕作する者72,482戸(同じく20.3%)とある(「小作問題と朝鮮の小作制」河田嗣郎1925)。 

 

 これら自小作農の場合は、トウ(水の下に田)(中間小作)のように、地代が低額なのを利用して地代と小作料の差額を取るのではなく、自ら耕作し経営規模の拡大、労働力の多投入により商品作物からの収益増を意図したものと言える。大地主(寄生地主)が専ら米を大量に販売(輸出)して利益を得る方向に動いたのとは違って、作物の多様化を行っている。

 こうして財力をつけた自小作上農層が村落の主導者になっていった。

 

  自小作上農層と在村地主、「饒戸」

 「地主と小作、二者の対立」という図式ではなく、在村地主・自小作上農層という階層が農村への影響力を持っていたことを知らなければならない。貴族両班層は都市部に住んで寄生地主化し、地方官僚・豪族らが在村地主化していたが、彼等が土地を大規模に所有していたとしても、そこを耕作していたのは必ずしも(奴婢・農奴的)貧農ではなく、経営者の側面を持った自小作農とその雇用者であったのだ。

 在村地主と自小作上農層の違いは、単純に言えば、前者が旧両班層で、自らは耕作しないという点にあるだろうが、自作も行う所謂「地主乙」も各村にいただろう。両班の地位を買う者もいた。またこの自小作上農層は、自小作農といっても雇用者を持つ点で「地主手作り」と似たようなものになるだろう。経営形態としては両者はかなり近かったのではないか。

 下の例(『朝鮮甲午改革以後の商業的農業:三南地方を中心に』より)の如く自小作上農層の場合でも自作地より小作地の方が広く、その意味では半地主的性格を帯びている場合もある。

 

 「而して小作人は我国の如く貧農のみならず十分の資本を有し比較的広大なる土地を借受け多くの労働者を雇入れ以て農業を経営する者あり此の如きは一種の借地農にして小作人と称するは稍々穏当を欠くの嫌なきにあらず是れ忠清南道の平坦地に於て間々行はるる」(『韓国土地農産調査報告書 京畿道・忠清道・江原道』有働良夫1905、カタカナを平仮名に直した)

 

 「李牧三は村にて所在(村長)をも務め上等農家の部に属するものにして農業の傍に飲食店をも営めり家族父子二夫婦に孫女年十歳のもの一人雇人男一名都合六名にして家に農牛一頭を飼養せり耕作する水田は温陽邑に住する進士前判書閔泳韶の持地合せて三町余賭地法に因りて耕作し外に自己所有の畑四反五畝歩を自耕せり(『通商彙纂』1895年20号所収「朝鮮国忠清道地法巡回復命書」、カタカナを平仮名に直した)

 

 上の例の後者では李牧三という上等農民が、在村(温陽邑)地主、官僚(進士、前判事。閔氏は貴族か)の所有地を、ほぼ自由に使える形(賭地法)で借地していることが分かる。

 甲午改革以後に賭地法による土地所有が進んだ原因は、賭地価格(土地使用権価格)の低下による。開港(1876日朝修好条規)前、哲宗(在位1849~1863)の頃には地価の20%前後だったものが、開港後高宗(在位1863~1897大韓帝国皇帝~1907)の頃には2~3%にまで下落したともいわれる。今、1910(明治43)年の総督府統計年報を見ると、全羅南北道で水田中等地の賃貸価格は売買価格の14%程度になっているので、20%から若干は下がったのは確かであろう。しかし、なぜ低下したのかはよく分かっていない。

 

 これらの在村地主、富農(かつての𩜙戸)、自小作上農層がどれほど一致、連続しているのかいないのかは分からないが、一部は民乱から農民戦争、独立運動にまで関わった者がいることも確かである。

 しかし、これら指導階級も、地主としての立場にある限り(小作人に対してどれほど温情的であったとしても)、自らを解体し、農民的土地所有を実現させることはできなかった。民乱を援助、主導しても、その攻撃する対象が悪徳官吏に加え、金貸し、富農、地主に及んだ時、自己矛盾に直面せざるを得なかったはずだからだ。