1945年8月15日以降の韓国における農地改革(朝鮮半島における土地制度の変遷)その5

② 併合以前

 朝鮮半島の土地制度について、韓国で書かれた論文を見てみる。以下は「韓国における農地制度の変遷過程と発展方向」(韓国農業基盤公社、農村綜合計画処、地域戦略チーム責任研究員、農学博士、李錫注)からの引用である。16頁の内最初の1頁を併合前と併合時の解説にあてている。概説として、また韓国側の見方を知る上で適当なものと思う。

 以下引用(下線、番号、強調は引用者による)

 

 朝鮮を建国した李太祖は、即位直前に実施した田制改革によって高麗末から存在した「私田(竝作半収制)を廃止し、20個に達する科田法を実行した。この制度は国有地と王有地及び少数の私田を除き、すべての田畑を公田として設定した。耕作農民は、収穫量の10%に該当する、農地1結当たり30斗を国家に収めるようにした。京畿道地域内の両班には、職階序列に従い一定面積に対する徴収権を与え、収租収入を国家の代わりに受取るようにした。(中略)農民の負担が軽減された画期的なものだった。同時に農民の土地所有は耕作権だけが認められ、相続及び売買などの私有権は許可されない土地国有の形態であった。

 前近代的な小作制での地主は、科田法下で単なる収租権者ではなく、経済的意味の地主としての性格を持つようになり、従来の階級構成に質的変化が現れた。特に1)多数の両班が、土地所有から脱落し、小作農民、無銭農民、賃労働階層にまで陥ってしまった

 李氏・朝鮮時代に発達してきた前近代的小作制は、李氏・朝鮮後期には重大な変化を迎えることになる。科田制のもとでは納税義務者は生産農民であったが、小作制下においては納税義務者が土地所有者になることが制度化された。しかし、2)農村人口の過剰とともに地主の所有規模拡大により、農地を所有していない農民間の過剰競争で小作条件が一層厳しくなった

 このように過剰人口の累積と身分制の崩壊により、耕作権に対する私有権の優位化が進行した。従来の身分制では、「経済外的な強制」は弱まったが、耕作権(農民の生存権)との交換により地主は耕作料の受取りが可能となった。このように耕作権に対する私有権の優位化が進行し寄生地主化の傾向が強まった。

 

 以上引用終了

 

 前近代的な「地主ー小作人関係」の出現について書いてあるが、補足しておきたい。

 貴族(李朝ではほぼ両班と同義)が、職田として与えられた土地からの租税収入を、直接自分のものにするという段階では、農民は公地を耕す私的奴婢のような位置づけであったろう。そして税法上は土地の私有・売買が禁じられていたが、両班に与えられる公田は事実上の私有地として相続・売買されるようになっていった。

 一方で商品経済の浸透によって経済的な成功者(商人)が現れ、土地を買い集めて大地主になり、官職や両班の身分(族譜)を買うことによる身分的上昇もあった。

 やがて身分階級構成の質的変化に伴い、土地が地主の私的所有物として可処分なものになると、農民は地主と雇用契約の関係にある小作人へと変化していった。これは農民の生活に欠かせない耕作権(土地使用権)を、金銭と引き替えにされる立場になったことを意味する。

 

 以下、下線部についての筆者の感想・意見

 

1) 両班階級の没落について

 19世紀に没落両班が増加したのは、基本的に、世襲科挙合格者による両班の増加に対し、官職数が文武合わせて500余でしかなかったため、必然的に無役の者が多数出たことが原因である。(これは日本の平安時代下流貴族の状況に似ているか)

 無役の場合でも、先祖代々の(私有化した)土地を切り売りして、両班としての体面を繕い、浪費的な生活を続ける。あるいは役職に就いている親族の厄介になる。読書を事とする両班には、村の書堂(寺子屋のようなもの、1918年当時約2万5千校あり、児童数は約25万9千人だったという)の先生になって子供に教えるくらいしかできない。最終的には経済破綻してしまい、乞食同然にまで落ちぶれ、果ては飢え死にするか、自ら鍬を握って田畑を耕す農民(小作人)となる。能力ある者は文化の伝統を保持し、開墾地の指導者になったり、李朝末期に頻発した民乱の指導者になったりした者もいるようである。(「朝鮮後期”没落両班”の形象と時代的役割ー朝鮮後期の”野談”に見られる様子を中心としてー崔在佑」による)

 旧来の両班階級が一部を残して没落し、財を蓄積した中人や常民に取って代わられた結果、成り上がりの両班が増えたと考えられる。両班の特権を手にしたこれらの者は、両班の本来備えるべき儒教的素養などとは無縁で、威張るだけが得意であり、あとはひたすら無為無能である。土地を兼併し奴婢を抱え、手先を使って農民、商人からの略奪を恣にした。その残忍酷薄、非道横暴な様は、18~19世紀に訪れた外国人の記録に詳しく書かれている。

 

 【後日追加】

 『植民地権力と朝鮮農村社会』(松本武祝1995)「3.朝鮮における農民社会の展開 」にまとめられているところでは

 「朝鮮において土地所有は両班身分にのみ排他的な権利ではなかった。とくに李朝後期には、商品経済の発展にともなって、商人や農民が地主として成長するケースが一般化した(いわゆる「庶民地主」)。これらの経済的成功者は、地主化するばかりでなく、その多くが両班身分へと上昇していった彼らも又儒教規範を吸収することで両班としての権威の獲得に努めたと考えられる。」

 とある。以上追加した。

 

 両班階級は李朝初期には人口の3%、17世紀末には7~8%に過ぎなかったが、19世紀半ばには、なんと人口の半分近くが両班で、後は2割の常民(農民)と3割の賤民(奴婢等)という驚くほど偏った階級構成になっていた。これはイザベラ・バードによる「国民の半数が奴隷」という記述に合致する。これでは正常な国家運営など望むべくもなかっただろう。別の資料では19世紀後半には両班が7割近く、2割が常民、1割が賤民だったという。ちなみに明治初期の日本人は90%が「平民」だった。

 しかしまた同時期に「人口の5分の4が下人」という記述もあり、実態が良く分からない。戸籍上の身分は両班でも、その内半分ほどの者は没落して、実質的に常民以下となっていたということか。

 

2) 農村人口は増加したか

 現存する統計によれば、李氏朝鮮末期には人口が減少している

 なお人口の増減については、3)で述べる。 朝鮮の戸籍調査では

 1807年 756万人でピーク → 1837年 670万人 → 1852年 681万人

  → 1864年 682万人 → 1906年 592万人

 17世紀末に人口の51%を占めていた常民(農民)が、19世紀半ばには20%にまで減っているという資料もある。したがって、「農村人口が増加した」とはにわかに信じ難い。没落両班の常民化の結果ということか? 徴税強化の目的で戸籍上の農民数に架空の水増しをしたということか? むしろ官吏の苛斂誅求から逃れるため逃亡して農村人口は減少したのではないか。(火田民化するとか、都市部への人口集中も考えられる)

 小作人の競争倍率が高まり、小作条件が厳しくなった」とあるが、それは、農村人口の増加というより小作地の減少こそが理由なのではないか? 

 1894年には、公簿上140万結ある田畝の内、課税結数が76万結しかなかったという。外は免租地か隠結である。隠結が最も甚だしかったのは1903~1904年頃と言われ、1907年の総結数は99万9,300結とさらに減少している。

 自作農は自分の耕地を「投託」する場合もあった。自分の土地を名義上、公有地に寄付してしまうのだが、実質的には所有地として変わらず耕作している。こうすれば納税その他の負担を逃れられる、つまり脱税行為である。しかしこれは併合後の土地調査事業の過程で、厳密に「投託」が文書で証明できなければ、そのまま公有地と見なされて接収されてしまった。

 このように、農地が減少したのは公田が私有化され、隠結となったのが主たる理由であり、公課を負担すべき農地が減少したならば、それを補うためには残った土地と小作人から絞り上げるしか無い。「小作条件が厳しくなった」というのはそういう理由からではないだろうか。

 

3) 朝鮮の総人口の変化について(若干の加除有り)

 しかし、そもそも人口統計自体が正しいとも言い切れない李朝の3年ごとの人口調査「戸籍帳籍」は徴税のための申告制の調査なので、軍役の無い女子の一部、賤民などは漏れているということだ。さらに納税忌避目的の虚偽申告により、戸籍から多数漏洩しているようだ。実数は調査人数の1.3~1.4倍にみるのが妥当とする説もある。

 1906年の韓国政府内務部調査では579万人だが、同年の警務顧問部の日本人の調査では1,293万人となっていて、なんと2倍の差があるのだ。これは後者の方が実際の人口に近いだろう。統監府・総督府の調査では1907年1,167万人、1910年1,312万人となっている。

 

 試みに1807年を基点にして、戸籍人数を若干補正し、756万人×1.2=約907万人とみて、1907年の統監府調査1,167万人までの100年で1.287倍になったとする。毎年の平均増加率を0.25%と仮定すると100年間の複利計算で約1.28倍になって実際に近い値になる。ちなみに日本の人口は1800年から1900年までの100年間に、3,050万人から4,482万人へ1.47倍に増加し、毎年の平均増加率は0.39%のようである。比較してみて、経済的に停滞していた李朝後期の人口増加率として、0.25%は妥当ではないだろうか。こうしてみると、統計上の数字が激減しているのに反し、実人口は緩やかに増加していたとみられる。もちろん飢饉による人口減少などの要因で変動はあっただろうが。

 

 併合期の人口急増(農民の増加)

 なお1907年からの3年間、1910年までの人口増加率は毎年4%と驚異的に高く、仮定した李朝時代の増加率の160倍になる。これはまず、実際の出生率の増(併合下の30年間に9%増加)、死亡率(特に乳児死亡率)の減による自然増と考えられる。当時の、多産多死が普通の社会で、乳児死亡率が劇的に改善され、多産少死となった結果であると考えられる。しかしまた、乳幼児の死亡率はそう変わらず、この併合直前・初期の統計数字自体も不正確である、とみる考察も多く、本当のところは、誰も正確には分からないというのが実情だ。(死産率についてだけみれば、総督府の統計年報ではあまり低下していないようだ。)

 併合後の30年間には1,312万人から2,295万人まで、平均毎年30万人の人口増があった。増加率は約2%である。

 こうしてみると、朝鮮の人口については、世代別の人口=人口ピラミッドを考えた場合、若い世代が急増したことになり(当時の人口ピラミッドを描いた資料は見当たらないが、何とか推測できないものだろうか)、労働人口は大正末期から昭和初期には大幅に(100万人程?)増えたはずだ。その後も増え続ける若い労働人口を吸収するだけの耕作地が、当時の農村に有っただろうか。小作地の細分化がさらに進んだだろうことは推測できる。つまり下線部2)の状況は朝鮮末期と言うよりは併合以後のことにあてはまると言える。二次小作の極零細農民や日雇いのような農業労働者では生きて行けない。当然、農村から都市部への人口集中と、国境外への大量移動が起きることになる。

 → 2021年2月12日のエントリーで、人口ピラミッドについて書きました。

 

 〈参考論文〉

日帝植民地期は朝鮮人の健康にどのような影響を及ぼしたのか―植民地近代化論の虚と実ー黄尚翼ソウル大学医科大学人文医学教室教授、李恩子関西学院大学国際学部准教授(国際学研究フォーラム講演録3:2015)関西学院大学リポジトリ 

 

 

 なかなか1945年以降まで進まない。まあ気長に調べることにしよう。

 次は「③併合期について」だ。