雑感 2021年4月3日 明日は清明 重松髜修

 2月末に5ヶ月間の臨時の仕事を終えてから一月経った。出勤しないせいか長く感じた。この間、実家のリフォームなどゴタゴタあって暇でもなかったこともあるのだろう。

 リフォームと言えば、今住んでいる借家は築40~50年の物件なので、自分が高校生くらいの頃の「昭和の家」である。トイレはさすがに水洗、洗浄機付便座であるが、台所には換気扇、風呂場はタイル貼り(かなり剥がれてきた)。それでも昭和の人間だから全く不自由は感じない。

 実家は築30年なので少し進んでいて、台所にはレンジフードなどがあったが、今回の改修ではフードというようなものがそもそも無く真っ平らで、自動で作動し、自動で洗浄するものが付いた。令和の台所になったのだ。風呂もユニットバスになり、まあ自分などはホテルかと思ってしまう。

 納戸を半分改造してクロゼットにし、2箇所あったトイレの一つを、狭いが書庫にした。本棚はまだ無いので、届くまでに本の整理をしている。自分の大学時代の本などがあるし、昭和30年代後半の漫画雑誌などが結構取ってある。これがヤフオクとかメルカリで売れるらしく、皮算用だけはしている。

 本も、自分が死んだら子供たちが処分に困るだけだから、さっさと捨てるか売り払うべきだろう。大抵の本は図書館かウェブで読める。

 

 田中邦衛88歳と沢村忠78歳の訃報。テレビで親しんだ方たちなのだが、時は進み、こうして人は亡くなって行くということがますます納得されてくるのである。あと10年、20年何ができるか、何がしたいのか。ぼんやり暮らすのも良いが(実際ぼんやりしているし、この時節出歩けないのだが)せっかくだからやりたいようにやって終わりたい。

 

 今このブログで調べているテーマについて、同じような追求の仕方をしている本があって、注文した。それは『日本統治時代の朝鮮農村農民改革』(山崎知昭2015)という本で、目次は次のようである。自分は、この目次で言えば第一章第一・二節に多くを割き、ロシアの南下については触れず(外交的な部分は除いている)第二章第二節まで来ている。

 

  • 第一章 日本統治以前の朝鮮半島
    • 第一節 一九世紀後半における朝鮮社会の様子
    • 第二節 中間搾取人の存在
    • 第三節 ロシアの南下と朝鮮半島
  • 第二章 統監府による大韓帝国改革政策
    • 第一節 宮中と府中との財政分離および貨幣整理
    • 第二節 土地調査事業の実施
    • 第三節 地方金融組合の設立
  • 第三章 朝鮮総督府による朝鮮統治の実態
    • 第一節 朝鮮総督府が目指した朝鮮統治とは
    • 第二節 農民改革の末端を担った朝鮮金融組合
    • 第三節 農民改革へと繫がった農村振興運動
  • 第四章 日本統治終了後からセマウル運動開始までの農業政策
    • 第一節 米軍政庁時代における農業政策
    • 第二節 大韓民国樹立後の農業政策
    • 第三節 新しい農民運動とチャルサルギ運動
  • 第五章 一九七〇年代に韓国で展開されたセマウル運動
    • 第一節 韓国の自立を目指した朴正煕
    • 第二節 勤勉・自助・協同を唱えたセマウル運動

 

 今、自分の調べは朝鮮農村における互助組織「契」と総督府の農村政策や朝鮮金融組合に至ろうとしているわけだが、最終的に日本敗戦直後から大韓民国成立までの土地制度の変遷、日本人所有地の処分、その後の農地改革について見る予定なので、この本はまさにうってつけであるようだ。届くのが待ち遠しい。まあ、読んだらそれでこの調べ物も終わってしまう、ような気がしないでも無いが。

 

 日本人所有地については、徹底的に調べたはずが、今でも小さな区画が残っているのが判明し、それを韓国政府が接収しているという報道がある。土地登記制度があるはずだが、戦前に日本人名で登録したものも多く、その判別に苦労しているらしい。朝鮮戦争で資料が散逸したこともあるのだろう。

 

 朴正熙の「セマウル運動」が、勤勉、自助、協同など戦前の農村振興運動に似た内容だったことは知られている。戦前は倹約、貯蓄なども奨励された。最近知ったことだが、朝鮮金融組合の社員(理事)が農民生活向上のために私財をなげうち、成功した例がある。

 それは『朝鮮農村物語』(重松髜修(まさなお)昭和16年、続編は昭和20年)に詳しい(ただし、原本は読めていない)。この方は「卵から豚へ、牛へ、土地へ。」という考えで、最初白色レグホン(名古屋種とも)の有精卵(重松が自費で準備)を農家に配る。農家は孵化した鶏を育て、その鶏が産んだ卵を金融組合を通じて売る。その売り上げを貯金する。10年我慢して、耕作に必要な牛が自前で買える。というものだった。しかし、農民はなかなか信用してくれない。白い鶏は縁起が悪いなどとも言う。細々と一部の農家が続けたが、数年して、ある女性が目標を達成し、牛を買う。人の牛を賃借りしなくても良いし、糞は肥料になる。これを見て外の村人も信じるようになった。牛ばかりで無く、土地を買い、子供の教育費も出せた。

 それ以前には、いくら節倹を呼びかけても、貧農は生きるのに精一杯でその貯金に回せる原資が全くなかった。一人の日本人が立ち上げた養鶏という事業によって、初めてその原資を得たのだ。重松は水田の少ない朝鮮北部でこの事業を行った。戦後、彼はかつて彼の指導した村の出身者に助けられ、北朝鮮から脱出、帰国する。

 なお、彼は三一万歳事件当時銃撃されて足を負傷している。