1945年8月15日以降の韓国における農地改革(朝鮮における土地制度の変遷)その28

アメリカの米穀管理(供出と配給)と農民の抵抗

 

 1945(米穀)年度の供出率がこれほど低くては、都市住民への配給もままならなかっただろう。たとえば京城の人口は、昭和17年に111万4千人(その内、朝鮮人は94万1千人、内地人は16万7千人)だった。百万人に米を配給するのは大事である。一日一人2合でも2千石が消費される計算だ。1ヶ月では6万石になる。アメリカは自国からの援助で不足分を賄わなければならなかった。

 

 旧総督府の郡以下の役所では、朝鮮人・内地人職員の離脱によって機能停止している所が多く、その代わりに人民委員会が地域を統括していた。アメリカ軍の進駐が遅れたことがそれを助長した。しかし、人民委員会の様相も地域毎に様々であった。

 アメリカ軍は各地に進駐しつつ、人民委員会から統治を取り上げていったが、その間、しばしば対立、衝突が起きた。

 「占領は三期に分けることができよう。第一期は、将校たちによる視察団が釜山などの主要地点に到着して(九月一六日)、アメリカの国旗を掲げるとともに情勢を観察した短い期間である。第二期は、戦術部隊によるかなり長期の占領期間である。ところによってはこの時期は一九四五年一二月まで続いた。最後は、民政チーム(米軍政庁直属の中隊)による占領期で、この間とくに全面的な軍政をめざす訓練と準備が行なわれた。こうした民政チームの大部分は一九四五年の年末までには配置が完了した。」

 「一一月一〇日に第六師団の第二〇歩兵連隊が済州島に着いて、戦術的占領は完了した。一九四五年一〇月から一二月にかけて、次々に新しく派遣されてくるMGチーム(軍政中隊)と交替した。MGチームが到着してみると、かなりの地域で戦術部隊がすでに地方の人民委員会の権限を認め、認可しているような状況であったので、中には地団駄を踏んだチームもあった。勿論そうなった理由は、人民委員会を認めた方が都合が良かったということと、当時代わりの地方自治体は見つからなかったためである。」

(ブルース・カミングス『朝鮮戦争の起源1』322頁)

 軍政(MG)中隊が到着して、本格的な軍政は1946年1月14日に布かれた。(「民政チーム」と「軍政(MG)中隊」は同じものとみなせるか。)

 米の供出が不調では配給制が成り立たない。そこで強制力が伴うが、この間、警察と配給所の人間が私欲に走り、恣意的な行動をとることが多く、農民の不満は極度に悪化した。むろんそこには総督府時代の不満、特に戦争末期の供出強制への不満が重なっていた。強制してくる人間(警察官)が同じ人物だったからだ。

 

失業人口の流入・増加と労働者のスト・秋収暴動

 

 昭和21(1946)年11月の南朝鮮の失業者数をみると、110万人を超えている。この内、「戦争に関連した失業者」(主として日本または満洲からの帰国者)は63万7千人である。(『朝鮮経済年報1948』、『朝鮮戦争の起源1』402頁からの孫引き)

 「失業がもっとも目立ったのは慶尚南北道である。全失業者の68%がこの二つの道に集中していて、しかも、この二道の失業者の58%は帰還者であった。すなわち、これらの統計によれば慶尚南北道では四三万六八一七人の帰還者が職を求めていたのであり、これは二つの道の総人口の約六・九%にあたっていた。こうした帰還者の生活は極端に苦しく、実際に一九四六年九月にストライキが始まる前の六週間に、およそ一万五〇〇〇人が食糧と職を求めて再び日本に舞い戻ろうとしたほどである。」(『朝鮮戦争の起源1』402頁)

 戦時の労働力不足を補充するため内地に動員されていた人々が、一斉に帰国した。だが彼らが即自分の出身地である邑洞里に帰れたわけではなかった。当時の農地面積には余剰な労働力を農民として吸収するだけの余裕は無かった。結局、職を得る可能性は都市部にしかなかったのだろう。しかしそれだけの労働力を引受ける産業が未熟だったため、失業者が溢れた。(高度成長期の日本では若者が「金の卵」とか言われ、また「出稼ぎ」が盛んだったものだが。)

 昭和21(1946)年10月の暴動は慶尚南道から始まった。「9月23日に釜山の約八〇〇〇人の鉄道労働者がストに突入した。数時間内に鉄道ストはソウルに拡がり、南朝鮮全域の鉄道輸送を麻痺させた。数日のうちには、ストは印刷工、電気労働者、電報局・郵便局従業員その他の産業に拡大し、ついにはゼネスト規模にまで達した。」

 「ソウルだけでも約二九五の企業でストが起こり、約三万人の労働者と一万六〇〇〇人の学生がこれに参加したと伝えられた。南朝鮮全土では二五万一〇〇〇人がストに参加したとみられ、その大半が全評〔朝鮮労働組合全国評議会〕の後援の下で動員された。/ストライキの一週目はほとんど暴力は伴わず、デモは平和裡に行なわれた。労働者の要求も概して改良主義的なものであった。米の配給を増やすこと、賃金引上げ、失業中の労働者や南朝鮮への帰還者のための住宅と米の支給、工場の労働条件改善、労働者の団結の自由、などである。」(『朝鮮戦争の起源1』380頁)

 日本から故地にもどった、しかし無職で生活に困窮した人々が一部地域に溢れていた。彼らが援助を求めるのは当然である。彼らに対する米の配給はどのようになされたのか、なされなかったのか。

 

 日本においても、昭和21(1946)年秋には総同盟、産別会議などの労働組合組織が結成され、吉田内閣打倒の動きが高まっていた。だが、翌昭和22(1947)年2月1日に行なわれようとしたゼネストは、その直前にマッカーサーの指令により中止された。

 

 同じ昭和21(1946)年10月には第二次農地改革法が成立した。地主の土地を政府が買上げ、小作人に有償で払下げる形だった。こうして日本では占領直後から農地改革が動き出していた。地主制度が小作農民を奴隷のような状態に縛り付けているという状況を改革する意志が明確だった。

 

 朝鮮では、軍政庁によって「新韓公社(旧東洋拓殖)」保有の土地(帰属財産)が昭和23(1948)年4月から払下げが開始され、同年8月までに85%が完了したが、朝鮮人地主対象の「農地改革法」公布は昭和24(1949)年6月で、さらに昭和25(1950)年3月の「改正農地改革法」公布(小作制の廃止、3㏊上限)、10月実施まで遅れた。そしてそれも同年6月25日からの朝鮮戦争によって不十分なままになってしまう。

 

筆者注 過去の記事「1945年8月15日以降における韓国の農地改革その17」に結構な間違いがありましたので訂正しました。

1945年8月15日以降における韓国の農地改革(朝鮮半島における土地制度の変遷)その17 - 晩鶯余録