1945年8月15日以降の韓国における農地改革(朝鮮における土地制度の変遷)その29

米穀の供出と配給について

 

そもそも「供出」・「配給」とは何か

 都市住民あるいは非農家(工場労働者など)は(地主でなければ)米を買って食べなければならない。都市住民、工場労働者は食糧を作れず、米は水田から穫れ、育てるのは農家(自作農、小作農)である。

 米価は取引所の相場によって高下していた。凶作だったり、戦争だったり、輸入米が不足したりして、米の総量が少なくなれば、需給バランスが崩れて米価は高騰する。米の買えない庶民は飢えるか「米よこせ」と叫んで暴れることになる。

 いよいよ米が少なくなって飢饉が予感されるようになると、政府は国民に公平に(平均して)米を行き渡らせることを考え、食糧の管理統制に乗り出す。自由な流通を止め、生産者から強制的に買い取り(供出させ)、消費者に公平に売る(配給する)。この供出・配給の量と売買価格は政府が定める。

 供出と配給は、言ってみれば裏表のような関係になる。農家と非農家とでは、その受取り方(評価)が全く違うと言えるかもしれない。

 

 昭和14(1939)年の朝鮮大干魃によって、政府の保有米は底を突いたという。(この年には内地の西日本も旱害で大凶作だったという。しかし、この年の日本の作況指数は110であるから、全体としては良かったと思われる。)

 朝鮮における供出と配給は内地の制度に倣っていたと思われるが、確認しなければならない。

 いよいよ米が足りなくなると、この自家保有分を絞り取ることになる。これが「ジープ供出」とか言われるものである。戦後の日本や南朝鮮で米軍政が行なった。

 ソ連では革命初期のレーニンや、スターリンの起こしたウクライナ飢餓のように極端なやり方(赤軍チェーカーによる農民反乱鎮圧)でこれを行なった。共産党は基本的に都市(工場)労働者の組織であり、農民は党員や労働者のための食糧収奪対象とみているようだ。

 

 

 この米の供出は、日本では「食糧管理制度」によって昭和17(1942)年から始まり、昭和29(1954)年までつづいた。その概要について、下に日本大百科全書アジア歴史資料センターのサイトから長々と引用させていただきました。

 

 「戦中・戦後の食糧不足時代の食管制度は、主食を国家が直接に管理・統制して、消費者に一定量の主食を公平に配給することを目的としていた。その配給量を確保するために、国が農民から一定量の主食を集荷する必要があり、非常事態の下でそれを強制的に行ったのが供出制度である。」(供出制度とは - コトバンク

 

 「1937(昭和12)年の日中戦争勃発以降、働き手の男性が戦争へ行くため、農作物の生産量は減っていきました。さらに、米の国内消費量のおよそ4分の1を朝鮮や台湾からの移入に頼っていた日本は、輸送の問題に直面します。船舶やその燃料は軍用が優先され、国民生活は米不足になっていきました。

 1939(昭和14)年4月、「米穀配給統制法」が公布されると、米穀を扱う商いは許可制となり、取引所が廃止されました。秋以降から節米運動が奨励され、11月には米の精白の割合を制限する「米穀搗精等制限令」が施行されました。1940(昭和15)年10月24日、農林省令「米穀管理規則」の公布により、生産者である農家に対して、一定数量の自家保有を除き、残る全ての米を決められた値段で国に売る義務が課されるようになりました。これを“米の供出”と言います

 1941(昭和16)年1月には、農林省の外局として戦時の食糧統制を担う食糧管理局が発足します。3月になると、主食や燃料などを配給で割り当てる「生活必需物資統制令」が国家総動員法に基づく勅令として発せられました。これにより、4月1日から東京、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸の6大都市で米などの穀物は配給通帳制になります。この年、米だけでなく、酒や卵、魚類なども配給制となり、消費が制限されました。1942(昭和17)年2月21日には、「食糧管理法」が制定されます。この法律は、既存の食糧関係の法規を整理・統合し、主要食糧の国家管理を強化しようとするものでした。この法律のもとに、米穀の配給通帳制度は整備され、全国で施行されるようになりました

 1世帯に1通発給されたこの通帳には、1日当たりの配給量が記入されていました。指定された配給日に通帳を持って配給所へ行くと、通帳に印鑑を押してもらうのと引き換えに、その世帯の1日の配給量に配給日数をかけた量のお米を購入することができました。配給量は年齢や職業によって異なり、1941(昭和16)年当時、1歳~5歳が120グラム、6歳から10歳までは200グラム、11歳から60歳までは330グラム、61歳以上は300グラムに定められていました。重労働とみなされる職業(農夫、漁夫、鉱物採取者、大工など)に従事している人には、配給量がやや増やされました。この配給基準は、当時の1人当たりの平均消費量と比べて4分の3程度の量でした。(筆者注、米1合を150㌘とすると成人330㌘は2合2勺になる)

 米の配給は、初めは商店で実施されていましたが、やがて町内会や隣組など地域ごとに特定の場所で配給されるようになりました。配給日には配給所は長蛇の列となり、何時間もかけて人々は並びました。戦争が長引くと、配給の米は玄米へ、あるいは乾麺などの代用品に変わっていきます。配給そのものが遅れたり滞ったりすることも日常茶飯事となっていきました。そのため、人々は食べ物を生産者である農家に直接買いに行ったり、闇と呼ばれる非合法のルートで軍からの流用品などを入手して、不足分を補おうとしました。闇で購入する米の価格は配給米の何倍もしましたが、それなしで暮らすことなど出来なかったと言われています。

 1945(昭和20)年8月に戦争は終結しましたが、食糧難はさらに深刻化しました。供出米が激減し、需用量が供給量を大幅に上回ったため、戦時中以上に大変な米不足に見舞われたのです。闇米の価格の公定価格に対する倍率は1945(昭和20)年10月が最大で、49倍にまで跳ね上がりました。これらの不足は、麦・馬鈴薯などの代替食糧を中心に、輸入食糧で補われました。しかし、輸入量も十分ではありませんでした。世界的にも食糧は不足しており、食糧の国際的割当統制が敷かれていました。加えて輸入に必要な外貨が不足していたため、輸入購入費はアメリカの対日支援基金でまかなわれ、GHQ連合国軍最高司令官総司令部)が定めた国民1人1日当たり1,250カロリー分の範囲内で食糧が輸入されました。(筆者注、1,250キロカロリーのはずである)

 (筆者注、米1合を520㎉とすると1,250㎉は2合4勺になる。もちろん米だけでこのカロリーを得ていたわけではない。なお、朝鮮における産米増殖計画期間の消費カロリーが一日当り一人1,958㎉から1,595㎉の間で、平均1,700~1,800㎉であったことを思い起こせば、この数字がいかに厳しいものだったか分かるだろう。)

 1948(昭和23)年度を転機に国内の食糧生産高が回復し、世界の食糧生産も好転して食糧輸入が拡大すると、食糧危機は徐々に解消に向かっていきます。1949(昭和24)年からは、GHQ占領政策の転換によって次々と食糧統制の緩和ないし撤廃がなされていきました。米については、何度も議論されつつも、管理制度は継続されました。1969(昭和44)年に政府を通さずに流通する米を一部認めた自主流通制度が発足すると、やがて米穀通帳制度は形骸化していきます。

 1982 (昭和57)年1月、改正食糧管理法が施行されると、通常時の厳格な配給制度が廃止され、自主流通制度の法定化がなされました。この時、米穀通帳の発行は廃止となり、40年間に渡る長い歴史に幕を閉じました。」(アジ歴グロッサリーお米を買うのに通帳が必要だったの?|公文書に見る戦時と戦後 -統治機構の変転- (jacar.go.jp)

 

 筆者の生きた時代、成人後にも自主流通米のほかに管理米が存在していたのだ。

 

供出農家の自家保有

 このとき、生産者(農家)は自家保有量(自家消費分+α)を残して供出することになる。生産者は以前と同様に生産物を自家消費することができた。しかしその自家消費量は、①年齢別、②男女別、③労働別によって定められていた。例えば昭和17(1942)年の埼玉県潮止村の例では、1~5才と6~10才は男女別、労働別なく、前者は1日1合1勺、後者は2合。11~60才は米作男子1日4合7才。米作女子3合5勺。一般(農作業しない者)男女3合2勺であった。この自家保有量は、再生産に必要な分を含めるので、都市住民への配給量より多くなる。農家以外の町場の消費者のように、2合あまりの配給だけで食べているものから見れば、不公平に感じるほどの量である。

 この配分などは各地の農会によって行なわれたが、様々な問題が生じ、農会の手に余る場合も有ったようだ。例えば、徴兵で不在の者は「家族」から外れるが、米穀年度内途中に退役してきた場合、その家族分の自家保有米は無いため、軍から移す必要があるが、それは農会の力ではできなかった。(軍隊では1人当り支給される糧秣がかなりの量であった。)

 そういう不安を抱えている農家側は、自家保有米をより多く持つように行動する。その結果、「(昭和)15年11月の義務供出実施以前には農家の保有はこんなに多くはなかった。」(湯河食糧管理局長発言、「戦時期米穀供出制度下における農家の自家用保有米について(昭和15ー20年)」海野 洋 農業史研究第52号2018)というような発言もあった。

 

米の供出制度による地主制衰退の始まり

 小作米は、地主の手を通らずに直接指定された倉庫に運び込まれ、小作人は供出した証明書を受取って、その紙を地主に提出する。地主はその販売代金を受取るようになっていった。小作料の「実質的金納化」が、農地解放以前に進んでいたのである。また、小作地のある村に居住しない不在地主は、自家用保有米を認められなかった。また、「生産者米価」と「地主米価」という二重価格(地主の方が安いということだろうが、今不明確)が導入され、地主階層の優位性が減衰されていったとされる。

 

朝鮮での供出と配給

 朝鮮に於て米の供出が始まったのは昭和14年(1939)年の大干魃以後だという。

 9月当初は臨時措置だったが、それが戦時体制になって行く中ですぐに常態化したようだ。

 「1940年から道糧穀配給組合集荷配給の中心となり、(中略)自家消費米以外はすべて供出され、1943米穀年度「供出要綱」によれば、地主一人一日1合5勺、自作同量、小作1合であったが、これを「厳しいもの」と評している。」(李熒娘『植民地朝鮮の米と日本ー米穀検査制度の展開過程ー』の書評、大豆生田稔)

  昭和18(1943)年には全ての農民に対し、自家消費米を除いた全ての米穀の供出が求められた。「部落共同責任制」も実施された。43年度産米からは「事前割当制」も実施された。(『戦時期の朝鮮における食糧の供出ー1939~1945年を中心にー』小坂直生2018)

 

 この地主、自作、小作に対する米の量は、供出する際に残す自家消費米の量の基礎となるものだろうか。今、原資料が分からないのだが、1年365日で、地主・自作は一人5斗4升7勺5才、小作は一人3斗6升5勺になる。これ以上の米は強制的に買い取られたということになると、江戸時代に日本人が一年で1石食べていたのからみても非常に厳しいことになる。逆に言えば、これが国民への配給の基礎にもなるのだから配給量もごく少なかったことになるはずだが、今は資料が無いのでなんとも言えない。