1945年8月15日以降における韓国の農地改革(朝鮮半島における土地制度の変遷)その27

アメリカ軍政庁の米穀管理

 日本敗戦前後の朝鮮半島は、北部ではソ連軍が8月9日に羅津から侵攻を開始し南下、15日の終戦を経て24日には平壌に入った。15日にはアメリカから北緯38度線での分割占領案がスターリンに送られ、了解された。半島の北半分は短時日のうちに占領されたのである。金日成は9月5日にハバロフスクを発ち、ウラジオストクを経由して、19日に元山に上陸した。この間は軍事占領の状態で、まだ軍政も整わず、総督府に代って自主的な人民委員会が人民の生活を維持していた。スターリン北朝鮮占領方針指令は9月20日ソ連軍民生部の成立は10月3日、共産党創立大会は10月10日である。

 一方、南部でも終戦とともに総督府の機能が麻痺してゆき、統治に空白が生じ始めた。この機会に8月17日までには左派指導者呂運亨によって「建国準備委員会」が結成され、28日には、「挙国政府は各地の人民代表による全国会議で選出された人民委員会によって樹立される」旨の宣言文を発表した。さらに9月6日には「全国人民代表者会議」が開かれ、李承晩を大統領、呂運亨を副大統領とする「朝鮮人民共和国」臨時組織法が決議された。自主独立まっしぐらであるが、8月20日には「朝鮮共産党」も朴憲永を委員長に京城で再建されていたし、右派も9月には宋鎮禹のもとに「韓国民主党」を立ち上げたので、政治状況は混沌としていた。

 そんな中でアメリカ軍が京城に入ったのは9月9日であった。すでに、総督府統治組織の末端では人民委員会が自主的に活動していた。しかしこれら各地域の人民委員会間では相互連絡、統制はできておらず、米穀の供出、配給も各地の農民組合によって狭い地域内で行われていただろう。アメリカ軍は道レベルでは人民委員会を解体して軍政を立ち上げたが、市、郡、邑、面では人民委員会に依存せざるを得なかった。

 

統制から自由市場、自由経済

 「終戦とともに統制経済は一挙に自由経済に戻り、戦時中の退蔵物資が市場に氾濫し、南大門市場にも各種の日常生活用品がうず高く積み上げられた。このため終戦直後には物価は下落し、8月初と8月23日の京城の闇相場を比べると、米1升500円から100円へ(公定5円9銭)、砂糖一斤100円から30円へ(公定46銭)、牛肉1斤30円から15円へ、地下足袋160円から45円へ、洗濯石鹸40円から7円へと大幅に下がった。しかし、米などの穀物や一部の工業原料をのぞいて他の商品は9月には上昇に転じ、45年末の京城の消費者物価を8月と比べると、砂糖4.3倍、綿織物5.7倍、硫安2.2倍に値上がりし、翌46年には更に加速されていった。」(朝鮮銀行史』第6章第1節

 

 アメリカ軍は当初、自由経済を実施し、統制下にあった米穀管理(供出と配給)についても全面自由化した。(1945年10月一般告示第1号)

 

 「背景には、日帝時代の対日米穀輸出実績などから食糧需給に対する特別な機構や対策を講じなくても、食糧確保は十分にできるし、また当時の食糧需給に関する統計数値に照らしても、決して食糧が不足する状態にはないという政治的判断によるものであった。/しかし、当時の食糧需給状況は、客観的に見ると政治的・社会的不安と気象条件の不順、生産資材の供給不足などによる米穀生産の不振に加えて、1945年8月時点で、端境期として国内米穀の大部分が消尽されただけでなく、軍糧米を確保しようとする日帝によって、米穀供出が強行された後であったから、米穀在庫は皆無といってよい状態であった。」(「韓国における米穀管理政策の変遷と問題点」宋春浩・三島徳三 北海道大学農経論叢第48号1992

 

 下線部については、既にみたところであるが、再度引用すれば、

 「八月末より九月中に於ける鮮内食糧事情は最も急迫したるが、鮮内全般に亘る麦作の不況、満洲雑穀の搬入不円滑等に依り、食糧需給計画は幾度か変更を余儀なくさせられたり。即ち、九月末迠は鮮内各地の食糧を極度に操作して需給を調整し、十月に至らば早場米の大量喰込みを計画せるが、食糧の操作に当るべき各地行政機関の末端部は、八月末迠の間に於いて機能を喪失し、輸送は停止し、倉庫は接収せられる等の悲運に直面せるを以って、京城府内に於いては非常備蓄米を使用し、蓋し、又、軍隊の出動に依りて近郊より強行搬入する等の非常措置に出でたるも、後に至るや皇軍将兵朝鮮人の反抗を怖れて米の搬出をも為し得ざるに至れり。/依って食糧営団よりは、一日一合八勺の配給に変更の提案をも見たる次第なるが、兎も角にも事態を切り抜けたるは身体の安全感を脅やかさるる治安状況となり、如何なる食糧にても我慢を要すとの覚悟を各人に持たしめたるに由るものなり。」(山名酒喜男『朝鮮総督府終政の記録』1945

 米穀の在庫状況はアメリカ軍も分かっていただろうが、それはもちろん「皆無」ではなかったし、10月には新米の収穫が始まり、この年は豊作が予想されていた。

 今年度の米産高は三十八度以南だけで一千六百万石、雑穀一千万石、都合二千六百万石であるが、一般人民の消費高が二千一百二十万石で、四百五十万石は余剰となるのである。/これを農民は米價騰貴のみを待つことなく、軍政庁当局に売るようにするつもりである。/今年は豊年だから米價がもつと髙くなる見込みはない。農民たちは後で米價が上がらなければ失敗である。この剰余物を日本に輸出し、日用品を買入れたらよい。」(山名、同書

 「軍政庁が自由市場政策を導入したことにより、一九四五年秋の稀にみる豊作は文字どおり一夜で蒸発してしまった暴利の追求や投機、買いだめがはびこった上、国民は開放市場での取引きに心理的に不慣れなため消費率が急増したからである。ともかく、アメリカ軍政が推し進めた米政策は惨憺たる失敗に終わり、翌一九四六年秋に至ってその影響が全国隅々にまで感じられるようになった。その頃には、軍政庁はすでに、警察官と地主の三者を基盤とする日本統治時代の供出制度を完全に復活させていた。アメリカ側が最初からかつての日本の制度をそのまま引継いでいたとすれば、混乱はさほど大きくはならなかっただろう。」(ブルース・カミングス『朝鮮戦争の起源1』400頁)

 

 しかし、米価は騰貴し、公定価格1升5円9銭、闇価格500円から下がって100円だったものが、自由市場では100リットル1,078ウオンになっていた(韓国農水産部『韓国糧政史』1978)。これだと1升が19.4ウオンくらいになる。闇価格が1升100円というのだから、1円≒5ウオンくらいの為替相場になっていたということか? よく分からない。

(当時、ドル・円の公定レートは1ドル=15円、闇市場のレートは50円だったという。1945年10月には、1ドル=15ウオンというから、多分公定レートでは、ほぼ1円=1ウオンだったのだろう。1946年2月には新円切換えが行なわれたが、1947年7月頃も1ドル=50ウオン=50円だった。1948年10月には1ドル=450ウオン=270円、1949年6月には1ドル=900ウオン=360円となっていく。)

 

 多くの朝鮮人が内地から半島南部にもどってきたことと、半島北半分から逃げてきた者が多かったため南半分の人口が増加したことも食糧不足の一因だった。「1946年までに徴用者を中心に140万名が朝鮮半島に帰還する一方、1939年9月の「朝鮮人労働者内地移住ニ関スル件」通達により朝鮮における雇用制限撤廃(自由募集)以前から滞在していた者を中心に約60万名が日本に残った。GHQと日本政府は朝鮮人の引揚希望者を全員帰国させる方針であり、船便による具体的な送出人数に関してもGHQが指示を出している。また、日本国内(内地)の輸送に関しても具体的な指示が出ている。」wikipedia

 

統制への再転換

 アメリカ軍政は食糧不足と物価高騰の危急事態に対処せざるを得ず、1945年12月には一般告示第6号で米穀統制解除の第1号告示を改め、1946年1月には法令第45号「糧穀収集令」を公布した。

 しかし、1945~46年度の米穀供出量(政府買入れ)は、目標の5.4%しか達成できなかった。生産量1,283万5,827石の内、供出量は69万4,139石(精米)に過ぎず、その中には日本人地主の小作料10万石と軍糧が含まれていた。(この数字は「資料 キム・スンジュン『南朝鮮における農地改革』」立命館経済学第十四巻三号で紹介されている1958年発刊の同書籍からの孫引きになる。原資料は韓国銀行『経済年鑑』1955年版とある。

 この不調の原因は、タイミングの問題もあるだろうが、政府買入れ米価が自由市場米価に比べ、安すぎたのが原因とされている。1945年の自由市場価格は、先に引用したように100リットル1,078ウオンで、政府買入れ価格はその12%の132ウオンに過ぎなかったのである。なお、1946年度以降は下記のようになっている。

 

               1946~47    1947~48   1948 ~  1949~

A 自由市場米価(100ℓ/won)   6,567       11,192  17,652  19,108

B 政府買入米価(100ℓ/won)   2,384         2,384    4,933  10,688

 割合B/A(%)          36        23    28      55       

C 米穀生産量(石)       12,050,388   13,850,000   

D   供出量(石)         3,557,727     5,004,859

 割合D/C(%)          29.5      36.1