1945年8月15日以降における韓国の農地改革(朝鮮半島における土地制度の変遷)その17

 産米増殖計画 その2

 

 「飢餓輸出」説について

 「産米増殖計画」でウェブ検索すると上位に出てくるレポート「産米増殖計画期の日本と朝鮮」(近藤郁子、立命館大学ゼミ)から引用させていただく。(下線は引用者)

 引用開始

 (2)1920年代の産米増殖計画

 ところで産米増殖計画は、1920年代の「文化政治」と密接に関わっている。産米増殖計画の立案を「三・一独立運動」後の統治政策との関連をみると、次の二点があげられる。

 まず第一に、将来さらに悪化が予想される朝鮮の食糧不足・米価騰貴に対してとられた措置であり、その意味で社会政策的性格を帯びていたということである。当時、朝鮮における米収穫高は安定していないにのにもかかわらず、人口は着実に増加していた。しかも、日本の一人当たり年間米消費量は一石を上回っていたのに対して、朝鮮人の場合は0.7石(1915~18年平均)と少なかった。したがって何らかの対策を講じなければ、これまでの朝鮮総督府がとってきた農業政策、すなわち日本のための食糧供給基地化政策を行なわざるを得なくなり、朝鮮人の食糧事情をますます悪化させる。

 (3)産米増殖計画の問題点

 最後に、この産米増殖計画の中で生じた問題について記す。第一に朝鮮農民の深刻な食糧不足・経済的破壊を引き起こしたことである。1910年代から30年代にかけて、日本人一人あたりの米消費量は恒常的に年1.1石内外であるが、朝鮮人一人あたりの米消費量は12年0.77石から32年0.40石へと激減する。これは朝鮮の農民自身による米の積極的な商品化の結果ではない。農民の所得米は高率小作料・高利貸の介在によってわずかしかなく、しかも租税負担等のために、そのわずかな籾を唯一の換金作物として、出廻期に庭先で売らざるを得なかったことによってもたらされたのである。

引用終了

 

 上記レポートにあるように、朝鮮における米の平均消費量は減少していったことから朝鮮米の内地への移出は「飢餓輸出」であったということが言われる。自分の作った米を、自分の食い扶持まで内地へ売ったということだ。

 

 1人当り米消費量の減少について 

 朝鮮半島での米の総消費量(総生産量に輸入移入量を加えた総供給量から、輸出移出量を差し引いた量。)を総人口で割った値を平均消費量とする。資料によれば平均消費量の減少は明らかである。

 大正元(1912)年には、総消費量およそ11,029千石で人口はおよそ1,413万人なので、1人当り平均消費量は年0.78石になる。一日にすれば2.14合である。この歳の内地への移出量はおよそ246千石(総生産量の2%ほど)だった。

 昭和3(1928)年、朝鮮は豊作で、総消費量およそ11,080千石、人口はおよそ1,867万人なので、平均消費量は年0.59石になる。一日1.63合である。この年の内地への移出量はおよそ7,069千石(総生産量の41%ほど)であった。

 

 この減少の原因を考えると、まず第一に、人口の急激な増加に生産量の増加が追いつかない結果であったと言える。耕地面積が増えず反収が伸びなければ生産量は増えない。そんな中で人口が増加すれば、当然1人当りの消費可能量は減らざるを得ない。

 また、急激な人口増加は幼少年齢層の増加を意味する。彼らの米消費量は大人の消費量より遥かに少ないだろう。この結果、総消費量が増えても全体の平均消費量はさらに下がっていく。

 日本内地に於いてもこの傾向が見られることは前回引用したグラフで見て取れる。

 

 以前、人口について考察したが、あらためて1925、30、35年の14歳以下人口の、総人口に対する割合を見てみる。

           a 総人口   b 14歳以下人口  割合 b/a

 大正14(1925)年  19,522,945人  6,491,287人   33.25%

 昭和  5(1930)年  21,156,393   8,345,582    39.45

 昭和10(1935)年  22,893,038   9,306,213    40.65

 

 毎年30万人ほどが新に生まれ、14歳以下人口が増加して総人口の4割を占めるに至っている状況である。低年齢層の増加によって、当面、平均消費量は減少していくが、将来、人口ピラミッドが三角から釣り鐘型に安定してくれば、平均消費量も総消費量も大きく増加することは必然である。何らかの対策がなければ食料危機に陥ることは予想できた。これは近藤氏のレポートの通りだ。

 現代中国の「一人っ子政策」のような産児制限ができない以上、米を輸入するか、国内で増収をはかるかしかない。国内で増収できればこれに越したことはないが、内地の水田はもう増やし難い。しかし朝鮮は内地に引けを取らない米作に適した風土であり、農事改良などでまだまだ反収の伸び、収穫量の増加が期待できた。それで産米増殖計画が立案されたのだ。(開墾、干拓、灌漑事業もあるが、後に回す。)

 

 生産量が増えても移出量が増えたので総消費量は減少した

 総生産量に対する総消費量の割合は、朝鮮統治の始めには95%ほどだったが、次第に低下し、昭和に入ると70%を下回るようになった。30%以上を輸移出し、幾許かを輸移入(台湾・日本から)していた。

 前回引用したグラフでも分かるように、1920年代前半の内地では、反収も総生産も停滞していた。一方人口は増加するのだから、不足する米は輸移入しなければならない。それで朝鮮からの移入が増えていったのだろう。

 例えば、昭和4(1929)年にはその比は64%ほどであった(総生産量13,512千石、総消費量8,642千石)が、この年、内地へおよそ5,378千石を移出し、台湾から124千石、内地から123千石を移入している。台湾からは安い蓬莱米、日本からは砕米が移入されたのだろう。

 内地への移出量はどのようにして決るのか。政府が一定量を指示するというようなものではなく、商売であるから、大阪堂島で取り引きされる相場による。朝鮮米は、この時期までの改良によって日本人の嗜好に合う美味い米になっていたため、内地米と同等あるいはより高値で取り引きされていた。

 そして米は豊作凶作の差が大きく、不安定である。内地と朝鮮の片方が凶作ならもう一方から補えるだろうが、両方が同時に凶作だったりすれば大変である。この作況が米価に影響し、売買量に影響する。政府は、豊作で内地の米価が低落すれば対策として輸入移入量を制限し、政府自身が買い入れる。凶作で米価が高騰すれば輸入移入を増やし(輸移入税の廃止)、政府保有米を売り出して価格調整を行なうようになった。

 このように米の流通については様々な要因が関わっていて、かなり複雑な影響関係になっている。なので、今、産米増殖計画期の移出入の全貌は良く分からない。(前回引用させていただいた大豆生田氏の論文を理解できていない。)

 朝鮮の米は穀物商や精米所を経て移出される。その元は小作米として地主の元に集積されたものである。仮に朝鮮の水田の全てが小作地であれば、小作料として、総収量の半分が地主の下に集積されるわけだ。圧倒的多数の農民が小作(自小作)人であり、小作料は籾のまま集積される。それを脱穀して玄米にするか精米して白米にするか。輸出港付近には精米所が乱立したという。

 米を集積するのは地主で、売り買いするのは穀物商である。移出米が儲けになるとなれば小作米以外にも農民から直接買い集めるだろう。売ってしまった自家消費分は、安い輸移入米に買い換える。あるいは麦や粟を食べる。こうして農家に貴重な現金収入が生まれる。ただ、「庭先価格は中心市場の籾価格に対して35%程度の格差が付けられていた。」(「植民地期朝鮮の産米増殖計画と工業化」金 洛年 韓国東国大学1995 土地制度史学第146号) 

 貧農は、その現金収入で借金を返済し、また金融組合の奨励する貯蓄に充てることで、借金地獄から抜け出そうとしただろう。

 

 米を内地に売って朝鮮にもたらされた利益はどこへ行ったか

 すべてが穀物商や地主の贅沢に消えたわけではない。それは工産品の移入のため内地に還流し、あるいはまた朝鮮の銀行や会社への株式投資として、これから来たるべき朝鮮の工業化を支える資本となったのだ。

 「大地主・穀物商の株式投資は積極的で、投資の絶対額の増加のみならず、朝鮮人の場合は、その寄与度においても上昇していたのである。また、大地主・穀物商は、単純な株主にとどまらず、会社の代表者である比率も高く、会社の設立や経営にも直接参加していたものも多かったのである。(中略)朝鮮工業化は、こうした地主・穀物商の資金の資本転化(または、一部ではあるが、かれらの経営者化)に負うところも大きかったといえよう。(中略)1920年代の産米増殖計画と、米移出を中心とする朝鮮農業の日本への編入のあり方は、重要な結果の一つとして、朝鮮における農業剰余の増大を生み出し、それが、①朝鮮内の工産品市場の先行的な拡大と、②農業剰余の資本転化、という二つのルートを通じて、朝鮮工業化の内在的展開のための基盤を形成していたといえるのである。」(既出「植民地期朝鮮の産米増殖計画と工業化」金 洛年 より)

 

 飢餓状況は現実にあったのか

 米消費量の急激な減少から、摂取カロリーの減少を以て飢餓状況であったとする論説がある。食糧と農村と人口流出:データで見る植民地朝鮮史 (sakura.ne.jp) からの孫引きになるが、金洛年編のグラフ「主食からの1人当り一日カロリー摂取量」では、1925年以降の朝鮮では、1,958カロリーから1,595カロリーの間にあることがわかる。平均は1,700~1,800カロリーだろう。これは米、穀物類、芋類だけの量で、他に野菜・魚などの分が加わり、大人なら酒も入るだろう。これは「飢餓」なのか? (戦前の日本内地での摂取量は一人一日2,000カロリー程という。)決して十分な食生活ではないが、朝鮮人の殆どが農民で、その多くが小作人であることと、戦前の日本の小作農民の生活水準を考えれば納得できるものではないだろうか。

 (筆者後日注上記の記事中の単位「カロリー」は「キロカロリー」のはずである。筆者も間違ってしまっている。米1合を520キロカロリーとすれば、2,000キロカロリーは3合8勺ほど、1,800キロカロリーは3合4~5勺に相当する。記事中のグラフを見ると、米だけでは1,000キロカロリー(米2合以下)も摂れていないが、その他の穀物でカロリーを摂っていることが分かる。なお南朝鮮では1936年は豪雨、1939年は旱害の被害が大きかったことが食糧事情に影響しているだろう。

 戦争直後の日本人の平均摂取量は1,900キロカロリーほどで(ただし配給量はこれよりずっと少なかった)、その後次第に増えて1970年代には2,200キロカロリーを越えたが、そこから減少に転じ、現在では1,900キロカロリーを割っている。)

 

 産米増殖計画と農民窮乏化の因果関係

 問題は、飢餓か否かということより、上記サイトでも指摘されているように、産米増殖計画によって農民の窮乏化が進んだというところにある。

 自作農が減り、小作農も土地を離れざるを得ず、貧窮者(火田民や傭雇、土幕民)が増えたことが問題なのだろう。それは小作料の重圧の他に、現金が必要な状況が作られたからだということである。具体的には化学肥料の購入、灌漑に伴う水利組合費の負担などがあげられる。借金の繰り返しから抜け出せない貧窮農民が増えたのである。

 この辺については「水利組合」の実態が分からないので調べてから書くことにする。

 

 

 現代日本人は一日に1合も食べないだろうが、昔は一人が一食に米1合で一日3合食べると、一年で1石になる。これが標準と考えられていた時代だ。幕末の日本で、おおよそ水田総面積3百万町歩として反収1石で総収量3千万石。人口3千万人で一人1石というのが大雑把な計算だ。

 徳川時代の江戸町民は5合くらい食べたらしい。玄米でなく白米を大量に食べたので脚気になりやすく「江戸患い」と呼ばれた。宮沢賢治は「一日に玄米四合」と書いた。しかし、一般庶民はそれほどの量は食べず、農民にいたっては極端に少なかった。ドラマ「おしん」に描かれたように、小作農は白い飯など食べたことがなく、大根飯のような「かて飯」や麦飯、粟などの雑穀を食べていたので、標準一日3合と言ってもあまり妥当しない層が多いだろう。これは朝鮮に於いても同様であったはずだ。