1945年8月15日以降の韓国における農地改革(朝鮮における土地制度の変遷)番外5

人口の推移について

 岩波新書『植民地朝鮮と日本』(趙景達2013)を読んでいて、ふと考えた。

 同書では医療と衛生について、日本人と朝鮮人の罹患、死亡率などの差に関して、

「この数字は、近代の「恩恵」が宗主国民と植民地民とで、いかに不平等に付与されたかを物語っている。それは、絶対的貧困の問題であるだけでなく、朝鮮人に対する医療行為自体が暴力的になされた結果でもある。たとえば、種痘などは問答無用で行われる場合があった。また、伝染病治療では、朝鮮人医療機関や隔離施設は日本人のそれに比べひどい状況にあったため、行くのを嫌がる朝鮮人が多くいた。官立・道立病院などは、人口比的に見れば圧倒的に日本人が行くところであった。

 ところが、植民地期、朝鮮人の人口は増加している。公式統計によれば、一〇年に一三一二万人であったものが、四一年には二三九一万人となる。実に一・八二倍になるが、一〇年の統計には不備があり、実際は一七〇〇万人ほどと見られる。いずれにせよ、三〇年くらいで一・四倍ほどに増加している。これは、異常な出産率の高さによるものである。二〇世紀の植民地では、一般にどこでもみられる現象であるが、近代化の「恩恵」などではない。生活不安は、将来の社会保障のために、かえって子だくさんの家庭状況をもたらすのである。」と書いている。

 

 暴力的に医療を施す? 種痘を強制することが暴力なのか、良く分からない。

 医療もタダではないので、治療費が払えなければ病院には行かないだろう。

 20世紀の植民地…それはもう日本の統治した朝鮮、台湾、南洋くらいではないだろうか? それ以前の例ではどうか。オランダはインドネシアを300年以上植民地にしたが、人口増はあったか? 現地の民への医療はあったか? 「20世紀植民地の一般的傾向」と言うのでなく、「近代化する国家に一般的な特徴」と言えないのか?

 人口増は近代化の恩恵ではなく、生活不安から将来のために多くの子供を産んだ結果である? つまり、植民地となったがために生活不安が増大したと…。

 人口増加は、[植民地下の生活不安から、将来子供に面倒みてもらおうと、出産率が以上に高まった]せいなのか、[出産率はそれほど変化しないが、死産率や幼児死亡率が大幅に減少した]結果なのか。それとも両方相俟っているのか。

 

 あらためて統計年報を見てみた。毎年の出産(生産+死産)の数字がある。明治44(1911)年の生産は27万7千473人で死産は5千243人である。それぞれ千分比で人口の20.06、0.38ほどである。(この辺は丸めた総人口で計算しているので厳密に正確ではない)2%の出生率は次第に3%に近づいてゆく。

 20年後の昭和5(1930)年には、総人口1千969万人。前年から91万人の增加。生産は76万602人、死産は3千610人(対総人口の千分比は、それぞれ38.63と0.18である。生産は1.9倍、死産は半分になっている)。だが生まれた人数より総人口の増加の方が多い!?

 子だくさんになっていく理由は、死産の半減、乳幼児死亡率の低減による影響の方が大きかったのではないか。ちなみに生産率が最も高いのは大正12(1923)年で、千分比は40.68である。

 

 人口統計を見ていて、気付いたことがある。

 毎年の人口増加は、大正2(1913)年の104万人増という異常な数字を除けば、大正5年までは30万人台が続いている。その後、大正時代は毎年10万人台の増に過ぎず、災害の年には8万、4万、1万という年もある。ところが、大正14(1925)年や昭和5(1930)年、10(1935)年は国勢調査があり、綿密な調査の所為か、人口が跳ね上がり、90万人以上の増加をみる。つまり、その前の5年間に統計から漏れていた人がいるということだ。

 昭和15(1940)年以降は、80万、90万、160万と急激に増加してゆく。

 

 今回気付いたのは、この毎年の人口増加数と出生数、死亡数が合わないことである。出生数から死亡数を引いた人数が純増加人数だと思うのだが、総人口はその純増数と合わないのである。初め、この相違について混乱し、面食らってしまった。(死亡数は対総人口千分比で20台になっていて大きな変動はないようだ。)

 大正9(1920)年までは(8年を除く)、純増(出生-死亡)数より総人口増加数の方が格段に大きい。これはどういうことか? 総督府統計年報の緻密さは驚嘆するほどであるが、この数字の不整合はいかなることか。

 ただ、大正10年以降は逆に、純増(出生-死亡)数よりも総人口増加数が少ない年が続いてくる(多い年もある)。

 

 考えてみるにこれは、出生・死亡の人数はおおよそ正しいとして、20代、30代…と各年代の人数が増えているのだろう。つまり、前には統計に漏れていた人々が新に入ってくるということが、日本統治期前半には多かったということなのだろうと推測する。

 この辺は、戸籍がどの程度整備されていたのかという問題もある。

 一方、日本統治期後半になると、統計に未掲載だった人は減った代わりに、掲載されていた人が消えるという場合が多くなったのではないか。それは頻発する災害で行方不明になったり、人口の移動が激しくなり、把握するのが難しくなったということかもしれない。住民票のようなものがあったのかどうか。ちなみに朝鮮人の戸籍は、内地に移住しても朝鮮半島内に置かれていた。

 このことについては、まだ釈然としない。何か誤解しているのかも知れない。

 人口については下記のページでも触れています。

 

1945年8月15日以降の韓国における農地改革(朝鮮半島における土地制度の変遷)番外 2 - 晩鶯余録 (hatenablog.com)

1945年8月15日以降の韓国における農地改革(朝鮮半島における土地制度の変遷)その5 - 晩鶯余録 (hatenablog.com)