1945年8月15日以降の韓国における農地改革(朝鮮における土地制度の変遷)その30

朝鮮半島における戦前の供出と配給

 

 いささか古い資料ではあるが、『南朝鮮における農地改革』(キム・スンジュン1958、島田斉一訳・井上晴丸解題、立命館経済学第14巻3号)によれば、

 「その後、米軍が南朝鮮に進駐するや、彼らは旧来の土地所有権に何ら手を加えることなく、小作農は従来とおり地主に小作料を無条件に納めねばならないことを宣布し、それによって、日帝の植民地的・反封建的土地所有制度をそのまま維持しようとする自己の意図を表明した。」

 「アメリカは軍備拡張、傀儡軍隊および警察人員増強、日本軍国主義復活のための穀物輸出の強行等の切迫した諸要求に基づき、解放当初から穀物買上げー収奪政策を強化した」

 「強制供出を強化するためには勤労農民のみを対象にするのは困難であった。というのは、反封建的小作制度の下で商品化するであろう穀物は、そのほとんどが地主の手許にあるからである。」

 「だから米軍政庁は、一九四六年から小作米のうち、地主が小作人から(筆者注、地主家族の)自家消費米だけを受取るようにし、その残りの部分を小作人から直接強制的に買上げることにした。地主は、今や合法的に入手しうる現物小作料は自家用米だけであり、小作料の残りの部分は金融組合を通じて、市場価格以下の「公定価格」で換算した現金を貰えるだけである。」

とある。

 

 米軍政は確かに日本統治期の土地所有制度を継続した。しかし米の流通については、戦争末期の統制を廃止し、自由な市場売買とするという大きな変更を行なった。だがこれは失敗し、自由市場は昭和20(1945)年11月には廃止された。

 また小作米については、すでに昭和15(1940)年以後、自家消費米以外はすべて供出することとなり、道糧穀配給組合が中心となって集荷・配給を行なっていた。だから、小作米の「ほとんどが地主の手許にある」ようなことはなかったのである。キムはこの戦争末期数年間の供出・配給制度の存在を無視して論じているようだ。米軍政は戦前の供出・配給制度を復活させたのであり、地主の優位性喪失は1946年から始まったわけではなく、1940年にはすでに始まっていたのである。

 

 また供出の目的についても、第一は国民への配給であり、「収奪」された米が軍政によって好き勝手に使われたわけではない。供出する農家側には不満があっても、国民全体の食糧問題解決のためには必要であったのだ。

 窮乏し、自家消費米にも事欠く農家に対しても配給が行なわれたはずだから、農村飢饉の防止に寄与していた面もあるはずだ。

 「食糧供出は戦時期に農民から大きく不評を買った一方で、供出が存在したため、配給が行え、凶作による食糧不足の農村の全滅を防いだ例もあ」る。(『戦時期の朝鮮における食糧の供出ー1939~45年を中心にー』小坂直生2018)

 

 日本内地で食糧管理制度が急速に進められたのと歩を並べて、朝鮮でも食糧管理統制の制度が整えられていった。ただ内地の方が、戦争遂行のために耕地面積が減り(軍関係の施設などに転用された)、農耕従事者も徴兵されて減ってゆき、朝鮮や台湾からの米移入路も断たれていったため、食糧事情はより悪化していただろう。

 

 日本敗戦直後の朝鮮半島状況は混沌としている。総督府の行政機能が麻痺したとき、食糧制度はどのようになっていたか。まず供出ー集荷が不可能になっていっただろう。結果として都市住民への配給が行えなくなる。供出と配給は裏表だからだ。米価は高騰する。帰国者を含む労働者、失業者は米よこせのデモ、ストライキを行う。それは1946年秋の大規模抗争、暴動の発端でもあった

 統治者はどうしたらよいのか? 米はどこにあったのか? 配給するための米をどこからどうやって調達するのか? 各人民委員会が地主から小作地を取り上げて、小作人に無償で分配したとして、収穫した米はどこでどうやって売ったのか?

 

 戦後、農地改革はさておき、朝鮮戦争の期間も含めて、配給制度が続いたと思うのだが、実態はどのようなものだったのだろうか。