1945年8月15日以降の韓国における農地改革(朝鮮半島における土地制度の変遷)その24

 1945(昭和20)年8~9月の状況 アメリカ軍の南朝鮮進駐

 

 土地制度(農地・農業・食糧政策)を中心に見てきたのだが、日本敗戦直後の政治的状況をみておきたい。前回見たように、一夜にして朝鮮人の態度が変じ、主人と雇用者との関係が逆転する中で、警察官や末端の官吏が攻撃対象になると、日本人は恐怖に駆られて逃げようとした。満州からの避難民から聞くソ連軍の非道による悲惨な状況もさらに恐怖を駆りたてただろう。そんな中で総督府中枢は日本人保護、進駐軍対応に全力を尽くしていた。その涙ぐましい働きを知らないでは、総督府による統治の最期を理解することはできないだろう。

 

 朝鮮の終戦直後の状況は、政治史的に見て非常に混沌としている。南北分断占領の中で、米ソのそれぞれが自国側に近い政権のもとでの統一を目論んでいたのだから、最初から上手くゆくわけはなかった。

 北朝鮮では8月上旬からソ連軍が侵攻してきたから、共産化は目に見えており、それを怖れて南へ逃走した日本人、朝鮮人は80万人に及ぶといわれる。ソ連軍は「自然発生的」にできた人民委員会による統治を認め、その上に民政部を置いて、右派・民族派を排除し、共産党中心の政権を打ち立てていく。

 南朝鮮では米軍の進駐が遅れたため、各地で人民委員会が力を発揮していた。米進駐軍は、現実に見た情勢に対応する(反共)ため国務省の意見に反する形で総督府の機構を維持し、右派、親日派地主層を中心に政権を立てようとしたので、人民委員会は次第に弾圧され、解散させられて行く。南の人民委員会については、ブルース・カミングス『朝鮮戦争の起源』で詳しく分析されている。

 

 なお、朝鮮の戦後史(朝鮮戦争以前)について韓国戦後史年表 1 (plala.or.jp)を参考にさせていただきました。かなり細部にわたって、時系列的に知ることができます。ただ、事項の羅列から政治状況を理解するのは不勉強な者には大変です。

 

 アメリカが38度線を分断線としてソ連との南北分割占領を決めたのは8月の10~11日の土日曜だった。15日、スターリンは分割占領案を受け入れた。14日、スティルウエル将軍は沖縄に打電し、「朝鮮は(少数の日本人以外はすべて)準友好国並みの待遇をもって占領されるべき」と述べた。

 8月15日(水)から米軍が進駐する9月8日までの24日間、南朝鮮では呂運亨の「建国準備委員会(建準)」が着々と組織を広げ、各地の工場では労働組合が、農村では農民組合が結成された。日本人経営の工場では労働者が規定外報酬の支払いを要求したり、工場を接収し自主的な管理運営を行ったりした。また、朝鮮人経営の京城紡績工場でもストライキが行われた。

 「農業組合はこの秋の収穫について「米の供出、貯蔵、配給の任務にあたった。また地主からの土地没収の試みや小作権・借地料の解決を模索した。」 「しかし、自然発生的、分散的なこれらの組合には相互連繋もなければ予定計画もなかった。」(『朝鮮戦争の起源』)

 8月16日(木)、トルーマン大統領は「日本は分割統治せず」との声明を出し、米国単独占領を言明する。スターリンは「北海道北部のソ連軍占領」を提案するが、アメリカはこれを拒否。

 同日午後、建国青年治安隊、ソウル市内を示威行動しつつ警察署のほとんどを接収総督府庁舎の接収は拒否される。中央建国治安隊が活動開始全国の地方治安隊、学徒隊、青年隊などの活動を統制する。その後、全国に162の地方治安隊が誕生。

 同日 午後3:10、建国準備委員会副委員長安在鴻、「国内・海外の3千万同胞に告ぐ」と題し、午後3時、6時、9時の3回にわたってラジオ放送。この中で警衛の新設、正規兵の編成、食糧の確保、物資配給の維持、通貨の安定を柱とする「建国準備大綱」を発表。呂運享は「雅量を示さなければならない」として国民の自制を呼びかける。日本人に対する報復は10数件にとどまる。

 8月17日(金)、上海の大韓民国臨時政府(臨政)代表(国務総理)金九(白凡)、中国駐米大使を通じトルーマン大統領に早期の朝鮮帰国を要請。「韓国と韓国国民の現在および将来の運命に影響する全ての会議に参加しなければならない。」と訴える。

 同日、日本軍大本営マッカーサー宛に打電。ソ連軍が38度線以南まで進出することを阻止するよう要請

 8月18日(土)、在中国連合国軍司令部の米使節(団長はOSSバード大佐)が、ソウルの汝矣島(ヨイド)飛行場に強行着陸。米軍進駐の方針が初めて総督府に明らかにされる光復軍李範奭らも同行したが、日本軍との交渉がまとまらないまま引き返す。光復軍は中国西安に本拠を置き、国民党軍や米軍の下にあったが、この後、すべての準軍事組織は私兵として禁止され、光復軍も帰国を許されなかった。

 8月19日(日)or20日、韓民党の金炳魯白寛洙が建準本部に来て、政府を自称せず、治安維持組織にとどまるよう提案する。金炳魯は明治大学法学部卒。1948年、初代大法院長に就任した。

 同日、米軍第24師団の先遣隊が仁川に上陸

 (18日に重複する。どちらが正しいのか不明)OSS(戦略情報部、戦時諜報部)の18人が、空路ソウルに入る。12人はアメリカ人で6人は朝鮮人。その中に臨政の一員李範奭も含まれていたという。

 8月20日(月)、午前、朝鮮軍管区の強硬派将校が、建準その他の団体を召集。「各団体が午後5時までに解散しなければ実力行使する」と宣言。市内各所に兵員を出動させる。総督府は「軍管区の独断である」として一切の責任を回避。午後、建準が態度を硬化させ、朝鮮軍管区に解散命令の撤回を要求。軍部は結局、命令を撤回。(出典未詳)

 南では日本人の内地への渡航地、集結地などは依然として日本軍が守備していた。

 同日、連合国中国戦区ウェデマイヤー司令官の署名入りのビラが撒かれる。これにより米軍のソウル進駐の方針が公にされる。(ビラの内容未詳)

 同日、朝鮮共産党再建準備委員会がソウルで結成される。委員長に朴憲永が就任。「現情勢と我々の任務」(八月テーゼ)を報告。長安共産党(この名称は長安ビルに由来する)の解散を求める。再建委員会の開催を受けた趙東祐長安共産党指導者の地位を辞す。

 8月22日(水)、日本政府内務省より朝鮮総督府への正式な指示.治安維持と日本人の安全確保を要求.これまでの総督府の対処方針を追認。

 8月23日(木)、総督府,軍兵士を警官に転任させるなどの措置により,日本人1万2千人を治安確保にあてる

 8月24日(金)、京城-元山間の鉄道、全谷-東豆川間でソ連軍により遮断される。翌25日には京城新義州間の鉄道、土城-海州間の鉄道も、38度線を境に遮断される。ソ連軍は日本人知事に対し、38度線を越えた人間・物資の移動を禁止すると通達

 8月31日(金)、米第24軍はソウルと直接の無線連絡に成功(総督府との連絡か)。

 9月2日、日本は東京湾ミズーリ号上で降伏文書に調印した。同日、朝鮮進駐米軍司令官ホッジは次のような『朝鮮の民衆に告ぐ』を発表した。

 「アメリカ合衆国の軍隊は日本軍の降伏を受理してその条件を履行させ、国内の秩序ある行政と復興を確保するために近日中に朝鮮に到着する。これらの任務は厳格な規律の下に施行されるが、しかしアメリカは長い民主主義の歴史を有する国であり、従っておのれに比し幸い薄き他国の民衆に対しては民主主義によって育まれた仁慈の精神をもって接することであろう。…」

 ソ連北朝鮮で発表した布告に比べると、解放の喜びを共有するというより、占領者としての旧植民地、被支配国への優越的な目線が感じられる。さらにスティルウエル将軍の「朝鮮は準友好国並みの待遇をもって占領されるべき」との電文に齟齬するようである。

 同日、「建国青年治安隊本部」は「建国治安部」となる。呂運亨は9月末から11月初めにかけて建国準備委員会を「人民委員会」に改編していく。この過程で左右対立の激化から右派が脱落していく。保守的地主を中心とした湖南グループ宋鎮禹を党首に「韓国民主党」を立ち上げる。

 9月4日、ホッジ駐朝鮮米軍(USAFIK)司令官は、「朝鮮は合衆国のであり降伏の諸規定と条件が適用される」旨の通告を発する。明らかに、解放ではなく占領だとの認識である。スティルウエル将軍の意図と違って、ホッジ(あるいはその先遣隊)はおそらく総督府の日本人から多くの現地情報を得たのだろう。それは日本人側の観点に立つものが多かったに違いない。

 9月6日、呂運亨らは全国人民委員会代表者大会を開き、朝鮮民共和国の樹立を宣言。8日、内閣の名簿を発表する(14日とする記述もある)。しかし、亡命其の他、国内不在の者も多く、ほとんど代理者が立てられていた。つまりこれは「現実」に裏付けられない、有名人を書き並べた空想的な閣僚名簿にすぎなかった。

 主席:李承晩70才  副主席:呂運亨60才  国務総理:許憲60才 

 内務部長:金九69才  外交部長:金奎植64才  軍事部長:金元鳳51才

 財務部長:晩植63才   保安部長:崔容達44才  文教部長:金性洙56才

 司法部長:金炳魯58才  宣伝部長:李観述41才  書記長:李康国41才

 金日成33才、役職未詳。9月6日の人民共和国中央人民委員会名簿にある。名簿は総勢67名(内顧問12名)。

 

 米第24軍は9月5日に沖縄を出発し8日未明に仁川港の岸壁に着いた。13時上陸開始。日本人警察官が整列して迎えたこの時点では日本人警察官の90%は任務に就いていたが、朝鮮人警察官は80%が姿を消していた

 この時、停泊中の司令船に、建準代表と自称する呂運弘(運亨の弟)ら3人の朝鮮人が訪れたが、ホッジは会わなかったという。7日には軍政の実施を宣言していた。

 翌9日、米軍ソウルに入る。日本軍が整列して迎える歓迎の群衆はいない降伏の儀式後、ホッジは「総督府職員は現職に留まり総督府は従来の機能を継続する」と発表した。午後に群衆が街頭を練り歩いたが、夜間外出禁止令が出された。

 11日、連合国軍最高司令官マッカーサーはホッジに対し「日本人官吏を直ちに解任するよう」電報で通知した。同日アメリカ軍政庁USAMGIKを設置。総督府の機構を基にしていた。

 12日、朝鮮総督阿部信行に代わってアーノルド少将が任に着く。

 14日、米国務省マッカーサーに対し、総督以下日本人官吏、対日協力者、朝鮮人官吏の解任を要望する

 この、国務省及びGHQからの指示と現地朝鮮進駐軍の行動、声明との齟齬はどこから来るのか? ホッジと軍政庁は、政治的、経済的混沌の中で、冷戦の最前線に立たされていた。また、当初は米ソ間で朝鮮半島信託統治するという方針があり、人民共和国を認めることは、南単独での政権樹立になるとして、許されなかった。放置すれば人民共和国が北と連繋し、軍事力を持った北によって、いずれ共産化されることは目に見えていた。

 

 

 日本降伏直後の時期 南北朝鮮の政治状況 現時点での自分なりの理解

 「朝鮮の解放」という理想が現実にどのようになされるか、その具体的な青写真はアメリカの中ではできていなかったようだ。南朝鮮に進駐した米24軍は、本来日本占領のために準備していた部隊である。したがって基本的に敵占領地に軍政を布く方針であったのだろう。しかし日本本土においては最後まで軍部も政府も瓦解せず、整然と停戦、武装解除、降伏が行われた。そのため、旧国家組織を残したままその上にGHQが君臨するという形で占領が行われた。

 ところが朝鮮半島の場合は、「日本の植民地支配下朝鮮民族は奴隷的状態に置かれており、一刻も早く解放されなければならない」という観念が支配的だった(併合は国際的認知を受けていたのに)。そこで混乱が生じた。理想的には日本排除を推し進めるのが正義だが、排除だけではあらゆる政治機能、経済活動が混乱と無秩序に陥る。南北分断占領の下、日本人指導者不在の、かつ組織末端の役人が職務放棄する状況では、総督府の機能を満足に維持することもできなかった。30数年に及ぶ日本の影響を、すべて一気に排除しようとすれば、当然無理が生じる。現地の実態を見れば進駐軍総督府の組織を引き続き利用するのは当然の成り行きだったのだろう。そのような中で、米軍も当初、一部地域では人民委員会の力を借りなければならなかった。

 

 北朝鮮においては、日本の降伏は朝鮮にとって植民地からの解放であり、同時にマルキシズムによる社会主義革命であった。その結果ソビエトの前例に倣ったプロレタリアート中心の政権が打ち立てられることは自明だったろう。その中心となる人材は牢獄から解放された政治犯の他に、国境山岳地帯(パルチザン)から、ソ連コミンテルン)から、また延安(中国共産党)から入ってきた人々がいた。彼らの中には武装闘争の訓練を受け実戦経験を持つプロ集団もいた。

 南朝鮮において、日本軍の武器を手にする軍事的小組織は族生したが、旧朝鮮軍指導者はすなわち親日派であって排除されたろうから、これらの組織はいたって分散的、アマチュア的なものであり、思想的な統率もとれてはいなかっただろう。外部から帰国?した勢力の銃口から革命が生まれたと言えよう。上海-重慶臨時政府の「光復軍」は実質的に戦力たり得なかった。つまり、南朝鮮人の軍事組織は北に比して劣弱だった。

 米軍はその影響力の下に韓国軍を組織する(その中には旧日本軍の将兵だった者も多かった)。

 

 朝鮮と日本本国との関係が断たれる。金融取引、貿易もゼロとなる。米を輸入しなければ成り立たなかった日本の食糧需給体制は崩壊した。日本はアメリカとの戦争中、将来の輸入途絶を見越して40年代に大量の外米輸入を行った。しかし、朝鮮からの移入がゼロになり、外地から大量に引き揚げてくる日本人や復員兵による人口増加で、45年冬には大量の餓死者が出るだろうと言われた。自然災害も追い打ちをかけたが、日本はギリギリの配給制度とアメリカからの食糧援助によってこれをしのいだ。

 一方朝鮮半島では移出米がなくなったうえに(戦争末期にはもう内地に輸送することが不可能になっていた)豊作であったから、米には不自由しなかったはずだが、北朝鮮では進駐したソ連軍が食糧として奪取したことと、南からの輸送が遮断されたため食糧不足が起きた。しかしまた、社会主義を嫌って南へ逃れる人々が流出した(80万人という)ので、消費人口は減少しただろう。

 南朝鮮では日本本土や旧日本支配地から帰国する朝鮮人が多かった。出てゆく在朝日本人よりも戻って来る在日朝鮮人の方が多かった。その人口は200万人ともいわれる。この人々は農民ではない。主に都市生活者となったため、たちまち都市部では食糧不足となった。そのうえ流通がストップし(鉄道輸送に必要な、北朝鮮からの石炭の途絶もある)、併合以前のように細切れの地域内でしか供給されなかったから大変である。前記の農業組合による米の供出、貯蔵、配給も、要するに各地域内での分配という面が強かったのだろう。全国(南北に分かれたが)的な需給調整などは行いようがなかっただろう。もっぱら地主からの土地没収や小作権・借地料を無くするという活動の方に重点がおかれたかもしれない。すなわち、これはもう感覚的には併合前の農民反乱(一揆)に近い行動だったのかもしれない。経済的な混乱と危機。南朝鮮はこの後、アメリカの莫大な援助無しには生きて行けなかった。