1945年8月15日以降の韓国における農地改革(朝鮮半島における土地制度の変遷)その25

 帰属財産について ①

 

 1945年9月9日、在朝鮮日本軍と総督府アメリカ軍に降伏した。この時点以降、「日韓基本条約」(韓日協定、請求権交渉)までの経緯、主な法令、協定を時系列で見てみたい。今回は1948年の「韓米財産協定」まで(この「韓米協定」の本文を探すのが意外に手間取った。協定名が長いので省略されている)。なお、『帰属財産の研究』を読んでいないし、限られた資料・論文から構成しているのでご了承下さい。

 

 1945年9月15日付、ホッジの政治顧問だったベニングホフのワシントン宛政治報告

 「あらゆる〔政治〕団体が共通してもっている考え方は、日本人の財産を押収し、朝鮮から日本人を追放し、そして即時独立を達成するということのように思われる。それ以外のことについては考えはほとんどない。朝鮮はアジテーターにとっての機の熟した絶好の場所なのである。」

 「共産主義者達は日本人財産の即時没収を主張しており、法と秩序に対して脅威となっている。おそらく十分な訓練を受けたアジテーター達は朝鮮人ソ連の「自由」と支配に味方してアメリカに反対するようにさせるために、わが軍の管轄地域に混乱を生ぜしめんとしているのである。在朝アメリカ軍が、兵力不足が原因でその支配地域を拡大しえないため、南朝鮮はそのようなアジテーターの活動に格好な土壌となっているわけである。」(カミングス『朝鮮戦争の起源』1巻5章)

 南朝鮮のこのような状況下で、米軍政庁も日本人財産没収の方向に動いていたようである。下に引用するが、米国務省では終戦前から在外財産の没収が検討されていた。

 

 1945年9月25日の「米軍政庁政令第2号」によって、朝鮮にある日本政府や国民のすべての財産の売買、取得、移動、処分などができなくなった。  

 

 1945年10月19日軍政長官声明

 「米軍政庁の計画は、すべての日本人財産を朝鮮人に有利なようにできるだけ早く没収し、労働を過去40年間存続した絶対的な奴隷状態から解放し、日本人の奸智によって強奪された土地を農民に返し、農民に彼等の汗と労働の結晶の公正な部分を与え、自由市場の原則を回復し、この国の男女、子供の一人一人にこの美しい国が恵まれた大きな冨の公正な分け前を享受できる平等の権利を与えることである。」(鶴嶋雪嶺「南朝鮮におけるアメリカ軍政と土地改革」1977より。ただし、この声明の原文は未確認)

 

 1945年12月6日の「米軍政庁政令第33号」によって、すべての財産は米軍政庁がその所有権を取得した。

 

 なお、日本側では、アメリカ合衆国も批准している「ハーグ陸戦法規第46条には      

 「家の名誉及び権利、個人の生命、私有財産ならびに宗教の信仰及びその遵行を尊重しなければならない。私有財産は没収できない。」とある。したがって戦勝国である米軍も日本国民の私有財産を没収できないはずだ。この政令(命令)33号においては、米軍政庁は管理者として処分することは可能だが、その対価については、正当な所有者である元の権利者が請求権を持つべきである。と考えた。

 一方アメリカ側では、1943~44年段階ですでに戦後の日本経済を見通した検討が行われていた。長くなるが引用してみる。(引用元は「太平洋戦争期におけるアメリカの対日賠償政策-フィアリー(Robert A.Fearey)構想、国際法、日韓関係-」安昭榮2013)

 「部局間極東地域委員会(FEAC)」での検討

 「〔3b〕在外財産の没収:従来国際法上で峻別されてきた公有財産と私有財産との区別は、最近の総力戦時代には適用しえず、善意の取得になる個人財産以外は私有財産も含めてすべての在外日本人財産は没収すべきこと。/〔3c〕略奪財産の持ち主への返還と、その他のすべての共有、私有財産の連合国賠償担当機関への引渡し、これら財産は各国間の合意に基づき、適正に評価された上、日本の負担すべき賠償額から控除すべきもの。」

 「対日賠償の取立方法として在外財産の没収を主張。」

 「従来の国際法上の諸学説、事例を検討。国際法上は在外私有財産権は尊重されるべきであるが、他方、連合国にとって受け入れやすく、かつ、日本経済にとって最も影響が少ない形での賠償支払を最大限にする方法としては、在外私有財産の取立によることが望ましい。私有財産権の尊重と、日本の膨大な在外財産を賠償にあてることを両立させるためには、共有財産を広義に解釈し、「私有財産」を狭義に規定すればよい。半官半民の国策会社やその子会社の財産、あるいは私有財産であっても、その性格上本質的には公的であると見なしうる鉱山、工場などは公有財産とみなして没収し、全く純粋に私的な財産のみを「私有財産」とみなせば、かかる「私有財産」の額は、日本の在外財産のうちごく小部分を占めるにとどまり、大部分の在外財産は賠償として取り立てうる。かかる没収によって日本の財産所有者が被った損害は、日本政府に補償させれば、私有財産権尊重の主旨も貫かれうる半官的財産あるいは公的性格を持つ私有財産を「公有財産」と見なしうる根拠は、旧来の国際法が予定していなかった全体主義国家の新しい財産所有関係、そのものにある。」

 

 戦勝国になる前提で戦後賠償について考えている。第一次世界大戦のドイツのように日本を追い込まず、可能な限り最大限の賠償をさせようというのである。また、戦争が総力戦になった時代、国家総動員して戦争に向かった統制経済の末期では、財産の私有・公有の区別があいまいになり、私有財産の範囲が狭くなっていたという点を指摘しているのだろう。かといって、国際条約の解釈を一方的に変更できるものだろうか。

 

 1948年4月3日、軍政庁は旧新韓公社所有の土地の払い下げを開始した。なお「新韓公社」はこの直前に解体され、旧日本人所有地は新設の「国家土地管理部」に移管された。日本人のものだった土地を韓国民に売却したわけである。売却益は、この後の「韓米財政協定」によって、結局大韓民国の国庫に入ったことになる。

 この有償払下げは、売渡価格は年生産量の3倍。毎年生産高の20%ずつ15年年賦。現物(生産物)支払い(インフレの進行による)。償還終了後も10年間は転売禁止(土地投機防止のため)という内容で、かつて日本が土地調査事業後に行った駅屯土などの払下げに似た内容であった。新韓公社の保有していた土地の85%を払下げ完了したという(面積か? 登記上では59万筆の76%、45万筆の所有権を移転したという)が、5万町歩に過ぎないという説もあって分からない。とは言え、2年後に内戦が勃発し、償還がどれほどなされたか疑問である。農地自体が北朝鮮支配下で没収され無償分配されてしまった所も多かったのではないか。

 この「処分」については、日本はサンフランシスコ講和条約で承認している。

 この土地の処分については、何故1945~46年にただちに行われなかったのか。新しい独立した韓国にまかせなかったのか。いろいろと政治的背景が分析されている。

 

 1948年9月11日の「アメリカ合衆国政府と大韓民国政府との間の財政及び財産に関する最初の取極(韓米財政協定)」によれば、すべての財産の所有権は樹立されたばかりの大韓民国政府に移転された。

 第1条

アメリカ合衆国政府は、地方税務署の土地及び建物台帳並びに図面簿と裁判所の土地及び建物登記簿とに国有財産として分類されているすべての財産と、これらの財産のすべての改修物件及び附加物件と、韓国所在合衆国陸軍々政府及び南朝鮮臨時政府のすべての現金及び銀行預金と、現在までにアメリカ合衆国政府によって韓国経済に供与されたすべての救済復興用需品も含む韓国所在合衆国陸軍々政府の及び南朝鮮臨時政府の局、部及び機関が保有するすべての設備、需品及び他の財産とに対してアメリカ合衆国保有しているすべての権利、権原及び利益を、ここに大韓民国政府に移転する。」

 第5条

大韓民国政府は、韓国所在合衆国陸軍々政府の命令第三十三号に基いて帰属させられた戦前の公私の日本財産の処分で韓国所在合衆国陸軍々政府が既に行ったものを、承認追認する。」

 

 大韓民国においては、没収された財産の所有権が自国に移転された、すなわち韓国政府の所有に帰したという解釈が自然で受け入れられてきたのだろう。しかし、日本においては、半島を追われた「朝鮮縁故者」を中心に、没収されざる在外私有財産の請求権を主張する動きが強くなっていた。アメリカは、ここに日韓間の請求権問題が胚胎していることに気付いていた。

 それはサンフランシスコ講和条約第4条a項(日本から離れる地域の財産の処分については特別取極)、b項(軍政庁命令第33号の承認)の解釈の違いとして現れる。