1945年8月15日以降の韓国における農地改革(朝鮮半島における土地制度の変遷)その26

 帰属財産について ②

 

 1951年9月の「サンフランシスコ対日講和条約」によれば、

第4条

⒜では、第二条に掲げる国当局(朝鮮など)と国民間の請求権の処理については両国間の「特別取極の主題とする」とされたが、

⒝項では「日本国は、第二条及び第三条に掲げる地域(朝鮮など)のいずれかにある合衆国軍政府により、又はその指令に従って行われた日本国及びその国民の財産の処理の効力を承認する。」とあり、日本が「米軍政庁命令第33号(すべての財産の取得)」や「韓米協定(韓国政府への移転)」の効力を承認するとされている。

この⒜、⒝項の記述があいまいなために解釈が分かれ、日韓の請求権交渉が複雑化した。

 

第14条

⒜項では、連合国は日本政府と国民の財産の差し押さえ、留置、清算、処分の権利を持つとされた。

⒝項では、連合国はその請求権を放棄した

第19条では、日本国から連合国へのすべての請求権の放棄が記されている。

 「日本国は、戦争から生じ、又は戦争状態が存在したためにとられた行動から生じた連合国及びその国民に対する日本国及びその国民のすべての請求権を放棄し、且つ、この条約の効力発生の前に日本国領域におけるいずれかの連合国の軍隊又は当局の存在、職務遂行又は行動から生じたすべての請求権を放棄する。」

 

 対日平和条約の草案は1947年から徐々に作られていった。その第2条では日本の領土についてであり、竹島北方領土の問題が残った。当初書かれていた竹島については、19回書き直され、曖昧な表現になって消えた。そして第4条では、日本の旧海外領土(朝鮮、台湾など)に残された日本の財産について、その請求権に関しては各国との間で「特別取極」をするようになっていた。日韓間でも請求権についての取極が必要になるようだった。

 韓国では、帰属財産は米軍によって没収され、その所有権が韓国政府に移転されたとみなした。一方日本側では、ハーグ陸戦法規にある「私有財産没収不可」の法理にもとづき、請求権を主張する考えだった。

 これを知って、韓国側は帰属財産をめぐって深刻な問題が発生する可能性に気付き、梁裕燦駐米韓国大使からアメリカ政府に対して要望書が出された。(「太平洋戦争期におけるアメリカの対日賠償政策-フィアリー(Robert A.Fearey)構想、国際法、日韓関係-」安昭榮2013より)

1951年7月19日「2.As to Paragraph a, Article Number 4, in the proposed Japanese Peace Treaty, my Government wishes to point out that the provision in Paragraph a, Article 4, does not affect the legal transfer of vested properties in Korea to the Repablic of korea and the United States Military Government in Korea, of September 11,1948」

 「2.日本平和条約案の第4条a項について、我が政府は、第4条a項の規定は、1948年9月11日の韓国及び米軍政府への既得財産の法的移転に影響を及ぼさないことを指摘したいと考えている。

 

 これはすでに没収された財産について日本から財産返還請求があった場合、第4条の「特別な取極め」をせよという条文は、米韓協定に影響しないという確約を欲しがったものである。その心配をなだめるために、ディーン・ラスク国務次官補はアメリカ政府の最終決定として書簡を通達した。

1951年8月10日「The United States Government agrees that the terms of paragraph (a) of Article 4 of the draft treaty are subject to misunderstanding and accordingly proposes, in order to meet the view of the Korean Government, to insert at the beginning of paragraph  (a) the phrase, “Subject to the provisions of paragraph (b) of this Article”, and then to add a new paragraph (b) reading as fpllows (b) “Japan recognizes the validity of dispositions of property of Japan and Japanese nationals made by or pursuant to directives of United States Military Government in any of the areas referred to in Articles 2 and 3”.」

 米国政府は、条約草案の第4条(a)の条件が誤解される可能性があることに同意し、したがって、韓国政府の見解を満たすために、(a)項の冒頭に挿入することを提案している。 「この条の(b)の規定を留保して」という文言を追加し、次のように新しい段落(b)を追加する。

(b)「日本国は、第二条及び第三条に掲げる地域のいずれかにある合衆国軍政府により、又はその指令に従つて行われた日本国及びその国民の財産の処理の効力を承認する。」

 

 ここで4条にb項が付け足されたわけだが、これは米軍政府の行った処置に対して日本が承認するというのだから、韓国の主張が補強されたようだ。しかし、米軍政府命令2号及び33号、韓米財政協定のいずれも国際法に違反してはならないとすれば、日本側の主張も成立するかもしれないので、あいまいさは解消されていない。アメリカ政府の意図は、面倒な問題にはアメリカは関係しないから、日韓の間で上手く処理しろということだったろう。しかしその処理には14年という長い時間を要したのだった。

 

 1952年2月からの第一次日韓会談を前に「日本政府は、在韓米軍政府の一連の措置により処分された在韓日本財産に対する日本の財産権、すなわち対韓請求権を主張した上で、日本の対韓請求権と韓国の対日請求権の「相互一括放棄」を実現することを方針とした。」(「1950年代初期、日本の対韓請求権交渉案の形成過程 「相互放棄プラスアルファ」案の形成を中心に」金恩貞2016)

 「旧総督府東京事務所(後に朝鮮関係残務整理事務所)」と「朝鮮引揚同胞世話会」が中心になって、在外財産返還請求に向けた準備が行われた。「朝鮮支配が搾取を目的としたものではなく、むしろ日本人の血と汗によって民族の協和を目指したものであるとする論理が作り上げられた。」同時に私有財産の数値化作業も進められ、1947年3月、在朝鮮日本人「個人資産」が総額257億7115万円と発表された。」(「朝鮮引揚げと日韓国交正常化交渉への道」朴敬珉2018、浅野豊美の書評より)

 日本は「3月6日の第五回請求権委員会において、対韓請求権の主張を妥当とする法的論理をもって対韓請求権を公式に提起した。当初、請求権問題を「法的というより政治的に」早急に解決するよう促した韓国は、日本の主張に強く反発した。」

 「日本の主張は、①命令33号は在韓日本財産の没収を意味しない、②日本の原所有者は国際法上の財産の最終処分権を持つ、③韓国政府が処分した日本財産の売却代金は対日講和条約第4条(a)項により日韓間の外交交渉の対象になる、といったものであった。これに対して韓国は、①在韓日本財産は命令33号によって没収され、②日本は対日講和条約第4条(b)項でこれを承認したので、③日韓交渉の対象となるのは韓国の対日請求権のみである、と主張した。」(金恩貞前論文)

 

 こうして対立のまま交渉は膠着した。日韓両国の要請に、4月29日、米国務省覚書(米国務長官アチソンの答申(仲裁意見))が出された。対日講和条約発効(占領終了)の翌日のことである。占領者の立場からは言いにくいことだったのだろう。

 「米軍政府が取る関連措置と平和条約第4条(b)項により韓国内の日本人財産は没収され、したがって日本はその財産に対し何の権限もなく要求もできないが、そのような処分は平和条約第4条(a)項が規定した両国間の特別調整とは関連がある。」

 

 「関連がある」とはどういうことか。(a)(b)両項の矛盾はまだ解決されず曖昧である。

 

 1957年12月31日の米国からの再答申(立場表明)では、

 「韓国に対し在韓日本人の財産の完全な支配権限を付与したことが取得条項移譲協定の趣旨である。/在韓日本人財産の取得により韓国の対日請求権はある程度充足されたため、平和条約第4条(a)項で規定された『特別調整』とは、在韓日本人財産が取得されたということが考慮されるべしということを考えたことで、韓日間の特別調整は韓国の対日請求権が在韓日本人財産の引渡しで、ある程度消滅または充足されたかを決定する課題を同伴する。」(『反日種族主義―日韓危機の根源』李栄薫2019)

 

 これによって、日本側の請求権は無いということで決着したようだが…

 「日本は請求権主張を撤回しました。あとは韓国側の対日八項目要求を検討することが残りました。」と『反日種族主義』にあるが、実際はまだまだ紛糾は続いたのだった。