1945年8月15日以降の韓国における農地改革(朝鮮半島における土地制度の変遷)その1

 1945年9月8日、米軍が仁川に上陸。この後、戦後の日本支配のために準備していた軍政部が、予定外の朝鮮半島南部に進駐し、半島の体制改革に従事することになる。日本本土は、軍は武装解除され解体されたが、官僚統治機構はそのまま残されて、その上にGHQが君臨する形になった。

 当時、米軍は朝鮮半島をどうするか考えていなかったようだ。日本の支配が終われば自然に独立するものとでも思っていたのか。韓国の王族李氏が政治的中心として望まれ擁立されることもなく(皇室と姻戚関係になったので米国も敬遠しただろう)、もっぱら監獄から解放された反体制派、共産主義者らが親日派を一掃し、人民共和国を建てるべく、動き出していた。日本人の影響を一掃するという考えは当初の米軍政庁にもあった。しかし、急速に反共意識を強めた米国は、人民委員会を認めず、旧朝鮮総督府の官僚制度を受け継いで、旧体制の人材に頼りながら計画を進めることになった。

 戦争直後、日本に対して行われた「農地改革」と同様なことが、朝鮮半島南部でも行われることになったが、それは地主・小作関係の解消という点では日本本土での「農地改革」と同じだった。しかし、大きな違いは半島南部の日本人所有地の処分が含まれることだった。いわゆる「日帝の七奪」の一つをどう回復するかということであろう。

 

 この日本と半島南部(韓国)において同時並行的に行われた農地改革の動きに、どのような共通点と差異があったのか、が今回のテーマ・関心事である。

 

 だが日本本土と違って、半島では1948年8月15日の大韓民国建国、同年9月9日の朝鮮民主主義人民共和国建国、1950年6月~1953年7月の朝鮮戦争の混乱のためにこの改革は完遂されることが無く、その後も近年まで延々と引き摺ることになる。

 

 地主・小作関係の排除=奴隷的状態からの小作人の解放という目的は、いたって現代的な人権問題で日本本土と朝鮮半島に共通し、土地所有の形態を大きく変えるものだった。今、戦後の半島南部の農地改革を見るに当たって、まず、1910年8月の日韓併合前後でどのような変化があったかを知っておくべきだろう。そうして「七奪」の実態を知ってこそ、戦後の改革を良く理解することが出来るのではないか。

 李氏朝鮮大韓帝国の時代、半島の土地制度はどのようなものだったのか。ほとんど知識が無かったので調べてみた。現在はネット上で多くの大学紀要などの論文が読めるので複数の論文を読んでみた。当時の朝鮮半島では日本の江戸時代とは違った土地制度である上に、度量衡の単位もまるで違うので、まずこれらの言葉を理解することが必要だった。

 例えば1900年頃(大韓帝国時代)の「量案」(土地台帳)などの『句水田壹夜味壹負五束壹斗落只』などという記述が、『直角三角形の水田一区画、(収穫高は)一負五束、(広さは)一斗落只』の意味であるという具合である(「只」は良く分からない)。

 1負(ブ)は10束、1束は10把。100負を結(キヨル)と言い、「結」は「生産量(の単位)」の意味でも使われていたようだ(時代的な変遷がある)。「斗落(マジキ)」は穀物の種を播ける広さである。1斗落なら1斗の種もみを播ける水田の広さだが、人によっても播き方によっても違うので、100~200坪ほどの幅があったという。耕地の良し悪しでも違い、耕地を六等級に分けてそれぞれの結負の標準値があったようだ。

 また、畑については「日耕(イルキヨン)」という単位が用いられたが、これは牛一頭を使役して一日に耕作できる広さということである。

 「田」は畑であり、「水田」は上下につなげて一字で書いている。耕作地の形は概略記号化され、「方」は正方形、「直」は長方形、「梯」は台形、「圭」は二等辺三角形、其の他「牛角」などおおざっぱな表記で書かれている。縦横の長さと東西南北四辺の目標物が書いてある。未だ科学的な測量によるものではない。

 このように大韓帝国も近代国家として土地帳簿(量案)を作ろうとしていたが、日本の検地とはかなり違うもののようである。

 所有権者(時主)と耕作者(時作)を分けて記録し、「官契」を発給して所有権を証明した。が、旧来朝鮮の「明文」(売買文書)では、所有権者名は「戸」だったり空欄だったりした。自然人のほか「洞里」(農村共同体)、「宗中」(血縁共同体)、「契」のような利益集団などが所有者たり得た。そして所有権の管理は洞里の自治秩序に委ねられていた。

 この所有権の部分を、総督府の土地調査事業では「面」が管理し、前記のような法人の所有を認めなかった。「朝鮮総督府は、自然発生的に形成され自治的性格をもつ団体所有を解体し、これを個別化すると同時に、最末端の行政機構である面に財産管理権を付与し、中央執権的植民地支配が可能となるようにシステムを構築したのである。」(大韓帝国日帝初期における土地帳簿とその性格』崔 元奎 釜山大学校教授 2015 より引用

 このことが、朝鮮半島南部の農村共同体を解体し、ひいては小作農の増加、火田民の増加を招いたとも言えなくは無いだろう。