1945年8月15日以降の韓国における農地改革(朝鮮半島における土地制度の変遷)その2

 朝鮮独自の度量衡については、『李朝末期の度量衡』(鶴園 裕1986 東洋文化研究所紀要99巻)が詳しい。計量器の升について、時代・地域によって、また計量する穀物などの種類によって官製・私製の様々な大きさ・形の例が記載されている。およそ統一されていないのであるが、庶民にとっては近所の市場で買うだけの用途なら、この大雑把な升で不便は無いのである。日本のように全国で統一された基準が必ずしも必要では無かったということだろう。

 

 さて、日本では明治維新直後の廃藩置県、地租改正によって土地の私有が認められ、貢租は物納から金納へと変えられた。また、米以外の作物も作れるようになった。これは封建時代から近代への大転換だった。地価の算出は二則あって、いずれによっても、その田の一年の収穫代金の8,5倍になる。地租(地価の3%)は収穫代金の25,5%になる。これに村入費(地価の1%)を合わせると34%になる。

 小作料から収穫高を推定する第二則では、「小作料を収穫高の68%にし、34%の地租及び村入費を控除し、残りを地価の4%の利とみて資本還元する」となっているが、当時の小作料は68%以下の場合が多く、それだと地租の割合が下がるので、第二則は政府によって極力排された。こうして「収益課税にはなっているが、最大の経費である労賃部分をほとんど考慮しない」こともあり、小作人への負担が増大していく。(引用は『地租改正における地価算定方法の形成過程ー地価取調規則の評価についてー』関 順也1967經濟論叢より)

 

 地租改正のおよそ40年後に、これにならって行われたのが、朝鮮の土地調査事業である。そしてさらにその30年ほど後に米軍政庁によって半島南部の農地改革が行われた。

 なお、台湾でも日露戦争前に総督府による土地調査が行われている。朝鮮半島とはまた違った困難があったようである。

 日本と韓国は同じような流れではあるが、日本が長い封建時代に幕府、領主の下、度量衡をほぼ統一させ、検地を行い、石高制で厳密な土地制度、税制を築いていたのと違い、韓国では古代王朝さながらの土地制度、税制を行っていた。そこでは貴族、官僚の横暴を御しがたく、改革が挫折し続けていた。公田が私有化され隠結(隠し田)となり、収税されるべき耕地面積が減ってゆく。租税が途中で横領され、無いものにされるからだ。上田は隠結にされ、下田で小作する者だけが生死の境で苦労する状態だった。

 大韓帝国末期にはなんとしても土地調査をしなければならなかった。そこに、既に地租改正を実施した経験を持つ日本人の指導と莫大な資金が入って、測量学校も作り朝鮮人技術者も育てて近代的三角測量(メートル法で測量したらしい。結果は町反歩になったが。)が行われたのだ。それで五万分の一の地形図も出来た。その結果、隠結は現れ、朝鮮の総面積は14,312方里となり、189方里増加した。

 その変化の急激さは日本の比ではなかっただろう。代々耕作していた土地が実は公地で所有権は別の人にあると判明する。耕作権しか持たない農民は所有者にはなれない。貢租の金納、地主・小作の関係が厳格化し、小作人が増加した。小作に堪えられない者は税を逃れて流亡し、火田民となり、山を焼いては耕作するようになった。

 火田民は高麗時代からみられるが、公的に禁じられていた。しかし、長年の慣習と徴税の利から認められていたのだという。その人数などは分からない。併合後、明治44(1911)年に「森林令」交付をもって私有以外の林野はすべて国有とされ、火耕は禁じられた。警察力で厳重に取り締まったが、現実に対して機能し難く、大正2(1913)年12月の総督府通牒「火田取扱に関する件」では「帳簿を設けて課税の取扱をなすに及ばず」とある。(「朝鮮火田民の発生」小池洋一 による)

 

 この時期の韓国経済の変化は、漱石の憂えた日本の急激な近代化をさらに上回る激変だっただろう。日本が辛苦して移入し学んだものを、半島に惜しげも無く注ぎ込み、一気に、より近代的な経済基盤を作り上げたのだ。一方で、与えられ、変化を期待された(強要された)側としてはあまりの速さに目眩がするような時代だったのではないだろうか。