1945年8月15日以降における韓国の農地改革(朝鮮半島における土地制度の変遷)その32

 

 朝鮮大旱魃以後の日本の食糧状況 外米の輸入

 

承前

 この間の食糧政策については、『食糧も大丈夫也』(海野洋2017)に詳しく書かれている。このほど購入したが、まだ読み込めていない。諸資料を博捜した大変な労作である。この本の内容はもっと広く日本人に知られるべきものだ。米英との開戦に至る経緯に食糧問題がいかに重要であったか。そして為政者にどれほどの危機意識があったか。

 

朝鮮大旱魃に伴う外米輸入

 朝鮮が昭和13(1938)に干害、14年(1939)に大干魃の被害を受けた際、内地の関西でも旱害による米の減収があった。一方東日本では高温多照により豊作であり、全体として内地の昭和15年度(米穀年度)米収穫量は、前年度の6,633万石から6,008万石に625万石(84万㌧)以上の減少であった。これまでは概ね1人1年1石を達成していたが、当時の内地の人口は7,100万人ほどだったから、1人1年間で0,8石余りにしかならない。(ちなみに昭和20年(1945)の米事情は、内地収量の大幅減と移輸入の途絶により、国民1人当たり1年間で0,6石に満たなかった。恐るべき食糧危機であった。日本は戦後の数年間のほうが戦時よりも食糧危機だったのだ。)

 当然ながら朝鮮からの移入量も激減し、13年度には1千万石を超えたものが、14年度には569万石に、15年度にはわずか39万5千石(5万3千㌧余)になった。台湾からの移入は14年度396万石、15年度278万石ほどで、これも減少傾向であった。

 内地と朝鮮の減収はあわせて1千万石(約135万㌧。1合150㌘で換算すれば150万㌧)にも及んでいる。この不足分は外米の輸入によって補われた。

 14年度輸入量29万7千石(約4万㌧)だったものが、15年度には832万6千石(112万㌧)に激増した。

 前年度0だったビルマ、タイ、仏印からそれぞれ280万2千石(約37万8千㌧)、189万3千石(約25万5千㌧)、292万9千石(約39万5千㌧)を輸入した。

 

仏印進駐

 日本が「南進」に転じた理由の一つが、この「米の確保」にあったことは疑いない。石油やゴムも必要だろうが、まだ庶民の生活を直撃はしない。米が無ければただちに空腹、飢餓という状況が国民を襲う。仏印の米輸入については現地フランス総督府との交渉によってなされた(日本軍による直接統治ではない)。

 日本軍が、昭和15年(1940)当時フランスの植民地だったインドシナ半島ベトナムラオスカンボジア)にヴィシー政権(ドイツの傀儡政権)下の現地総督と協議の上、進駐した目的は、第一に雲南を経由している米英からの「援蒋ルート」を遮断することにあった。支那事変(日中両国とも「戦争」と言わなかった。戦争ではないと主張することで、外国からの輸入、経済援助を受け続けた)も3年を経過し、国民党の蒋介石重慶にまで追い込んでも、米英の補給支援がある限り終わりが見えなかった。北部仏印進駐でハイフォン経由の援蒋ルートを止めたが、ビルマ経由の雲南省昆明に至るルートが残っていた。航空爆撃ではこのルートの橋を破壊することができなかった。

 昭和16年(1941)南部仏印まで進駐したが、これが東南アジアに古くから植民地を持つイギリス、オランダにとっては脅威であった。

 昭和16年(1941)12月の開戦後、日本軍とビルマ独立義勇軍BIAとはタイからイギリス領ビルマに侵攻し、全土を占領した(仏印とは違って日本軍の直接統治)。昭和17年(1942)5月には拉孟、騰越に進出し、ビルマ・ルートを遮断したが、中国国民党軍との対峙が続いた。

 

 日本は英米の中国(国民党)支援を実力で止めようとした。思えば、蒋介石の国民党軍を倒すために非常に無駄な戦力を費やしたものだ。