雑感2021年7月19日 1945年8月15日以降における韓国の農地改革(朝鮮の土地制度の変遷)その15

 猛暑が続いている。皆様お変わりなくお過ごしでしょうか。先週末16日を以て退職しました。今日、若干の後始末に職場に行き、完了。

 暑くて何にもしたくない。PCの部屋に冷房が無いのでどうしようもない。

 

 

「日本の敗戦・撤退とアメリカの軍政開始まで」への導入

 

 朝鮮の農村(両班の権威)について

 朝鮮の農村に於いて、なぜ両班の力があれほどに強かったのか。その答えは、前に朝鮮の農村 契、プマシ、トゥレ(続) - 晩鶯余録に引用した論文の中にあると思われる。

 儒教的上下関係が、長い時をかけて農民に定着し、村や部落の「契」などの組織に幾重にも重なっていき、その関係性の中で常に上位にある両班は、容易に(恣意的に)農民を罰することができたのだ。中央に官職を得られない両班も、地域においては特権的地位を占有できたのだ。

 村や部落に於いて続いていた「契」などが、日本統治下の農村振興運動などで変わっていき、農会、組合といった形態になっていった。ただし実態は(各村・部落内の人間関係)あまり変わらなかった。そんな中でも次第に農村を背負ってゆく階層は育っていたのだろうが、これもまだ良く分からない。

 

 赤色組合

 一方で総督府の統治の及ばない部分で共産主義の影響を受けた「赤色組合」も広がっていた。「邑・面」以下の「洞・里」には日本人もほとんどいなかった(都市部に集中していた)。この赤色組合についてはまだよく読んでいないので分からない。

 

 「建準」と「人共」

 いよいよ戦後の改革に入ってゆくが、1945年8月の敗戦直後に「建国準備委員会(建準)」が立ち上げられ、あっという間に全土に広がった。すぐにそれは「人民委員会」に変わり、「人民共和国(人共)」建国の気運が盛り上がる。

 各地の人民委員会は、どうしてこれほど急速に作り得たのか。

 これを構成する人材は、もちろん解放された共産党員であるが、内地から帰国した学

生や労働者も加わった。しかしそれだけで全土をカバーできるとも思えない。

 つまり、旧地主階級=両班らが、従来の村落組織を名称だけ模様替えして収まった所も多かったのではないか

 人民委員会はアメリカ軍の進駐が進むまでの期間に勢力を広げ、一部地域を治めていた。日本人財産を没収し、農産物は自由市場のように売買された。

 アメリカ軍政部が「人民委員会」を禁止するのは数ヶ月後である。