1945年8月15日以降の韓国における農地改革(朝鮮半島における土地制度の変遷)その14 

朝鮮の農村 契、プマシ、トゥレ(続)

 梁 愛舜「郷村社会の親族と近隣結合―契・プマシ・トゥレを中心に―(『立命館産業社会論集』35巻4号2000年)と「在日朝鮮人一世のコスモロジーと郷村社会―「儒教的家族」の信念体系と行動様式―(『立命館産業社会論集』35巻2号1999年)を読んだ。

 これは在日一世の体験した朝鮮農村の姿を探ったものである。彼らの先祖への祭祀(チェーサ、チェサ)には今の韓国には無い古い形が残っているだろうという。

 この中に「契」の実態が分かりやすく説明されているので、『 』で引用させていただく。

 

 【洞契】

 「邑、面」の下の「洞、里」は自然集落的な部落であるが、この洞が農民の帰属する地域共同体である。「洞契」には洞の全員が参加する。(その他の種々の契は身分毎に作られ、両班だけ、庶民だけの契と両班・庶民一緒の契があった。)

 年に一度、10月末とか12月頃に「洞会」という総会がある。契には財産があり、部落の共同祭祀を行うための経済的基盤になっている(この財産の中に契有の田畑があれば、土地調査事業の時には共同の所有でなく、個人の所有と記録されたか、面に移管されただろう。その収益は面から洞に還元されていたようだ。収益とは小作料である)。

 洞契には、古くは両班が出資し、奴者は出資しなかった。

 

 【契と身分制】 

 両班の契は「学契」「書院契」「詩契」「射亭契」「遊山契」「宗契」などがある。

 『庶民の契は洞里の範囲のものがほとんどであるのに比べて、両班だけの契は数個の洞里、面と郡にまたがり、交流範囲の広さをものがたっている。』

 

 『庶民だけの契は、主に生活を補充する相互扶助の契が多く、さきに述べたように冠婚葬祭を扶助するものがほとんどである。』『生産活動を助ける目的の契も多く組織された。苗種の準備と農事の改良を目的にする「農桑契」・「土地契」、牛を購入する「牛契」、蚕の共同飼育をする「養蚕契」、精米および雑穀の調整をおこなう「水砧契」など、郷村社会の生産活動を保障する重要な役割を果たしていた。』

 これらの契については、地方金融組合の活動と重複するものがあるので、発生時期を確認したいが、次の記述が参考になる。

 『1920年代以降、日本人官吏が地方行政事務に参入することによって、契は「組合」と名称変更するものが出現し、その運営も変化した。反対に「殖産契」などのように、総督府の指揮による組合が「契」と名乗るばあいもあった。とくに1930年代から開始された「農村振興運動」によって、契は日本人が直接運営する組合などに吸収・設立替えされた。』

 

 両班と庶民が一緒の契(洞契や洞祭契、禁松契、社契など)は、同じ洞里の住民として参加するものであり、洞里の公共事業を主な目的にする。灌漑、堤防、井戸、橋などの補修、大型農具の購入などである。『そして、婚喪契のように近隣同士の吉凶の大事につき合う契である。婚喪契はその費用を助けあうとともに、労力も提供しあった。両班は使用人、モス(作男)を送った。』

 

 【契内部の儒教的力関係】 

 『両班の契も庶民の契も在野儒学者らの積極的な勧奨のもとで運営された。残されている「契帖」は、識字者つまり両班階級の有識者が直接関わっていたことを示している。儒教の仁愛思想と契の機能は矛盾するものではなく、むしろ契は物財をもって儒教精神の現実的な側面を支えていたのである。』

 『契の持つ集団的拘束性は儒教的秩序を補強する役割を果たしていた。』『両班であれ庶民であれ契に参加することは契組織によって一定の制約を受けることを意味する。』『庶民と両班が一緒の契は、契長や有司は両班身分のものであり庶民だけの契は年長者のなかの有力者がその任にあたっていた。契の運営自体は平等互恵であっても、契員たちの相互関係には厳然と身分、力関係があり、上下区分、長幼有序の礼が守られることが前提であった。』

 『洞里の全員が加入する洞契はとくにつよい統制力をもっていた。洞契は、賞罰規約までもうけており、洞民の「風教維持」すなわち「三綱五倫」の儒教倫理遵守に大きな役割を果たしていた。それには在郷両班や有力者、年長者の権威が幅をきかせていた。洞契もまた儒教的枠組みに固く組み込まれた組織だったのである。しかも洞契は行政組織から独立した自立的な組織であったからこそ、一層つよい影響力をもって洞民に働いていたのである。』

 

  【郷約と両班儒林の郷村支配】

 『郷約は洞民相互の倫理条目を定め、洞民を褒賞罰則するなど行政機関を「代行」するような権限を持っていた。郷約は郷村社会に儒教的秩序を確立しようとした儒林たち中心の組織である。』

 『在郷儒林は中央から脱落したか、科挙及第を果たすため学問に邁進するもの、または中央政界を嫌って仕官を拒んだ儒学者である。彼らは中央で果たせなかった徳治主義を郷村において実行し、「理想郷」を実現しようとしたのである。

 彼らの活動母体は郷約であった。郷約は行政機構と離れた自主的な組織である。当初は両班儒林たちだけの組織であったが、庶民にも道徳的実践を強いるため庶民を巻き込んだ組織になっていったのである。そして郷約をとおして両班儒林は庶民を直接統率・監督した。』

 『郷約は郷村の美風良俗・儒教的倫理観の育成に貢献したのも事実であるが、本質的には両班の支配の固定化と正当化を図ったものであった。』

 『そのため郷約に洞里民全員を加入させて郷約の実行を奨励し、違反者には重罰を加えて挑んだのである。罰には身分による違いがあり庶民には体罰をあたえ、両班には末席に座らせる満座面責を科す程度であった。』

 『郷約は郷村社会の倫理観の高揚と儀礼の普及を推進したが、もう一方では郷村の庶民に覆い被せられた桎梏でもあった。この郷約の下に各種の契があった。』

 『郷約のメンバーが契のメンバーでもあった。郷約は「歯徳学行」の選ばれた者たちの組織であり、契はだれでもが加入できる組織である。洞里全体が加入する洞契は郷約の意志を積極的に取り入れた 郷約にもっとも近い契である。洞契は倫理条目を規約に掲げながら、洞里の公共事業のため備蓄をおこなっていたのである。』

 『そもそも郷約は所詮観念的結合体に過ぎない。現実的社会生活のなかで儒教倫理を実践する舞台になるのは、生産活動の場面である。郷約は契を足場にすることによって、ほとんど読み書きのできない、経典を手にしたこともない庶民に儒教倫理を体得させることができたのである。』

 『洞民の道徳的誘導体としての郷約、その下にある各種と労働交換のプマシトゥレ、そして生産活動と生活空間を浄化する洞祭、これらの横軸の機能集団が、郷村社会に割拠する縦型の親族集団相互の結合を可能にしていたのである。』