雑感 2021年6月5日 ワクチン接種 1945年8月15日以降の韓国における農地改革(朝鮮半島における土地制度の変遷)その13 朝鮮の農村について、「契」「プマシ」「ツレ」

 3日に新型コロナのワクチンを接種した。かかりつけの病院でLINEで予約したのだ。予約制なので待つこともなく、流れ作業であっという間に終了。15分間様子を見て、なんともなければ帰っていいとのこと。注射した肩が若干痛い。打撲痛のような感じ。だが腕が上がらないとかは無い。

 2回目は3週間後に指定される。勤務は職専免となるようだ。2回目の方が副反応が強く出るらしいが、これでもしもの重症化が防げるなら我慢しなければなるまい。

 

朝鮮半島における土地制度の変遷 その13

 

 朝鮮の農村について 「契」「プマシ」「ツレ」

 日本統治下において、朝鮮の農村がいかに変化したか。この問題は研究者によって切り口や評価が様々であり、統一的に見ることがはなはだ困難である。研究者の視点が偏っていると思われる場合も多く、最初から結論(植民地圧政・収奪論)ありきのようなものも多く見られる。また時代的、地域的な変化、対象とする村落の性格などが大きく違っているのに、それを一般化して論じるから、それぞれの研究成果を俯瞰的に見ることを妨げているように感じる。

 

 さて総督府の行政組織としては「邑(町)」の下の「面(村)」が末端だったが、「洞」や「里」(部落)という単位が最末端にあった。面長や区長の下にこれらの部落がまとめられたようだが、洞里には自治組織的なものがあった。「」と呼ばれるもので、契は高麗末期から存在したようだが、それらは初めは貢租に対する共同負担から始まり、冠婚葬祭の扶助などを主たる目的にした素朴なものであったようだ。日本の「無尽」や「頼母子講」に似たもので、構成員が平等に金銭穀物などを出資することによって成立していた(しかし、地主から自小作、小作、単純農業労働者までが平等に負担するといった状況は想像しがたい)。細かな成文化された規則もなかった。契の代表者である「契長」は互選で、資産・信望ある者が選ばれたが、結局は面長が兼ねる場合もあった。これは日本の名主(庄屋)に似ているかもしれない。

 書堂契などはその就学率からみて、広く農民に行われたとは思えない。

 時代が下ると、他にも様々な目的のための契がつくられるようになった。概して半島南部の京畿道や忠清道全羅道などでは事業のためなど多様であった。慶尚道などでは日本の影響が濃く、細かな規則を持つようになったようだ。養鶏などの副業のための契は明らかに日本の影響であろう。地域集団でなく同業者集団での契もあり、これは同業組合的な意味合いを持っていただろう。

 総督府は府の事業との兼ね合いから、これらを整理したり、官製の洞契を作ったりした(地域による)ようだ。明治40年設立の地方金融組合は併合前から、従来の「殖利契」や「貯金契」では不十分だった農村の金融に携わり、農民の負債からの脱却を目指した。朝鮮では従来高利貸しが有力な職業で、(日本人もこれに倣って金貸しを行なう者が多かったのだという)当時の農家の生産力では負債は逃れがたく、永続的に農民を苦しめた。これを金融組合は副業収入(勤勉化)によって打破しようとした。

 これらの変化をもって地域共同体の破壊という結論に結びつけるのは無理があると思われる。ましてやそれが主目的だったという思考は偏っていないか。

 

 「契」が金銭など物質的財産の出資によるものなのに対して、労役の出資によって成立していたのが「プマシ」や「ツレ(ドゥレ)」である。

 プマシは比較的少人数(少数戸)によって相互に相手の家の屋根葺きなどを手伝う(朝鮮では毎年のように葺き替えた)もので、該当者の家から昼食が出たりする。信頼できる者同士で行なわれたものだろう。

 ツレは部落(洞)、村落全体で半ば義務的に行われる田植え・草刈り・収穫などの共同作業である。農旗(「農者天下之大本」「○里農旗」)農楽とともに組織的に行われる。この時、地主(自作農)の田畑に集中的に労働者が集まるが、地主は食事、酒などを振る舞う。作業後の宴会が労働への還元、報酬のようにもなっている。牧歌的な風景にも見える。

 (なお、このプマシについて「両班は除いて、純粋に農民たちによって作られた作業集団」という記述が見られるが、「若者主体で」自主的な弱者優先の組織であり、その効率と熱気には「両班も下馬して敬意を表」した、とあるのはいささか空想的ではないだろうか。)

 自分の耕作地を持たない「雇傭」もここでは報酬にありつける。さらに雇傭は農閑期に生活費を借り、農繁期に労働を以て返すという形をとるようになる。さらに雇傭たちは「雇只(コジ)」という組織に加わり(積極的にかどうか分からないが)、定期的に仕事を請け負うようになったようだ。

 朝鮮では人口の急激な増加により、農地から人があぶれた。彼らに耕作地を与えるとしたら農地を細分化するしかなく、それは零細貧窮小作農の増加ということにしかならない。移住農民として国外に出るか、工場労働者になるしかないが、全く工業化の余地が無かった社会でどうしたら良いのか。日本は内地からの巨額の資本注入で工業化の基盤を作り出した。ダム、水力発電所、窒素肥料工場などのインフラはやがて民間の事業者に払下げられた。こうして次第に軽工業(繊維関係など)へと発展してゆけば多くの労働力が吸収できるようになっただろう。

 

 こうした経緯を考えてみるが、疑問は多い。

 一つには、地主-小作関係における中間搾取者「舎音」と、この自治組織的「契」や「プマシ」「ツレ」との関係がいかなる様相を持つのかが分からない。不在地主の代わりに舎音が小作農から搾取する。それを村落共同体、里長・契長はどう見ていて、どう対処したのかしなかったのか。村落全体が不在地主の所有地で、そもそも自治的共同体が存在しなかったというような地域(があればそこ)に限られたことだったのか。しかし分布を見れば、舎音の多い地域はすなわち契の多い地域となっているので、ある意味「共存」していたのには違いなかろう。

 在村の両班を中心とした村落では、舎音も横暴でなく、比較的平和に生活できたのであろうか。これが村によっては土地調査事業以降(に限るわけではないが)、両班の没落などで崩れたという側面はあるだろう。舎音は1930年代にも残っていた。1934年宇垣一成総督下で「朝鮮農地令」によって舎音は届出制になったが、根絶するためのものではなかった。

 また、日本統治下でも、伝統的な貢租、冠婚葬祭目的以外でも新しく事業契が作られているのであって、大正15年に調査したものでは、契の創設時期が併合後であるものも多い。日本統治下において若干その性質を変えながらも、地域共同体のまとまりは継続されていったと見なせるのではないか。

 

 大正15年頃の調査では、全道の契の数19,067、加入者814,138人とある。当時の農家戸数をおおよそ280万戸として、単純に1戸1人の加入とすれば加入率は約29%である。自作農を除外して自小作・小作に限って217万戸とすると、1戸1人で加入率は37.5%である。1人が複数の契に加入する場合もあったので、すべての農家が契に加入していたわけではない。これは平均すればのことで、一村の中で加入非加入の者がいたというより、契の数に地域的な差があったためであろう。京畿道、全羅南道、江原道などは契が多く濃密で、咸興北道、忠清北道慶尚南道などでは少なく粗であった。つまり、京畿道など一部の道の様子から全道を推し量ることはできないということだ。

【追記10行】

 水利契の例がある。1925年には行政の指導下で「水利組合」が設立されたが、「水利契」を存続させた例である。全羅北道任實郡任實邑のk里では水利組合に反発し、水利契を維持した。この水利契には「里の有志8人が契員として参加し、各マウルに1人ずつ管理者を置いて貯水池を管理した。」k里は1960年に、2マウル、140世帯、700人の人口であった。この中で8人(戸)だけが契員であり、それが「有志」であった。戦前には40%が小作だったというから、60%の自作(自小作)農の中でも1割くらいしか契に加入していないことになる。これは一部地主のみが契に加入し、小作・自小作はその下で水を使用していたと考えられる。つまり水利契の費用負担は小作料の中に含まれていたのだろう。(引用は、嚴智凡・柳村俊介・蘇淳烈「韓国における農村社会の再生と農業法人の展開条件」『農業経済研究』88巻4号2017 から)

 

 以上は主として、朝鮮総督府嘱託善生永助の「朝鮮の契」(『調査資料第十七輯』1926)と、戦前昭和10年代後半に実地調査した鈴木栄太郎の「朝鮮の契とプマシ」(『民俗学研究』1963)、山崎知昭「日本統治時代の朝鮮農村農民改革」(振学出版2015)によった。