1945年8月15日以降の韓国における農地改革(朝鮮半島における土地制度の変遷)その12 書堂と普通学校

 いささか停滞気味であるが、調べると次から次に疑問が出てきて、資料を探し、統計の数字を読みとってまとめるのに時間がかかっている。そして関心はすぐ横道に逸れるので、今回も番外「朝鮮の初等教育 ― 書堂と普通学校」にしようかと思ったのだが、取り敢えず、本当に取り敢えず、UPすることにした。

 

 

承前

 

  概観2 農村共同体内の変化

 

 『植民地権力と朝鮮農村社会』(松本武祝1995)「3.朝鮮における農民社会の展開 」にまとめられているところでは、

 15世紀に普及した周到な施肥法によって高麗時代以降の休閑法が克服された。農村では、奴婢・従属的零細農民を使役しての士族直営大農業経営にかわって、小農民経営が先進的な生産様式として成長した。16・17世紀には更なる農業技術の発展が農業の労働集約度を高め、家族労作的な小農民経営の安定化をもたらした。この過程で朝鮮農村に農民を構成員とする村落が形成されていった。村落は一般に「」ないし「」と呼ばれ、地方行政の末端単位としての位置づけられた。(朝鮮の地方行政は、道ー郡ー面ー邑ー洞里という段階になっていた。総督府の場合、面を最末端とした。)

  施肥量増大のため、山林・草地の利用に関わる組織、あるいは水利組織が形成された。また労働集約化にともなう農繁期への対処として洞トゥレと呼ばれる村落レベルの共同田植え組織やプマシと呼ばれるより小規模な労働交換慣習、様々な形態の共同農業労働慣行を生み出した。

 

 「トゥレ」「プマシ」について、コトバンクを見ると以下のようである。

 「朝鮮の農村で行われる共同労働の一種田植や夏の除草などの農繁期に,農民どうしが労力を提供し合って農作業にあたること。日本の〈ゆい〉に似ている。プマシは部落内の親しい者どうしで組織される比較的少人数の共同労働であるが,同様の共同労働が全部落的に行われる場合には,トゥレtureと呼ぶ。トゥレも田植や,特に除草作業に際して行われることがもっとも多く,昔時は〈農者天下之大本〉と記したを立て,農楽(のうがく)を奏しながら共同作業にあたった。」平凡社世界大百科事典 第2版 

 また、「トゥレ(輪番)は組織ではなく、共同体的な制度である。何人かが共同で作業し、それぞれの耕地を順番に耕作してゆく。」(『日本統治下の朝鮮農業農民改革』山崎知昭2015)との説明もある。

 

 

  農村内の組織的結びつきの変化(契、書堂、入会地、墓地)

 

  「従来、村落内で完結していた水利組織や林野利用組織は、それぞれ機能組織として独立の度合いを強めていった。村落内では、相互金融のための各種「がそれぞれ構成員(性別、世代別、集落別、etc)を異にして作られていった。」

 

 は日本の「無尽」や「頼母子講」に似たもので、互いに金を(無い場合は労働力を)出し合い、融通するものだった。(半島南端部では「タノモシ」の呼称が伝存しているので、日本人との交流の中で使われていた言葉のようだ。)

 

 「19世紀にはいると朝鮮各地の村落に書堂契」が組織され、それを財政的基盤として書堂が設立され、農民を対象として初等教育が実施されていった。」(丁淳佑1991) 

 「書堂は植民地化以後もしばらくその数を増加させ、ピークの1920(大正9)年には2万5千箇所強に達している。ほぼ三つの村落(洞里)に一つの割合で設置されたことになる。」

 

 

 以下、テーマから逸れるが

 

  朝鮮の初等教育、「書堂」と「普通学校」について

 

 書堂は、一般に1人の先生が数人の子供を教える、村の寺子屋のようなものだった。その運営は各村の有志が支えたと思われるが、その経費は公立普通学校経費の1割くらいの規模だった。(もちろん生徒数も大きく違うが)

 総督府統計年報によれば、書堂は1911(明治44)年の16,540から年々増加し、1920(大正9)年には25,482にまでなった。同年の洞里数は28,280だから、書堂は3割でなく9割近くの洞里に存在したことになる。しかし女子はほぼ排除されていた。

 

        年                       書堂数    男子    女子    1堂当り生徒数

 1911(明治44)年    16,540     141,034人      570人  8.6人
 1912(大正元)年    18,238   168,728人   849人  9.3人
 1913(大正2)年  20,268  195,298人   391人  9.7人
 1914(大正3)年  21,358  203,804人   297人  9.6人
 1915(大正4)年  23,441  229,028人   522人  9.8人

 1920(大正9)年  25,482  290,983人 1,642人     11.5人

 1925(大正14)年 16,873  203,580人  4,730人  12.3人

                         朝鮮総督府統計年報による

 

 1925(大正14)年に就学年齢に当たるような満8歳から14歳の男女人数を(同年の国勢調査年齢別人口から推計して)ざっと250万人とする。それで計算すると1925(大正14)年の「書堂」就学率は8%くらいではないか。(その内女子の割合は、女子が急増したこの年でも、やっと2.3%に過ぎない)

 

 1895(明治28)年、大韓帝国甲午改革では日本に倣って「小学校令」を制定したが、その後10年間実質的な成果はなかった。

 1910(明治43)年の併合後、朝鮮総督府は在朝日本人には内地と同じく「小学校令」を適用し、朝鮮人(日本語を常用しない者)には「朝鮮教育令」によって「普通学校」で初等教育を行った。

 

 1925(大正14)年の「普通学校」生徒の朝鮮人は(日本人も少数在籍)官立808人、公立367,505人、私立17,102人で合計385,415人。就学率は「書堂」の場合と同様に推算して15%くらいかと思われる。(その内女子の割合は14%くらい)

 従って朝鮮人の、「書堂」「普通学校」を含めた就学率は大雑把に計算して23%くらいになると思われる。学齢を狭めたり私立学校を含めれば若干高くなるだろうが、これは1930年の識字調査結果とも矛盾しない。普通学校卒業生延べ数から、より正確な値が出せるだろう。ただ、当時は入学した人数の半数以下しか卒業できず、多くの中途退学者がいる時代状況だったのを考慮しなければならない。

 なお1930(昭和5)年の国勢調査では、仮名も諺文(おんもん、ハングル)も読み書きできる者が(男女合わせ全年齢で)1,000人中67.5人という統計がある。ただ、24歳以下(1906年以降の生まれ)の年齢層では急に100人以上と増え、14歳以下では1,000人中160~170人程度である。初等教育(普通学校)を受けた人は仮名と諺文の読み書きが出来るとすれば、おおよそ16~17%の就学率だったと推測できる。

 

【後日追記5行】

 B.カミングスの『朝鮮戦争の起源1』374頁に「USAMGIKの基礎調査資料」からの表が掲載されている。これを見ると1947年当時、軍政下の15の郡(無作為抽出か)で小学校以上の卒業者の割合は、4郡で10%台(12.1~19.0%)、10郡で20%台(21.1~26.7%)、1郡(北済州)で35.7%になっている。ここからも、日本統治下での初等教育普及率は23%程度という数字が補強されるだろう。

 

 「書堂」は併合後も普通学校の補完的なものとして継続された。しかしごく小規模で経費も少ない「書堂」での教育内容は、両班層が教師だったせいもあり、漢文の素読のような儒学講義が主で、人格形成を主目的としていた。それは近代化を目指して総督府(日本)の考える、国家に有用な人材を育成するといった文明開化、富国強兵的なものとは違っていた。そのため私立学校の増加(それは多くの場合公立学校へと転換されていったが)もあり、1920(大正9)年をピークにして徐々に淘汰されていったようだ。

 書堂契によってまとまっていた部分は、教育は公立普通学校として行政の下に管理されるようになった。農村金融は、金融組合設立によってこれも行政の指導の下に置かれていく。旧制度の解体から、新制度による新たな農村の組織化という流れである。

 

 書堂については、その歴史、実態など、ブログ「韓国朝鮮よもやまばなし」の記事がとても具体的かつ詳細で参考になります。

 336.小中一貫校?(書堂ソダン) | 韓国朝鮮よもやまばなし

 

 

 一方、公立普通学校数は次第に増加していった。しかし義務教育ではなかったし、低額ながら授業料が必要だったので、就学率は低かった(日本においても授業料無償になってから就学率が上がった)。 それでも普通学校の収入は、1912年には「恩賜金利子」が29%を、1920年には「地方費補助金」が36%を占めている。

  

  公立普通学校

   校数  男子生徒  女子生徒   計  1校当り生徒数  授業料       1人当り授業料

1912   341   37,948     3,115       41,063     120.4          2,113   0.1円 

1920      641     90,815    11,209    102,024     159.2       120,076      1.2

1925   1,242   313,702     52,039    365,741     294.5    2,370,892     6.5

1930 1,644 390,454    78,288    468,742  285.1  

1935 2,274 549,913     137,164    687,077  302.1   

                          朝鮮総督府統計年報による

 

 公立普通学校の授業料は、収入総額を生徒数で割った値で出してみた。1921年1.3円、22年3.4円、23年6.2円、24年7.4円、と急騰しているように見える。

 1925年の公立小学校(日本人)の授業料はよく分からないが4.3円くらいか。

 

 「1930年代半ばにようやく各面に1校の普通学校ができた」という。

 1930(昭和5)年時点では、普通学校数は官立公立で1,752校、当時の朝鮮の面数は2,464だから普及率は7割である。

 

 普通学校を義務教育にしなかったのは、当時の教育の実情(施設、教員の確保その他諸々)からである。一気に近代教育を普及させるには無理があるとみなされたのだ。

 最初、8歳から12歳の就学年齢を広げ、14歳までの入学を認めた。みんな一年生ということである。まだ一律同年齢の学年を作れる状況には至っていなかったのだ。

 なお、普通学校は1938(昭和13)年の第3次朝鮮教育令以後、「小学校(二部)」となり、1941(昭和16)年の国民学校令で「国民学校」となった。独立後の韓国でも1995(平成7)年まで「国民学校」と呼称していた。

 

 ついでに、  

 韓国統監府時代には、「国語」(朝鮮語)と同等に「日語」(日本語)の授業があった。併合後は日本語が「国語」になった。が、それは日本語を公用語として普及させる(日本人化=皇国臣民化する、という表現もあるが)というだけでなく、日本語に翻訳された書籍によって海外の先進的知識が得られるようになるという側面もあった。日本語を習得すれば、各分野で多くの外国語(英仏独)文献が(漢文も含め)読めるのは大きな利点であると考えたのだろう。

 こんな中、朝鮮のナショナリズムからすれば、母国語を重視しハングル教育熱が起きるのは当然なことだった。しかし、それが独立運動と関わったりすれば、大東亜戦争下の日本としては到底許容できず、過剰に日本語の強制を進めることになったのだろう。

 

 

 参考まで、明治時代の日本の初等教育就学率について の文科省資料をリンクします。

 四 小学校の普及と就学状況:文部科学省 (mext.go.jp)