1945年8月15日以降の韓国における農地改革(朝鮮における土地制度の変遷)その20

 産米増殖計画と水利組合についての現段階の認識

 

 産米増殖計画が飢餓輸出を招来し、水利組合費負担が貧窮農民の内地への流出を招いたという説について。今の認識をまとめてみた。誤認もあるだろうし、詳しい数値や法令については、なお確認の必要がある。

 

人口増加の影響

 併合後、朝鮮の人口は著しく増加していった。これは急速に近代化する国家に普遍的に見られる現象だろう。明治時代の日本も同様だった。誕生した若い朝鮮人が成長し、就労年齢に達し始めた時期が昭和時代であろう。

 この人口爆発は第一に将来的な食糧不足を惹起した。その対策として産米増殖計画が進められた。それはある程度成果を出し、内地の米需要にも対応するため移出が行われた。だが米価の変動調整が困難で、内地農家保護のため移出を止めることもあった。

 第二の影響は就職難として現れた。毎年数十万人ずつ増加する人口は、農業が吸収できる限界を超え、農家から溢れ出し、余剰人口となった。

 併合後四半世紀の昭和10年代半ばには、併合後に誕生した世代が家庭を持つようになっていた。農業従事者は毎年30万人程度增加していた(農家戸数約300万戸、農業従事者1千700万人、1戸当り人数5~6人で微増、あるいは停滞している)が、同時期の総人口增加ははるかに多く、毎年100万~150万人が増加して、2千300万~2千550万人であった。即ち多くの人が離農せざるを得なかったことになる。農村には、急増した若者らを養えるだけの耕地がもう無かった。

 工業化には未だ遠かった朝鮮には、彼ら離農者の就ける職業も無かった。水利事業の土木工事の土方となるか、田畑を持たない雇傭者になるか、山林に入って火田民となるか、都市に出て土幕民となるか、半島外に移住するかである。こうしてこれらの水田から切り離された人が急激に増加していった。

 半島南部の各道からは内地へと人が流出したが、まだ普及途上だった普通学校も満足に修了していない場合には、低賃金労働しか職はなかった。それは差別というよりも必然だった。同じ日本国民という建前ながら、実態はアメリカ大陸へ移住した日本人と同じことである。

 

自然災害の影響

 朝鮮半島の自然災害を、総督府の「施政三十年史」付録年表から拾うと、二、三年に一度は旱害、豪雨、風水害に見舞われている。7月は豪雨、9月は台風である。大正14(1925)年の7月などは一か月間豪雨被害が続いた。人的被害も少なくない。これらの被害による、米の作付面積、収穫高の変動を見なければならない。

 例えば昭和14(1939)年は未曾有の旱魃で、米の作付面積は123万町歩で前年より42万町歩減、収穫高は1千435万石で1千万石減、1反歩収穫高は1.16石で、0.3石減であった。これは貧窮農民の離農を促す要因にもなっただろう。この年の人口増はわずか15万人に止まったが、農家戸数は2万9千戸減少、農業従事者は12万9千人近く減少した一方この年、在日朝鮮人は前年より16万人増加し、1.2倍の96万人ほどになった。これ以降、毎年20万人前後の増加を見る。すなわち農業インフラ未整備の朝鮮にあって、風水害、旱害は在日朝鮮人增加の大きな要因であった。

 地主・自作農民にしても、この天候に左右される不安定な農業から離れ、土地を売ってそれを資本にして企業家へと転身する者が少なくなかっただろう。こうして自作農が減少し、会社、工場、金融業などの経営者が増加していったのではないか。

 また、大規模水利工事の為に「土地収用令」によって半ば強制的に土地を寄付させられたり低価格で買収される(これは日本人地主でも同じだが、朝鮮人地主の場合は先祖代々の土地ということで抵抗は大きかった)ことも考慮される。この土地収用令こそが、朝鮮の人の恨みを買う大きな要因になっているのだろう。

 

 灌漑設備が完全に整うまでは、このような状況が続いただろう。この大工事、難事業に着手し、短期間のうちに進展させたことは英断であるが、その費用負担は大きかった。総督府予算以外に、日本政府からの補助金、朝鮮殖産銀行の融資があった。朝鮮殖産銀行は必死に内地からの出資者を募った。日本の国家予算(すなわち日本国民の税金)、民間出資者からの資金によってこの事業が出来たのだ。

 もちろん水利組合員の負担も大きい。だが、受益者である水利組合員たる地主が、「公課を小作人に転嫁する弊習」のまま、組合費を小作人に負わせたのは遺憾なことだ。しかしそれを総督府が(法的に)禁じ、取り締まることは可能だったか? (大災害時に小作料の軽減、免除を通知したことはあったが。)

 地主や舎音は恣意的に小作人を替えることができるため、高率の負担に堪えられず文句を言う者は小作地を追われただろう。代わりはいくらでもいただろうから。

 

まとめ

 産米増殖計画=水利組合事業の功罪を見れば、まず朝鮮の経済の基盤である農業を、安定した発展軌道に乗せるうえで必要不可欠なものであった(いずれは誰かがやらざるを得なかった。そのとき融資してもらうのは中華民国から? ソ連から? 英米から?)のは確かだ。灌漑事業の成果が収穫量の増大として、耕作農民の収入安定、増収、生活安定に至る前に、本来負担すべきでない組合費負担や自然災害被害に耐えがたく、離農してしまう者も多かっただろう。日本が戦時体制へと変化していったことの影響も大きい。しかし、そのことを以てして、この朝鮮農業を一変させ、将来に渡って朝鮮経済を支えることになる基盤整備事業を「収奪」と非難するのは筋違いではないだろうか。

 

 自然災害のあるたびに天皇からの救恤金が下賜されている。昭和9(1934)年には4万7千円、14(1939)年には10万円。これは朝鮮総督府天皇の直隷であったことによるのだろう。(ちなみに旧支配者である李王家は何か国民のために救恤金のようなものを出しただろうか?)

 

 以下の記事を参考にしました。

朝鮮人移住対策ノ件 | 政治・法律・行政 | 国立国会図書館 (ndl.go.jp)

東亜連盟戦史研究所 「日帝が朝鮮米を収奪した」という反日史観を粉砕する朝日新聞記事 (fc2.com)