1945年8月15日以降における韓国の農地改革(朝鮮半島における土地制度の変遷)その16

産米増殖計画 その1

 終戦後に入る前に、やはりこの「産米増殖計画」についてまとめておかなければならないだろう。植民地経営上、この計画の、朝鮮農村、農民に対する影響がいかなるものであったか整理してみることにした。しかし、かなり複雑な内容なので、自分の頭の中で具体的イメージができないのだった。いろいろ読んでみて、さんざん迷った末に、不十分ではあるけれども、今のところの理解を書いておこうと思った次第です。研究者諸氏の作られたグラフや表に助けられています。(読み取りきれていませんが)

 ついでに、部分的に書き継いできたところに(土地制度の変遷その12以降)通し番号を付けてみました。

 

 第一次計画と当時の米生産・需要供給などの実態

 大正9(1920)年、朝鮮総督府が計画したもので、むこう15年間で42万7千町歩の土地改良を行ない、併せて耕種法の改善と共に約9百万石の産米増殖を期したものである。内、440万石を朝鮮半島内の消費増に、460万石を輸移出に回すというものだった。耕地拡張改良のための調査、既成水田の灌漑改善、地目変更(畑を水田に)、未墾地の開墾や干潟の干拓などの事業を計画した。

 当時、日本内地では人口増加が著しく、毎年70万人の自然増加があった。加えて食生活の向上により低所得層にも米食が普及した。当時内地では毎年6千5百万石の米を消費していたが、これに対して内地の米の生産量は5千8百万石程度で消費に追いつかず、米不足と買い占めから米価の非常な高騰(1石15円→40円)を招いた。これが「1918年米騒動」の発端となった。

 不足分は東南アジアからの外米輸入により補われた。その量は、3百万石から大正14(1925)年には5百万石ほど輸入しており(下表参照)、その購入費用は1億2千万円にのぼった。ために貿易収支は、第一次世界大戦時には輸出超過だったのが、大正8(1919)年以降は輸入超過へと転じて悪化した。

 世界的に米主食の国は限られるため、その交易は各国の豊作凶作などが大きく影響した。そして長粒種の外米は日本人の味覚に合わなかった。(朝鮮での優良品種奨励、台湾での品種改良などによって次第に日本人の口に合う米が、朝鮮、台湾を含む日本国内で増産され流通していくようになる。台湾では「蓬莱米」という品種が作られ、日本人に好まれた。)植民地からの米は「輸入」でなく、「移入」である

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 (「一九二〇年代における食糧政策の展開ー米騒動後の増産政策と米穀法ー」大豆生田 稔)より

 「米穀年度」は前年11月から当年10月まで。だが統計によっては生産額を前年度に充てている(前年度にほぼ消費してしまうため)場合があり、注意が必要だ。また、同じ「米穀要覧」でも発行年によって部分的に違っていたりするので混乱する。

 低下していた外米輸入量は米騒動後1919~20年度に急増している。

 

 同時期、朝鮮においても、併合直後のような毎年30万人という爆発的増加は収まったにしろ、毎年15万人程度増加していた。長期的に見て人口増と1人当り消費量増加を見込むと、食糧供給、内地への移出量確保の為には増産が必要だった。(当時の多くの朝鮮農民(小作人)は、小作料を払った後の米を売り、その金で満洲から流入する安い粟を買い主食としていた。しかし、徐々に生活状況が改善されるにつれ、彼らの食生活も向上し、米食が増えるだろうと見込まれたのだ。)

 「朝鮮に米ができるが、朝鮮人殊に農家は米を賣つて粟を食つて居る有樣である。そのために滿洲方面から年々多量の粟が輸入され、粟は朝鮮輸入品の大宗たる綿織物類に次ぐ重要品となつて居る。併し一般生活の向上に伴うて近來朝鮮内でも一人當り米の消費量も增加の勢にあるので、人口の增加につれて、現在のまま推し移るときは、將來内地へ對する朝鮮米の供給力が乏しくなる憂がある。故に産米の增殖によりて朝鮮内の需要にも備へ、同時に内地への供給も確實性を保つようにすることが急務である。」(「朝鮮産米の增殖計畫」中央朝鮮協会、大正15(1926)年)

 そのため、まず反当り収量を増やすことが求められた。当時、内地では反当り1石8斗5升に対して朝鮮では9斗3升しか取れず、内地の半分ほどしかなかったものを、優良種を用い、施肥量を増やし、よく乾燥させるなどして、生産性を高めようとした。

 

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  産米増殖計画について、ある社会学者にある二つの誤解 (anlyznews.com))より引用

 

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   (「一九二〇年代における食糧政策の展開ー米騒動後の増産政策と米穀法ー」大豆生田 稔)より

第一次産米増殖計画の時期(1920ー1925)には反収の伸びがあまり見られない。一方内地では反収、総生産量ともに減少していることに注意。

 

 内地政府(農林省)と朝鮮総督府の双方の思惑が一致して、朝鮮・台湾を含む日本国内での米の安定的供給(供給量と米価の安定)と貿易収支の健全化のために、大規模な計画が立てられたのだ。

 また内地政府は、米騒動のような米不足=米価騰貴による社会混乱を防止するため、米価上昇を抑える方向で政策を立てる。政府による米の売買によって価格調節をするのである。しかし、初めのうちはその実行時期(米の流通時期)、量、価格などの適切さはなかなか的を射ず、悪戦苦闘、労多くして功少ない状況だった。米を貯蔵する倉庫も十分ではなかった。(この米価調節の部分は大豆生田稔氏の労作によるが、まだ十分理解し切れていない)

 

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 (「1930年代における食糧政策の展開ー昭和恐慌後下の農業政策に関する一考察ー」大豆生田 稔)より

 内地消費量と内地米生産量の差を朝鮮米や台湾米で補っている。豊凶作の変動幅が大きい。なお、内地からの移出もあるので、不足量と輸移入量合計は照応しない。また、下のグラフの縦軸目盛の幅が、内地米生産量と輸移入量では違っていることに注意。内地の総消費量が増加傾向であるのに対し、1人当り消費量が減少傾向であることに注意。これは人口増加=幼少人口増加の影響か。

 

 しかし、大正9(1920)年からの第一次計画は、土地改良の実行機関として民間会社にこれを委託しようとしたものの実現に至らず(贈収賄事件のような不祥事があったようだ)、また物価騰貴に伴う工事費の高騰によって採算が取れなくなってしまった

 こうして第一次計画の成果は不十分なものとなり、大正14(1925)年までに9万町歩の土地改良にとどまった

 

 

第二次計画

 大正14(1925)年、むこう14年間に3億3百万円の巨費を投じ、35万町歩の土地改良を完成しようというもの。水利灌漑により18万5千町歩、地目変更により9万町歩、干拓により7万5千町歩である

 費用3億3百25万円の内訳は、①土地改良事業者(一般企業)に6千5百7万円の補助金を与える。②事業者は3千9百48万円を調達する。③残りの1億9千8百69万余円は政府が斡旋して低利の資金を事業者に供給する。③については、その半分は政府大蔵省預金部から東洋拓殖株式会社、朝鮮殖産銀行を経て貸付る。残り半分は東洋拓殖と朝鮮殖産銀行社債を発行することで調達する。金利は年7朱(=分)4厘程度にとどめるというものだった。(未了)

 

 今回は概ね「朝鮮産米の增殖計畫」(中央朝鮮協会、大正15年7月)に沿っている。他に大豆生田 稔一九二〇年代における食糧政策の展開米騒動後の増産政策と米穀法ー」(「史學雜誌 91 10 1552 - 1585, 1647-1648 公益財団法人史学会 1982年10月)、「1930年代における食糧政策の展開ー昭和恐慌後下の農業政策に関する一考察ー」(城西経済学会誌 20 2 37 - 75 城西大学 1984年12月)を参考にさせていただいた。

 次回以降、「産米増殖計画は朝鮮からの米の収奪で、農民にとっては飢餓輸出であった」という論について考えてみます。