『赤い繭』

 安部公房『赤い繭』、久しぶりに授業した。授業では比喩を解くことを中心にした。また主題に関していろいろな生徒の考えを聞いたが、否定もせず、自分の解釈も示したが、どれが正解と言うことではなく、いろいろあってよいということで終えた。

 

 この作品は、自分が高校生の時にも教科書で読んだ。その時に感じたことが今以て自分の感想としてある。感想というか解釈と言うべきか。

 赤はコミュニズムの赤かも知れないが、日の丸の赤と感じた。日の出ではなく没していく太陽。繭の中で時は止まり、沈みかけたままの夕陽が照らしている。

 繭を拾った男はアメリカで、日本を自分の(子供の)おもちゃにした。

 これが高校生の自分が抱いたイメージだ。

 

 1950年の日本はアメリカの占領下にあった。まだ平和条約が結ばれない、Ocupied Japan だった時期、日本がどうなっていくのか分からなかった時期、突然、東西冷戦が朝鮮半島で熱い戦争に転じ、日本は前線基地化していった。敗戦から5年、旧体制の解体が進み、社会主義革命にも似た大変革が行われて戦争協力者が追放されていたが、やがて冷戦がその変革を止め、方向転換し始めた。今度はレッドパージが行われ、アメリカ軍の下で日本の再軍備が許される。

 日本はアメリカの考え次第で(世界の政治情勢の変化によって)玩具のように翻弄された。

 

 『赤い繭』は自分の家を探し求めて流浪する前半と、自分の体をほどいて繭を作り、その中に安住?する後半とに分けられる。

 

 前半は、おそらく作者の満洲での敗戦後の体験が色濃く反映している。内地に比べ、朝鮮や満州は豊かで平和だったろう。ところが8月を境に状況は一変する。召集されて入営直前に敗戦。国家は瓦解し、日本人は何の保護も受けられずに家を追い出され、財産や命を奪われ、流浪することになる。医師だった父親は、チフスの大流行に対処するが、自分も感染して亡くなる。奉天で一冬を越し、二度目の冬を迎える頃引き揚げ船で内地に帰ってくる。

 ルンペン生活(今ならホームレス)の悲哀は、チャップリンの映画さながらだが、私有財産制に懐疑的な主張を(窓の「女」に対して)するのは、共産主義に傾いた影響かも知れない。棍棒を持った「彼」は権力の手先、警察官だろうが、後半とつなげてみると、太平洋戦争で日本帝国を懲罰したアメリカともとれる。

 「彼」は「おれ」を追い立てる。「おれ」の休める場所は刑務所だけである。「おれ」は「さまよえるユダヤ人」のごとく、自分には分からない何らかの罪(あるいは呪い)によって一方的に永遠の放浪という罰を受けている。

 

 後半は別のメタファーが用いられる。「おれ」のからだは解体し、なくなってゆく。しかしその体は糸になり、繭を作って「おれ」を包んでゆく。「おれ」は、ついに繭の中に安住できるのだが、繭の中にあるべき蛹がない。羽化して生まれ変わるべき自分がいないのだ。空虚となった日本。「新生日本」はどこから生れるのか? 没しかけて止まっている太陽。かろうじて残された天皇は人間となり、象徴となったが、何か大切なものが失われた。

 棍棒を持った「彼」は、後半で、線路とレールの間の繭を見て、それが「おれ」のなれの果てだと分かって(夕陽の色に染まっているから分かる)、休んでいることに腹を立てる。完全に放遂したつもりだったのに、しぶとく残っていやがる。だが、考え直してポケットに入れる。これも、このご時世には何かの役には立つだろう。

 

 今回使った教科書では、直後に三島由紀夫の『美神』が載せてある。教員用の指導資料を読んではいないが、ほぼ同年代の2人を対比させようという意識が見て取れる。それでまあ、二十歳前後での敗戦体験、天皇喪失体験を、当時の左右の立場から見たものとして対比的に授業しようと思った次第である。だが、これだと評価が面倒なので、試験問題は教科書傍用の課題集から出題すると言ってある。(しかしこの学習課題集というやつは本当に面白くない、くだらない設問ばかりであると感じる。現代文の授業が往々にしてつまらないといわれるのも当然かと思われる。)

 このあと『美神』の授業についても書くかも知れないがわからない。

 

 どんな授業案があるのかと、ネットをいろいろ見てみたが、自分の感じたようなことを書いているものはあまり見かけない。最後の「彼」についても様々な解釈があるようだ。

 いまだに50年前の高校生の解釈で通用する(ように思う)のは、この作品が普遍性を持っているからか、自分と作者との時代性が近い所為なのか(それでも20歳以上違うが、今の高校生は70歳くらい違うからもう完全に別時代)。