松井光義先生が3月10日にお亡くなりになった。89才だった。
ご冥福をお祈り申し上げます。
先生とは山形地区高校演劇連盟でご一緒させていただいた。大柄で、見た目は怖い感じもあるが、相好を崩してお笑いになる優しい方であった。先生のご指導された日大山形高校演劇部は、初期には先生と故高子実先生のお二人が隔年で指導し、大会に参加するという恵まれた状況にあった。昭和50年代半ば以降の本県高校演劇は、お二人の日大山形高校と天童高校(大谷駿雄先生)、山形西高校(阿部秀而先生)らが毎年東北大会に出場し、全国にも名をとどろかせていた。そこに食い込んでいったのが東根工業高校の清野和男先生で、自分はその頃、高校演劇の世界に入ったのだった。
高子先生が急逝された後は、安部信子先生とお二人で顧問をされていた。
松井先生が代表をしていた劇団山形のお芝居も見せていただいて、作劇について大きな気づきを得さしていただいた。劇団山形は1965年(昭和40年)の設立で、つい最近60周年を迎えたばかりだ。先生はその創立メンバーの中心だった。また、山形県関連の舞台や映像作品にはよくご出演されていた。松井先生が劇団代表を退かれたあとは安倍信子先生が引き継がれた。
タウン誌『やまがた街角』の2014年(平成26年)夏号の特集「山形【演劇】図鑑」に松井先生のトーク・ドキュメントがある。一部引用させていただく。
「劇団結成前の頃、今の演劇鑑賞会の前身にあたる勤労者演劇協議会という集まりがありました。その運営委員としていつも集まるのが、七、八名いました。その中には芝居の大好きな阿部秀而とか私とか、高校の教師などもいました。演劇を鑑賞する会だったので東京から来るいろいろな演劇を観ていました。しかし「観るだけではつまらない。俺たちで劇団をつくろう」という思いが生まれ、そうしてできたのが劇団山形でした。昭和四十年のことです。」
「また、役を演じることの他に装置づくりも大変でした。幸い、劇団立ち上げを一緒にした阿部秀而さんが山形工業高校の方の演劇部の顧問だったことで、体育館の地下の暗い部室を借りて装置づくりができました。劇団員達は大道具などの装置づくりはほとんどが初めてだったので、多くは阿部先生と私が二人でつくりました。コツコツとよくやったと思います。」
自分が山形北高にいたころ、地区の顧問たちで一泊の懇親会をしたことがある。黒沢温泉という、まわりになにもない温泉宿である。わいわい飲み明かして、もう寝ていた松井先生を布団から起こして外へ飲みに行こうとしたが、まあ、宿の周りは真っ暗なのであった…。今思えば、先輩・後輩入り乱れて語り合う場は貴重だった。
本県も高校生が減り、演劇部が減り、顧問も経験者がいなくなって、演劇に打ち込もうなどという人もみあたらないようだ。あの、顧問同士の、舞台をいかに創り上げるか競い合う緊張感と闘志のような熱意の交錯が、つまり、なんらかの(同志的な?)つながりがもう感じられなくなった。高校生の芸術文化活動が衰退することは、地域の芸術文化の裾野を小さくし、レベルの低下に直結してゆくように感じる。それはスポーツについても言えるだろうが、まだ体育科に競技の専門の方がいれば維持できるだろう。
時代は流れて行く。自分もあんなにのめり込んだ高校演劇から離れてもう10年、人間の作った「物」は幾年かは残るだろうが、舞台で上演される演劇はその場限りで消えてなくなる。その時会場を包んだ熱気や感情の昂揚などは、そこで同時に観た人にしか分からない。そしてそれも、やがて時間の彼方に去ってゆき、誰も知らないこととなって消える。
まあこれが無常というものである。