新年に思うこと

 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

 

 パソコンが新しくなり、起動が速くなって快適です。モニター画面も少し大きくなって見やすくなりました。二台のモニターを使って作業ができるようになったので、資料を広く展開しながら文書が作れるようです。

 

 年末年始は有給休暇をまとめ取りして、10日から出勤という状況。2月末の退職までに年休を完全消化するつもりです。

 共通テストが迫っていて、3年生はもっとも大変なところ。

 

 YouTube宮台真司の出ているものを見ていたが、今の学校の(大学や進学校の高校だろうが)先生と学生そして授業について、「とんま同士のクソ」だというような評価があった。アクティブラーニングなどと言って生徒同士が議論しても、何が生まれるわけでもなく、授業時間の消費でしかないと。(とんまな)生徒からの授業評価によって「改善」して「分かりやすい授業」になってゆけば、それは「授業の劣化」であると。まさにその通りで、すこぶる興味深い。

 だが、普通(そして普通以下)の学力の生徒が通う高校では、それ以前の問題が大きい。宮台氏の考えるのは、この国を動かしてゆくレベルの人間の養成という観点が大きいのかもしれない。あるいは「劣化した日本、その国民全体」への絶望が深いように感じられる。大国における民主主義の不可能性についてもたびたび触れている。考えさせられることが多い。

 

 ある日、授業が本題からそれて(そらして)米の話になった。江戸時代は人口三千万人で、田んぼが三百万町歩、三千万石の米がとれた。明治時代になって人口が急増し、七千万人にまでなった。七千万石の米が必要である。君たちならどうする? と聞いたところ、最初に出てきた答えは「米以外のものを食べる」「食べる米の量を減らす」だった。唖然としたが、それは結局のところ、飢餓の平均化という配給制になってゆくのではないか。しかし、なかなかそれ以外の答えが出ない。

 解決策の一つは開墾して水田面積を広げる。二つは単位面積当たり収量を増やす。そしてもう一つは輸入する、だ。

 江戸時代に開墾が進み、明治時代以降は干拓も行ったが、大幅な水田面積の拡大は限界があった。そこで灌漑設備を整備し、窒素肥料を増やし、農法の改善を行った。そうして、朝鮮や台湾という新しい国土での稲作を推進し、生産したコメを移入した。

 生徒には発想ができないのか。発想の仕方がわからないのか。発想の前提となる基礎的な知識がないのか。

 授業の中で「考え」た経験がないのだ。詰めこまれた知識を思い出して答えることが考えることではないし、公式に当てはめて答えを出すことが考えることではない。

 授業する側の教師も「考える」「考えさせる」ことが苦手なのではないか。今までの教育の中で優秀な(順応した)生徒だった人々なのだから。宮台氏の絶望の深さに共感しつつ、自省しなければならない。

 

 これから芝居を観に行くので、途中ですが一応ここでアップします。

 

 芝居を観てきました。いろいろ考えさせられました。

 

 二兎社の『歌わせたい男たち』です。脚本も役者も良かった。

 

 ネタバレになりますのでご注意。

 舞台は某都立高校の保健室。開演前から見えている舞台美術は極端な遠近法のパースである。パネルが奥に行くに従い低くなる。上手に養護教諭のデスク。出入口。下手にカーテンで仕切られたベッド。校庭、校門が見える設定の窓。中央にソファとテーブル。引き戸の出入り口も台形になっている。上に屋上のセットが張り出している。それは下の保健室とは逆に中央が前方に突出している三角形である。柵、塔屋とラウドスピーカーがある。

 卒業式直掩の二時間のお話。この時期に異例の採用となった元シャンソン歌手の音楽講師を中心に、校長と二人の教師が、卒業式での国歌斉唱に起立しないことをめぐって対立するお話。どうしても国歌の伴奏者が必要だったのだ。「対立」といっても、校長は起立を懇願している。どれだけの不利益が課せられるかを滾々と説く校長。しかし社会科教師は納得しない。英語教師は自国の国旗・国歌を尊重しない者は他国の国旗をも尊重しないとされると危惧する。都教育委員会や指導主事の指導(研修の強制)、処分を恐れる教師たち。

 昔の学校は組合の力が強く、職員会議も挙手による多数決で議決されていた。(今は管理職である校長の決裁という形で決まる)組合も教員の生活、勤務条件などを超えた政治的問題を現場に持ち込んでいたが、それは職場の人間関係をいたずらに対立させ、かき乱した。ひどいところでは自殺者も出た。この芝居でも、万策尽きた校長が、一人でも起立しなければ屋上から飛び降り自殺することを宣言する。(自分はこの場面で市ヶ谷での三島由紀夫の演説を思い出してしまった。)

 観客は笑っている。板挟みになり苦悩する教員たちの戯画化された有り様を笑っている。舞台上では、本当は泣きたい社会科教員も苦し気に笑っているが、両者の笑いの質は微妙に、しかし決定的に違っている。

 作者は答えを書かない。ラストシーンでは、この後皆起立し無事伴奏が弾かれることを予想させるが、結局のところのこの騒動の原因を直接には書かない。暴いて糾弾するというようなことはしない。いや、社会科教師の敗北感を感じさせる点では、国旗・国歌反対の運動に傾いてはいるのだろう。『ザ・空気』に顕著だったような現体制批判が内側に籠ったような感じだ。にしても、問題の本質が何か、は観客の理解にゆだねられている。

 校長は言う。内心の自由はいかなる時も保証されている。内心でどんなに国歌を嫌っていても罰せられることはない。しかし行動に表した時にはそれはもう内心ではない。

 たしかに心の中で殺してやると思っても罪にはならないが、実際に殺してしまったら罰せられる。内心を隠して切支丹が形ばかり踏み絵を踏むようなものだということだろう。しかし踏み絵を踏まない人がいたのも事実である。正義はどちらにあるのか。寛容はどちらにあるのか。己の正義を断固貫き、不正義を打倒するのか、他の正義をも認め包摂し、対立を止めるように努めるのか。むずかしい。