堀三也の最期

 ひょんな事から阿部一郎のお孫さんとお話しすることができた。「Mさん」とさせていただく、その方のお話から堀三也の最期の様子がより詳しくわかった。ただ60年以上前のことで、Mさんやそのご姉弟の記憶も今や定かではない。以下、Mさんのお話を中心にまとめてみた。

 

 昭和34年(1959)8月30日(日)、午後6時10分、肝臓癌のため病の床に伏していた一郎が亡くなった。満79才(数え81才)だった。阿部一郎は山形の農業に関わる大功労者である。戦時中は食糧営団の理事長、戦後は振興審議会の農林部会長を務めた。謹厳な実直な人柄で、食糧営団の理事長になったときは、食料に困らないでしょうと言われたが、一郎は配給以外認めず、家族は困ったそうだ。先頃廃業した「りょうこく(創業時、山形糧穀加工)」の社長でもあった。下に当時の新聞に掲載された訃報と死亡広告を転載する。マイクロフィルムからのコピーなので不鮮明な部分がある。一応書き起こしてみた。

昭和34年9月1日山形新聞朝刊5面

阿部一郎氏(山形糧穀取締役会長)

三十日午後六時山形市六日町一五一の自宅で老衰のため死去、八十一歳。葬儀は四日午前十一時から山形市七日町の長源寺で社葬で行う。旧山形中学卒業、旧村山農学校教諭を経て県技師となり、明治、大正、昭和の三代にわたり本県農業の発展につくした。また昭和二十二年県総合開発審議委員会が設置されると同時に審議会副会長に推され、いらい今日まで副会長として本県の総合開発につくし、この間の功労により藍綬褒章が授与されている。東北大学名誉教授阿部次郎氏の実兄である。

 

昭和34年9月1日山形新聞朝刊3面下段

弊社取締役会長 阿部一郎 儀予て病気療養中のところ養生相叶わず八月三十日午後六時十分永眠致しました

茲に生前の御厚誼を深謝し謹んで御通知申し上げます

 追て告別式は九月四日午前十一時より七日町長源寺に於て社葬を以て執り行います

  昭和三十四年九月一日

        山形市宮町二九九一

      山形糧穀加工株式会社

       嗣子   阿部 襄

       親戚総代 阿部次郎

       友人代表 安孫子藤吉

       同    秋葉久兵衛

       同    梶原茂嘉

      葬儀委員長 金山国次郎

 

弊社顧問 阿部一郎 儀八月三十日午後六時十分永眠致しました

茲に生前の御厚誼を深謝し謹んで御通知申し上げます

  昭和三十四年九月一日

      山形県米穀株式会社

      山形陸上運送株式会社

      東邦物産株式会社

      両羽不動産株式会社

      山形県食糧事業協同組合連合会 

 

 山形新聞の九月初めの紙面では、他に追悼記事のようなものは見当たらなかった。

 

 一郎の孫のMさんは当時中学1年生だったが8月末まで夏休みだったという。Mさんの母親は一郎の三女である。戦前は香港にいて戦後引揚げて来たが、夫の斉藤氏は抑留の身で、行く当てのないMさんの母は三人の子とともに実家に身を寄せ、その後夫が帰国しても同居していた。

 

 

 昭和34年山形市街図 山形市六日町151の阿部一郎宅。今は駐車場になっている。

 

 一郎宅があったのは熊野神社と天然寺墓地の間の細い通りで、自分も小さい頃、銭湯や友人宅へ行くのによく通った道だが、昼なお薄暗いという印象がある。両側に樹木が多かったせいだろうか。上図の神社社務所のすぐ北がライオンパン(後に日大山形高校の近くに移転、最近廃業した)で、社務所の向かい側に阿部医院があった。

 一郎は入院も手術もせず(当時はなすすべがなかったのだろう)、近所の阿部医師が診察していた。妻のしをは31年頃に亡くなっているので、Mさんの母が一郎の面倒を見ていたが、過労で倒れることもあった。最期近くはモルヒネを使い、死が早まるがいいかと医者に言われ、Mさんの母は「いたしかたありません」と答えた。その声は今もMさんの耳に残っているという。

 

 死亡広告では親戚総代が阿部次郎になっているが、次郎は仙台で病臥中で兄の死も分からず、来られる状態ではなかったはずだ(この年10月20日歿)。おそらく弟の三也が名代になっていたと推測される(それはもちろん三也自身の意向だったろう。三也の急死後、誰がその代役を務めたかはさだかでない)。

 三也は長兄一郎の危篤あるいは訃報を聞くと30日(日)の夜行か31日(月)早くの列車で東京からやってきたのだろう。仙台の次郎を見舞ってから仙山線で山形に来たと思われる。仙山線なら北山形駅で降車したかもしれない。駅から一郎宅までは歩いても1㎞足らずだがやや上り道で、軍人上がりとはいえ、年齢を考えれば自動車だっただろう(ハイヤーか糧穀差し回しの車だったか)。31日はいろいろ段取りを済ませて一郎宅で夕食をとり、一郎の遺体がある部屋で一泊したようだ。翌9月1日(火)の午前中はMさんとその弟を連れて、護国神社近くの団子屋にぬた団子を食べに行った。好物だったらしい。その店はもう無い。

 郷里の松山町山寺から、阿部家に縁の深い寶蔵寺二十三世住職の佐々木喆山和尚(59才)が来た。時刻は不明だが、喆山によって通夜の仏事が行われ、三也がその礼を言うべく喆山の前に出たまさにその時、突然に動脈瘤が破裂し、三也は血を吐いた。その場にいた人達は仰天し、長男襄の妻清は失神した。

 三也は口元を押さえながら玄関に向かったが外に出る前に昏倒した。畳には拍動にしたがってか点々と血がこぼれた。阿部医師が駆けつけ三也を看たが、首を横に振った。すでに意識はなかったのだろう。満71才だった。三也自身あるいは彼の家族が、動脈瘤のことを知っていたかどうかは不明である。自覚症状がなければわからなかったかもしれない。

 Mさん以下の年齢の子供たちは親戚の家に移された。

 畳の血を拭き取るため、Mさんの姉たちが数軒の薬局を回り、オキシフルを大量に買ってきた。薬局で何に使うのか聞かれたが、上の姉が言うなと止めたとか。拭いても拭いても(バケツの)水が赤くなった。

 

 上図はMさんが書いた一郎宅の間取り図である。東(右)側が通りで南側は広い庭でいろいろな木があった。西側は天然寺の墓地である。一郎の遺体は東の十二畳の間に寝かされていた。後に三也の遺体は南側に、一郎の遺体は北側に置かれたというから、初めから北側に西枕で寝かせられていたかもしれないが、仏壇の前でお勤めをするのに支障がなかったかどうか。あるいは東側に北枕であったかもしれない。いずれにせよ、喆山和尚の前に出た三也は喀血と同時に東や南の廊下に出ることはなかった。玄関に至る八畳にはMさんたち子供もいたが、おそらく親族や弔問客や糧穀加工の社員やらが居並び、西側しか空いていなかったのだろう。

 

 一郎と三也と二人の遺体が並ぶ部屋で神父が最期の儀式を行った。おそらく香澄町のカトリック教会から来た方だろう。今もその教会の玄関上には、かつて一郎の母ゆきの寄進した「よき牧者=仔羊を負うキリスト像」が飾られている(マリア像と勘違いしていた)。

 一郎の家にはカトリックの祭具は何も無かった。ただ兄弟の誰かが、敬虔なカトリック信者であった母親ゆきのためにヨーロッパで買ったものだというマリア像があった。昭和2年(1927)に母ゆきが、翌3年(1928)に父富太郎が亡くなってから30年以上、ずっと一郎が持っていたのだろうか。それを使って儀式が行われたのだという。
    

        


 像は高さ30~40㎝ほどのもので、今ではだいぶ痛んでいるがMさんが持っている。

 

 三也の遺体は翌9月2日(水)、息子二人が引き取りに来た。次男俊夫(40才)と三男武夫(37才)であろう。二人とも、「父は神のもとに旅だったのです」と言い、悲しみを見せなかったという。当時、三也と息子は東京で薬屋「三位堂」を営んでいたはずである。
 阿部家の人々は一郎の葬儀で忙しく、三也の息子たちがどうやって遺体を東京に移したかはわからない。そんなわけで、三也の葬儀には山形からは誰も参列していないようである。


 一郎の葬儀は9月4日(金)に七日町の長源寺で行われた。糧穀株式会社の社葬であり、社員たちが大勢手伝ってくれた。Mさんも参列した。この一週間は忌引きで学校に行かなかっただろうが、あまり記憶が無いそうで、ただ葬式の菓子の落雁などが山盛りであったことを覚えているという。

 

 自分の家族は当時市内旅篭町、といっても旧県庁裏に住んでいた(一郎宅とは直線距離で150m、歩いても300mほどでしかない)ので、母はごく近くにかつての主人である堀三也が来ていたこと、そして突然亡くなったことを知っていただろうか? 新聞記事では阿部一郎の死しか報ぜられていない(もっともわが家は読売新聞だったが)から、三也の死までは知り得なかっただろう。一郎の葬儀に東京から来るだろうとは思ったかも知れないが、今となってはわからないのである。