堀三也夫妻とルルドの泉の写真

 一枚の写真がある。

 

 

 この写真には、軍装の礼服を着た堀三也が、紋付きの和服で椅子に座る妻九重とともに写っている。右に修道士か神父のような外国人と紋付き羽織袴姿の老年の日本人が立っている。

 背景は一見してフランスの「ルルドの泉」であることが察せられる。

 カトリック信者であった堀は大正11年(1922)~13(1924)年頃の2年間フランス駐在武官であったから、その間にピレネー山脈の麓にある聖地を訪れたものかと考えられた。なお、三也の兄の阿部次郎も同じ時期に渡欧している。

 

 だが、よく考えてみると三也の娘二人は当時まだ 9 歳と 7 歳で、二男は 3 歳、三男は大正11年(1922)生まれなのでまさに渡仏前後に生れたことになる。嬰児を含む幼い子供たちを連れて夫婦が渡欧することは考えられず、また九重の母堀ゑい(50 歳半ば)に預けて渡欧したと考えても無理がある。九重もずいぶん若いように見える。

 もし上の姉妹が同行していたとしたら、少女たちはこの異国の聖地の奇跡、聖女ベルナデッタの生き方などに強く影響されたことだろうが。それが後に彼女たちが修道女になるきっかけになったかも知れない。筆者の母も、堀家にいる間に、「聖女ベルナデッタ」の話(遺体が生きているかのようであるという話)を聞かされている。

 

 この写真を見せてくださった、堀三也の長兄阿部一郎のお孫さんであるMさんの姉妹は、この写真に漢字の書かれた額が写っていることから、日本にあるナンチャッテ聖地ではないかと言っていたそうだ。実際、国内にもルルドの泉を模したものが、古くは明治32年(1899)の長崎五島列島で造られている。他にも多くの模造がある。しかし、多くの国内模造洞窟は小さな石を積み上げたりしたもので、見るからに本物とは違う。三也の写真に漢字の書かれた額があるのは、おそらく極東からも多くの巡礼者が来ていたからではないか(巡礼者への注意書きか病気治癒への感謝の辞か)と推察した。

 しかし、どうも確信が持てず、ネットでルルドの泉の写真を検索したところ、鉄の柵のデザインは実際のルルドの泉と同じであるようだった。だが、マリア像と奥の祭壇の形が微妙に違う。現地の様子も撮影年代によって、岩壁に松葉杖が無数に掛けてある(この泉の水で足が治った者が置いて行く)ものもあれば、それが無い時期もあるので、祭壇の形などが違うのは時代の違いかとも思った。

 

 

 あれこれ探す内に、写真にそっくりの場所があった。それは東京都文京区のカトリック関口教会にある「ルルドの泉」であった。これは明治44年(1911)にフランス人宣教師ドマンジェル神父によって、実物と同じ大きさに造られたものだという。

 鉄柵が違っているが、岩の様子や祭壇の形が一致する。なにより、額が掛けてある。先の写真は、フランス駐在武官当時の写真ではなかったということだ。

 

 というわけで、結論は、先の写真は堀三也夫婦の結婚式を関口教会で行った時のものだろうということになる(実際は結婚式は1912年12月に関口教会で行われたといい、この写真はその時のものではなかった。なお後日記参照)。堀は明治44年(1911)5月27日に陸士を卒業し曹長、見習士官として原隊復帰した。12月26日には少尉任官。おそらくは明治45年(1912)9月の明治天皇ご大葬の後、前年に完成したばかりのこの「ルルドの泉」の前で二人は結婚の記念撮影をしたのだろう。三也と九重は四ヶ月違いの同い年で24歳だった。

 写真の正装の二人は、今ならもっと近く並んで撮影に臨んだであろうが、微妙に距離があって、これは初々しさと言うべきか。堀九重は明治40年(1907)女学校卒業後山形にいたのだろうが、阿部三也の陸軍士官学校卒業を待って上京し結婚したものか。その時には三也の、堀家への養子縁組が同時に行われただろう。そんな新しい人生に臨む緊張感が二人の表情からうかがわれるように感じるのは自分の思い過ごしか。

 右の老人は仲人であろうか。山形の親戚は呼ばれなかったか。東京に居た次郎はお祝いに来たのだろうか。

 和服の二人の履き物が、不明瞭ながら靴か、爪掛けの着いた下駄のようにも見えるので、足元の悪い天気の日か季節のことではなかろうかと思う。影もはっきりしないので曇天だったのだろう。

 入籍は大正2年(1913)4月である。10月には第一子の長女三重子が生れている。

 堀三也はフランスには単身赴任したものと思われる。そして実際のルルドに行ったかどうかは定かではない。

 

(後日記、写真の神父がヨセフ・フロジャック神父だとすると…よく似ている…関口教会には大正6年から赴任しているので、三也の結婚式ではないということになる。めでたい行事として大正天皇ご即位の式典も大正4年なのでそれでもないだろう。)

 

(付記)

 最近、『九州大学学術情報リポジトリ』で「竹岡勝也の肖像」(山口輝臣)という論文を読んだ。勝也は三也の5歳下の弟(五男)である。その中に親族の系図があり、これは新関岳雄氏の本にあるものよりもわかり易く、洗礼名が付してある。それによれば、三也の洗礼名は「ペトロ」、九重の洗礼名は「マリア」である。初めて知ることができた。

 九重に千代子という妹がいたこともわかるが、この妹については、山形高等女学校の同窓会名簿には見当たらず、詳細不明である。

 

 余談だが、竹岡勝也は村岡典嗣の創めた東北大学日本思想史研究室を再興した人である。自分はその後任の石田一良教授時代の至らぬ学部生だった。その後、玉懸博之教授から自分と同期の佐藤弘夫教授へと主宰が移った。最近メディアに出る先崎彰容も東大卒業後、日本思想史博士課程で学んでいる。